第96話 忘れられることを恐れた理由
第96話 忘れられることを恐れた理由
「……もし、私が世界の創造を望まないままだったら」
白い花が咲く虚無の中で、少女は小さく問いかけた。
「あなたたちは、それでも私の話を聞いてくれる?」
その声には、先ほどまでの警戒とは違う響きがあった。
試すような言葉ではない。
答えを知っている者の問いでもない。
ただ、本当に確かめたかったのだ。
自分が世界にとって都合の悪い存在だったとしても。
自分の願いが、誰かの望む未来を壊すものだったとしても。
それでも、自分の声を聞いてもらえるのか。
リリアは、少女の目をまっすぐに見つめた。
「聞くよ」
迷いのない返事だった。
「あなたが何を望んでも、最初から間違いだとは決めつけない。世界を創ることに反対した理由も、まだ言葉にできていない気持ちも、全部聞きたい」
「……でも、私の願いが世界を壊すかもしれない」
「その可能性はあると思う」
リリアは、都合のいい慰めを口にしなかった。
「だけど、あなたの願いを聞かずに世界を守ることと、あなたの願いを聞いたうえで未来を考えることは、同じじゃないよ」
少女は唇を結んだ。
その背後で、崩れた空間の欠片が音もなく回転していた。
そこには、選ばれなかった未来が映っている。
誰にも出会わなかった未来。
誰かと別れずに済んだ未来。
創造が始まらず、すべてが永遠に可能性のままであり続けた未来。
その一つ一つに、確かに存在したはずの意味があった。
「私はね……」
少女は、ようやく口を開いた。
「世界が生まれたら、みんな幸せになれると思っていたの」
アレンが静かに顔を上げる。
「新しい世界ができれば、今までなかった命が生まれる。出会いが生まれる。誰かが誰かを好きになって、失敗して、やり直して……そういう未来が、たくさん生まれるって」
「それは、今の世界にもあるよ」
ミラの言葉に、少女は小さく頷いた。
「うん。だから、私も最初は賛成したかった」
少女の指が、白い花の飾りに触れた。
「でも、気づいてしまったの」
「何に?」
セフィルが尋ねる。
少女は、足元に広がる虚無を見下ろした。
「世界が生まれるということは、何かが選ばれるということ。選ばれた未来が現実になれば、それ以外の未来は、ただの可能性として片づけられてしまう」
「……」
「誰かが生まれる未来が選ばれたら、その人が生まれなかった未来は、最初から意味のないものになるの?」
少女の声が震えた。
「誰かが愛される未来が選ばれたら、愛されなかった未来で泣いていた人の気持ちは、なかったことになるの?」
誰も答えなかった。
答えられなかったのではない。
その問いに、簡単な正解を与えてはいけないと分かっていたからだ。
「私は、世界が嫌いだったわけじゃない」
少女は続けた。
「むしろ、好きだった。まだ何もないのに、そこに生まれる命を想像していた。みんなが自分の未来を選べる世界になったらいいなって、思っていた」
そこで彼女は、初めてアレンを見た。
「でも、世界を創るために、私の気持ちを後回しにしてもいいと言われたとき……怖くなったの」
アレンの表情が強張る。
「一度だけなら、我慢できると思った。私が少し黙っていれば、世界は生まれる。みんなが幸せになれるかもしれない。それなら、私の気持ちくらい……」
少女は首を横に振った。
「でも、一度、自分の気持ちをなかったことにしたら。次も、その次も、きっと同じことになる」
白い花が一輪、彼女の足元で揺れた。
「世界のためだから。みんなのためだから。あなた一人の願いより、大勢の未来のほうが大切だから」
少女の瞳に、涙が浮かんだ。
「そうやって、私が何を考えていたのか、どうして反対したのか、誰も覚えていなくなる。最後には、私が反対したことさえ、間違いだったから消されたんだって、そういう記録だけが残る」
リリアは胸の奥が痛むのを感じた。
それは、かつて自分が経験したことと、どこかで重なっていた。
理由を知らされないまま裁かれたこと。
誰かを守ろうとした選択が、禁忌として記録されたこと。
そして、自分が何を望んでいたのかさえ、他人の言葉で決められそうになったこと。
けれど、リリアは自分の経験を少女に重ねて、分かったつもりにはならなかった。
「あなたが一番怖かったのは、忘れられること?」
「……それだけじゃない」
少女は、涙を拭かなかった。
「忘れられたら、悲しい。でも、それよりも……みんなが私のことを忘れたあとで、私が反対した理由まで、間違いだったことにされるのが怖かった」
その言葉が、虚無に響いた。
「私は、世界を壊したかったわけじゃない。みんなを不幸にしたかったわけでもない。ただ、私の気持ちを聞いてほしかった。私が何を恐れて、何を大切にしていたのか。それを知ったうえで、みんなに決めてほしかった」
少女はアレンを見つめた。
「あなたにも」
アレンは、目を伏せた。
以前の彼なら、きっとすぐに謝っただろう。
自分が悪かったと認め、少女の苦しみを少しでも軽くしようとしただろう。
けれど今は、言葉を急がなかった。
「……君が話し終えるまで、聞く」
それだけを口にした。
「君の代わりに結論を出さない。君の気持ちを、俺が正しい言葉に直したりもしない」
少女は、しばらく彼を見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとう」
その瞬間だった。
虚無全体が、低く震えた。
《再評価まで――残り十一時間》
空中に浮かぶ文字が、冷たい光を放つ。
《第三の存在の意思を確認》
《世界創造への反対理由――一部理解》
《最終的な意思――未確定》
そして、新たな一文が刻まれた。
《警告:意思の保留は、世界の安定性を低下させる》
足元の白い花が、次々と透明になっていく。
ミラが杖を握り直した。
「ちょっと待ってよ。話を聞く時間すら、世界は許してくれないっていうの?」
「違う」
レオンが、崩れ始めた空間を見据えた。
「許していないのは世界そのものではない。世界に一つの結論だけを求める、あの存在だ」
虚無の向こうに、あの一つ目の光が浮かび上がった。
外側の存在。
すべてを分類し、役割を与え、分類できないものを消そうとするもの。
『対話は確認された』
声が響いた。
『だが、理解は結論ではない。第三の存在は、世界創造を認めるのか。それとも拒絶するのか』
少女は身を固くした。
『十一時間後、再評価を行う。意思が確定しない場合、未確定の存在を含む不整合要素を一括して処理する』
「処理……?」
セフィルが顔を上げる。
『第三の存在。記録の保護者。記録の受領者。創世の理に接続する者。そして、世界の成立条件に矛盾するすべての存在』
その言葉に、アレンの手がリリアの前へ動きかけた。
しかし、彼は途中で止めた。
リリアを守るために、彼女の選択を奪わない。
それが、今度こそ守るべき約束だったからだ。
リリアもまた、少女の前に立ちはだかることはしなかった。
代わりに、彼女の隣に立った。
「十一時間で、答えを出す必要はあるの?」
リリアの問いに、外側の存在は即座に答えた。
『世界の成立条件を満たすためには、必要である』
「あなたが必要だと決めたの?」
『世界を維持するために必要だ』
「なら、世界を維持する方法が、ほかにないかどうかは調べたの?」
一瞬、光が揺らいだ。
ほんのわずかな沈黙。
けれど、リリアは見逃さなかった。
『代替条件は存在しない』
「まだ見つかっていないことと、存在しないことは違うよ」
リリアの手の甲に、創世の紋様が浮かび上がる。
力が反応している。
だが、彼女はすぐには使わなかった。
ここで世界の法則を書き換えれば、少女の意思を聞く前に、別の結論を押しつけてしまうかもしれない。
世界を守るために少女の願いを消すことも。
少女の願いを守るために、世界そのものを壊すことも。
どちらも、今の彼女が選ぶべき答えではなかった。
「だったら、私は代替条件を探す」
『時間が不足している』
「足りないなら、どうして足りないのかを調べる。必要なら、時間の使い方そのものを変える」
『世界の法則に干渉するつもりか』
「ううん」
リリアは、少女を見た。
「世界の法則を変えるかどうかも、まだ決めない。でも、選択肢が一つしかないと決めつけることには、従わない」
少女は驚いたように目を見開いた。
リリアは微笑んだ。
「あなたが自分の願いを決めるまで、私たちも考えるよ。あなたに答えを急がせないために、私たちができることを」
「……もし、私が最後まで世界の創造を拒んだら?」
「そのときも、あなたの話を聞く」
リリアは答えた。
「そのうえで、みんなで向き合う。あなた一人に、世界のすべてを背負わせない」
少女の目から、涙が一粒こぼれ落ちた。
それは地面に触れる前に、白い花へと変わった。
花弁の中央に、小さな光が宿る。
《第三の存在――意思の記録を更新》
《新規記録:本人の願いは、まだ確定していない》
《付記:未確定であることは、意思が存在しないことを意味しない》
外側の存在が、初めて明確な警告を発した。
『その記録を、成立させてはならない』
「どうして?」
少女が、震える声で尋ねた。
『未確定の意思を認めれば、世界の成立条件そのものが変化する』
「……それの何がいけないの?」
『世界は、確定したものによって維持される』
少女は、涙を拭った。
そして初めて、外側の存在を真正面から見つめた。
「だったら、あなたは……私がまだ決められないことを、最初から許すつもりがなかったのね」
一つ目の光が、強く輝く。
『未確定の意思は、不安定である』
「そうかもしれない」
少女は答えた。
「でも、私はまだ、決めていない」
彼女は白い花を両手で包み込んだ。
「世界を創るかどうかも。私が何者になるかも。あなたの言うとおりにするかどうかも」
そして、はっきりと告げた。
「それを決めるのは、私よ」
その瞬間、虚無に浮かぶ無数の未来が、一斉に輝いた。
選ばれなかった未来が消えたわけではない。
ただ、そのすべてが、初めて記録の中に残されたのだ。
《未確定の未来――保存を開始》
《世界の安定性――再計算中》
《成立条件に、新たな可能性を検出》
外側の存在の光が、細く揺らいだ。
そして、リリアたちの背後で、誰も触れていない銀の指輪が音を立てた。
カイルの指輪だった。
ひび割れた表面に、新しい文字が浮かび上がる。
《記録の受領者――照合開始》
《照合対象:第三の存在》
《警告:記録の受領者が確定した場合、保護者の記憶が解放される可能性あり》
カイルが息を呑んだ。
「……保護者の記憶?」
指輪の奥から、かすかな声が聞こえた。
それは、これまでの誰の声とも違っていた。
幼くもなく、老いてもいない。
男性とも女性とも断定できない、遠い記憶のような声。
『彼女が、自分の意思を記録に残せたなら』
一度、声が途切れる。
『今度こそ、私も……自分が何をしたのか、思い出さなければならない』
カイルの顔から血の気が引いた。
指輪の記録に刻まれた文字が、一行だけ書き換わる。
《記録の保護者:カイル・エルデン》
その下に、これまで空欄だった項目が浮かび上がった。
《記憶の封印に関与した者――未確定》
そして、そのさらに下。
誰かが消そうとしていたらしい文字が、ゆっくりと現れ始めた。
《記録の本来の所有者――》
そこまで読めた瞬間、虚無の奥から、外側の存在の声が響き渡った。
『その記録を開くな』
だが、今度は指輪が、その命令を拒絶した。
銀の光が、白い花と共鳴する。
文字が、一画ずつ浮かび上がっていく。
そして、最後の一画が刻まれる直前。
リリアの胸の奥で、前世の記憶が激しく揺れた。
処刑前夜。
あの薄暗い牢獄。
自分に選択を迫った、フードの人物。
――私は、あなたが生きていてほしい。
聞き覚えのある声が、記憶の底からよみがえる。
――たとえ、あなたが私を忘れてしまっても。
リリアは息を止めた。
今の声と、あの夜の声。
その響きが、重なっていた。
しかし、名前だけが思い出せない。
指輪が、最後の文字を刻もうとする。
そのとき、少女がリリアの手を握った。
「待って」
彼女は、初めて自分からリリアに触れた。
「その記録を開く前に……私も、確かめたいことがあるの」
少女は指輪を見つめた。
「もし、その記録が私の意思を残したものなら。そこにはきっと、私がまだ思い出せていない、もう一つの願いがあるはずだから」
外側の存在が、冷たく告げる。
『残り時間、十時間五十九分』
少女は目を閉じた。
「……今度こそ、誰かに決められる前に、思い出したい」
白い花が、静かに開いた。
そして、花の中心から聞こえた声が、リリアたちに新たな問いを投げかけた。
『世界が生まれる前、私が最後に願ったことを――あなたたちは、本当に知りたいの?』
誰も、すぐには答えなかった。
その願いが明らかになったとき。
世界を守ることと、少女の意思を守ることは、本当に両立できるのだろうか。
それとも、彼らはまだ知らないだけなのだろうか。
第96話 終
次回、第97話「創世の前に残された最後の願い」




