第95話 第三の存在が拒んだ世界
第95話 第三の存在が拒んだ世界
黒い扉が開いた。
その向こうにあったのは、闇ではなかった。
星のない夜空のような空間に、無数の光が漂っている。けれど、その光はどれも途中で途切れ、完成する前に消えかけていた。
世界になるはずだったもの。
選ばれなかった未来。
そして、誰にも聞かれなかった願い。
私は、足を踏み入れた瞬間にそれを感じた。
「……ここには、世界になれなかったものが残っているのね」
隣にいたアレンが、静かに頷いた。
「おそらく、世界を創る前に検討された可能性の記録だろう」
原初の観測者は、扉の外に立ったままだった。
「僕は、ここから先へは行かない」
アレンが振り返る。
「どうしてだ?」
「この対話は、君が自分の意思で望んだものだ。僕が同席すれば、君の記憶や判断に影響を与えるかもしれない」
「……わかった」
アレンは少し考えてから、私を見た。
「リリア。君はどうする?」
「一緒に行くわ。ただし、私が代わりに答えを決めることはしない」
「それで十分だ」
私たちは、光の途切れた空間を進んだ。
やがて、中央に小さな白い花が見えた。
その花のそばに、一人の少女が座っていた。
淡い金色の髪。
橙色の瞳。
白い花の髪飾り。
けれど、彼女は以前、私たちが出会った少女とは違っていた。
あの少女は、自分の名前を選ぶために考える時間を求めていた。
目の前の少女は、長い間、誰かが来るのを待ち続けていたように見えた。
「……来たんだね」
少女は顔を上げた。
その視線は、私ではなく、アレンに向けられていた。
「あなたが、私の願いを聞きに来た人?」
「そうだ」
アレンは彼女の前で立ち止まった。
「君が何を望んでいたのか、教えてほしい」
少女は、しばらく彼を見つめていた。
そして、小さく首を横に振った。
「その前に、聞かせて」
「何を?」
「あなたは、今も世界を創ることが正しいと思っている?」
アレンは答えなかった。
簡単に答えられる問いではなかったからだ。
世界があるからこそ、私たちは出会えた。
仲間と笑い、誰かを愛し、失ったものを悼み、それでも未来を選ぶことができる。
けれど、その世界が、誰かの意思を確かめないまま創られたものだとしたら。
「……わからない」
アレンは、正直に答えた。
「世界を創ることが正しかったのか、今の俺には断言できない。ただ、今ここにいる人たちが生きていることまで、間違いだったとは思いたくない」
少女は、静かに目を伏せた。
「あなたは、昔も同じことを言った」
アレンの表情が変わった。
「俺を知っているのか?」
「知っているよ。あなたは、世界を創ることに反対していた私に、何度も話しかけてくれた」
少女は、足元の白い花を見つめた。
「あなたは、私の意見を間違いだとは言わなかった。世界を創れば、たくさんの人が生まれるかもしれない。でも、そのために、まだ何も選んでいない存在の意思を無視していいのか。あなたは、そう尋ねた」
「……俺が?」
「うん」
少女は頷いた。
「だから、私はあなたを信じた」
その言葉に、アレンは息を呑んだ。
「なら、どうして俺は君を救えなかった?」
少女は、すぐには答えなかった。
代わりに、目の前の光を指さした。
そこには、世界が創造される前の光景が浮かび上がっていた。
*
何もない空間。
その中央に、二人の人物が立っていた。
一人は、エリシア。
もう一人は、銀色の髪を持つ観測者。
そして、その少し離れた場所に、アレンによく似た少年がいた。
少年は、少女と向き合っていた。
『世界を創れば、そこに生きる者たちは自分の未来を選べるようになる』
少年が語りかける。
『けれど、その世界を創ること自体を、君は望んでいないんだね』
少女は頷いた。
『世界が嫌いなわけじゃない』
『でも、まだ何も知らない者たちに、私たちが決めた世界を渡していいのかな』
少女は、胸元の白い花を握りしめた。
『世界を創ると決めたら、創られなかった未来は、最初から存在しなかったことにされるかもしれない』
『それが怖いの?』
『うん』
少女は、涙を浮かべながら答えた。
『私は、選ばれなかった未来にも、意味があってほしい』
少年は黙って彼女の話を聞いた。
『世界が生まれたら、誰かが幸せになる。その一方で、別の誰かが傷つくかもしれない。誰かが生まれることで、別の誰かが生まれないかもしれない』
『それでも、世界を創ることには意味があると思う』
少年は答えた。
『ただし、君が反対している理由を、なかったことにはしたくない』
少女は顔を上げた。
『なら、約束して』
『何を?』
『世界を創る前に、私の意思を確かめて』
少女の声は震えていた。
『私が最後まで反対するなら、その理由を聞いて。私を間違いだと決めつけないで』
少年は頷いた。
『約束する』
その瞬間、エリシアが二人のもとへ歩み寄った。
『私も約束するわ』
彼女は少女の前に膝をついた。
『あなたの意思を聞かずに、世界を創ることはしない』
少女は、二人を見つめた。
そして、小さく微笑んだ。
『ありがとう』
しかし、その光景は次の瞬間、黒い影に覆われた。
『対話は不要』
あの外部の存在の声が響いた。
『世界の成立には、創造者の意思があればよい』
『未確定の存在が反対したところで、世界の創造は妨げられない』
黒い光が少女へ伸びる。
少年は彼女の前に立ちはだかった。
『やめろ!』
『記録対象の意思は、世界の成立条件に影響しない』
『違う!』
少年は叫んだ。
『影響するかどうかを、お前が勝手に決めるな!』
黒い光が弾けた。
その瞬間、記録は途切れた。
*
「……これが、俺の過ちなのか?」
アレンは、記憶の残響を見つめていた。
少女は首を横に振った。
「まだ、最後まで見ていないよ」
彼女の声は、悲しかった。
「あなたは私を守ろうとした。でも、そのあと、あなたは私のために、一つの選択をした」
「どんな選択だ?」
少女は目を閉じた。
「私の意思を、あなたが代わりに伝えようとしたの」
アレンの顔が強張った。
「……俺が?」
「うん。私が世界の創造に反対していることを、あなたは二人に伝えようとした。でも、そのとき私は、まだ話の途中だった」
少女は自分の胸に手を当てた。
「私は、世界を創ることに反対していた。でも、世界を創る人たちを止めたいのか、それとも別の方法を探したいのか、自分でも決められていなかった」
「……それなのに、俺は君の反対を、最終的な答えだと思ったのか」
「そう」
少女は、静かに頷いた。
「あなたは私を守りたかった。私の意思を無視されたくなかった。だから、私の言葉を代わりに届けようとした」
「だが、それでは……」
「私が自分で選ぶ機会を、あなたが奪うことになった」
その言葉が、アレンの胸に深く突き刺さった。
彼は拳を握りしめた。
「……すまない」
少女は、すぐには答えなかった。
「謝ってほしかったわけじゃないよ」
「それでも、俺は……」
「あなたが私のために行動してくれたことは、嘘じゃない。あなたが私を守ろうとしてくれたことも、わかっている」
少女は、ゆっくりと立ち上がった。
「でも、私が望んでいたのは、私の代わりに答えを出してもらうことじゃなかった」
彼女は、アレンをまっすぐ見つめた。
「私が、自分で答えを見つけるまで、待っていてほしかった」
空間に、静かな沈黙が落ちた。
アレンは、目を閉じた。
やがて、深く息を吐き、少女に向き直った。
「……わかった」
彼は、まっすぐに彼女を見た。
「君が何を望んでいたのか、俺は最後まで聞かなかった。君を守るつもりで、君の意思を決めつけた」
その声は、震えていた。
「すまなかった」
少女は、しばらく彼を見つめたあと、小さく頷いた。
「ありがとう。今度は、最後まで聞いてくれたね」
その瞬間、少女の足元から白い花が咲いた。
一輪。
また一輪。
花々は、途切れていた光の上に広がっていく。
《第三の存在――意思の一部を確認》
《世界創造への反対理由――開示》
《最終的な意思――未確定》
しかし、花が広がったのは、そこまでだった。
少女の姿が、少しずつ薄くなり始めた。
「……え?」
私が駆け寄ろうとすると、彼女は手を上げて制した。
「大丈夫。消えるわけじゃない」
彼女は、自分の手を見つめた。
「でも、まだ全部を話すことはできないみたい」
空間の奥に、黒い文字が浮かび上がった。
《第三の存在――対話制限を維持》
《未確定の意思――完全開示を拒否》
『世界の成立条件を再評価する権限は、まだ与えられていない』
外部の存在の声が響いた。
『第三の存在が最終的な意思を表明するまで、世界の創造条件は変更できない』
私は歯を食いしばった。
「あなたは、まだ彼女の意思を制限するつもりなの?」
『制限ではない。確定を待っている』
「本人が自分で決めようとしているのに、あなたが勝手に期限を決めるのは、制限と同じよ」
『ならば、問おう』
巨大な目が、空間の奥に開いた。
『第三の存在が、世界の創造を最後まで拒んだ場合』
『お前たちは、この世界を維持するのか』
『それとも、彼女の意思を優先し、世界を消滅させるのか』
私の胸元の白い花が、強く光った。
アレンは、少女を見つめた。
「……その答えを、君に急がせるつもりはない」
少女は驚いたように彼を見た。
「でも、世界が……」
「わかっている」
アレンは頷いた。
「それでも、君が何を望んでいるのか、最後まで聞く。君がまだ決められないのなら、決められるようになるまで、一緒に考える」
彼は、ゆっくりと手を差し出した。
「今度は、君の代わりに答えを出さない」
少女は、その手を見つめた。
そして、少しだけ微笑んだ。
「……ありがとう」
彼女は手を伸ばしかけた。
けれど、触れる直前に、動きを止めた。
「でも、まだ触れないで」
「……わかった」
アレンは手を引いた。
少女は、安心したように息を吐いた。
その瞬間、空間の中央に、新たな記録が浮かび上がった。
《第三の存在――自己選択を継続》
《対話の次段階――本人の意思による申請を待機》
《第二の締結者――過去の過ちを認識》
そして、最後の一文。
《次の記憶解放条件:第三の存在が、世界創造に反対した本当の理由を自ら語ること》
私は、少女を見つめた。
「……まだ、理由があるのね」
少女は、静かに頷いた。
「うん」
彼女は、遠くに漂う光を見た。
「私は、世界が生まれることだけを恐れていたわけじゃない」
その瞳に、深い悲しみが浮かんだ。
「本当に怖かったのは……」
言葉が途切れる。
少女は唇を噛みしめた。
「世界が生まれたあと、あなたたちが私のことを忘れてしまうことだった」
私は息を呑んだ。
彼女は、私たちを見つめた。
「世界ができたら、みんな新しい命に出会う。新しい未来を選ぶ。私がいなくても、幸せになれるかもしれない」
少女の声が震えた。
「それが嫌だったわけじゃない。でも、私が反対した理由も、私がここにいたことも、最初からなかったことにされたら……」
彼女は、目を伏せた。
「私は、自分が何のために存在していたのか、わからなくなってしまう」
白い花が、彼女の足元に一輪落ちた。
その花びらには、まだ誰も知らない文字が刻まれていた。
《第三の存在――存在理由の自己定義》
《本人の意思による選択――継続中》
少女は、私を見た。
「リリア。あなたは、私が世界の創造に反対したことを、間違いだと思う?」
私はすぐには答えなかった。
彼女が求めているのは、慰めでも、正解でもない。
自分の意思を、誰かに勝手に定義されないこと。
その願いに、私は真剣に向き合いたかった。
「……いいえ」
私は、ゆっくりと答えた。
「あなたが何を恐れていたのか、全部を理解できたわけではない。でも、怖いと思うことも、反対することも、あなた自身の意思よ。それを間違いだと決めつけるつもりはないわ」
少女の瞳が揺れた。
「それなら、もう少しだけ、考える時間をくれる?」
「もちろん」
私は頷いた。
「あなたが自分で答えを選べるまで」
少女は、初めて心から安心したように微笑んだ。
その瞬間、白い花々が一斉に光を放った。
けれど、巨大な目は消えなかった。
『猶予を認める』
外部の存在が告げた。
『ただし、世界の成立条件の再評価まで――残り十二時間』
空間の光が、ゆっくりと暗くなり始めた。
私たちは、まだ答えを知らない。
第三の存在が、最後に何を選ぶのか。
そして、彼女の意思を聞いたとき、私たちは何を選ぶのか。
アレンは、静かに少女を見つめていた。
「……今度は、最後まで聞くよ」
少女は、何も答えなかった。
ただ、白い花を胸に抱きしめた。
その花びらの奥で、まだ開かれていない記録が、かすかに光っていた。
第95話 終
次回、第96話「忘れられることを恐れた少女」
第三の存在が世界創造に反対した理由は、世界そのものへの憎しみではなかった。彼女は、自分の意思も存在も忘れられることを恐れていた。残された十二時間の中で、彼女は自分の願いを最後まで語れるのか。




