第94話 原初の観測者が知っていた名前
第94話 原初の観測者が知っていた名前
『待っていてくれて、ありがとう』
その声が消えたあとも、アレンはしばらく振り返ったまま動かなかった。
誰もいない。
白い花が静かに浮かび、遠くで光が揺れているだけだった。
「アレン?」
私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。
「……今の声、初めて聞いたはずなんだ」
「でも、知っている気がした?」
「ああ」
アレンは右手を開いた。
銀色の欠片は、先ほどよりも強く輝いている。
「声を聞いた瞬間、胸の奥が痛くなった。まるで、ずっと待たせていた誰かに、ようやく返事をもらったような……そんな気がした」
「その人を、覚えているの?」
「いや。顔も、名前も、何も思い出せない」
彼は苦笑した。
「なのに、忘れてはいけない人だった気がする」
その言葉に、私の胸が締めつけられた。
私にも、同じような記憶がある。
大切な誰かがいた。
その人を守りたかった。
けれど、誰だったのか、何を約束したのか、記憶の奥にはまだ届かない。
私たちは、似た何かを抱えているのかもしれない。
ただし、それが同じ出来事につながっているとは限らない。
「アレン」
私は彼の手をそっと握った。
「思い出せないことを、無理に思い出そうとしなくてもいいのよ」
「……君がそう言うと思った」
「でも、思い出したいなら、一緒に探すわ」
アレンは私の手を握り返した。
「ありがとう、リリア」
その瞬間、白い花が再び光った。
《第二の締結者――記憶の解放を確認》
《第一層――接続完了》
《第二層――本人の意思による選択を待機》
そして、花びらの上に新たな文字が現れた。
《警告――記憶の解放は、過去の約束の再認識を伴う》
《再認識によって、現在の関係性が変化する可能性あり》
ミラが腕を組んだ。
「さっきから、関係性が変わるって何度も出てくるわね。記憶が戻るだけで、そんなことになるの?」
アステリアは花を見つめながら答えた。
「単に忘れていた記憶が戻るだけなら、ここまで警告は出ないはずよ。おそらく、最初の約束そのものが、現在の世界の成立に関わっている」
「つまり、アレンが約束を思い出すと、世界の仕組みまで変わる可能性があるってこと?」
「ええ。あるいは、世界が今まで隠していた事実が明らかになるのかもしれない」
そのとき、空間全体が震えた。
花々の光が一斉に弱まり、白い扉の向こうに、銀色の光が現れた。
『……ここまでにしておくべきだ』
聞き覚えのある声。
原初の観測者だった。
*
銀色の光が人の形を取る。
長い銀髪。
紫色の瞳。
その姿を見たアステリアが、険しい顔になった。
「あなた、どうして今まで黙っていたの?」
観測者は彼女を見た。
「何について?」
「最初の約束の第二の締結者よ。アレンがその可能性を持っていると、知っていたのでしょう?」
彼はすぐには答えなかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「……知っていたのね」
アステリアの声に、怒りが混じる。
「なぜ教えなかったの?」
「彼が思い出す前に、僕が名前を教えてしまえば、彼自身が選ぶ機会を奪うことになる」
「でも、何も知らないままでは、選ぶことすらできないわ」
「だから、ここまで来るのを待っていた」
観測者はアレンを見つめた。
「彼が自分の意思で記憶に触れるまでは、僕から伝えられることはなかった」
アレンは一歩前へ出た。
「なら、一つだけ教えてくれ」
「何だい?」
「俺は、何を約束した?」
観測者は目を伏せた。
「君は、誰かが自分自身を選べるようになるまで、待つと約束した」
「それだけか?」
「それだけではない」
彼は、言葉を慎重に選んだ。
「君は、世界を創ることに賛成した二人のうちの一人だった。けれど、創造を始める前に、もう一つの意思を確かめるべきだと主張した」
私は息を呑んだ。
世界が生まれる前の、三つの条件。
世界を創ること。
創造された存在の意思を奪わないこと。
そして、世界を創る前に、第三の存在の意思を確かめること。
その最後の条件を、アレンが主張したのだろうか。
「では、君は最初の約束の第二の締結者なの?」
私が尋ねると、観測者は静かに答えた。
「その可能性は高い。だが、最終的な確認は、アレン自身がしなければならない」
「なぜ、そんなに慎重なの?」
「約束を交わしたことと、その約束を今も自分の意思で引き受けることは、同じではないからだ」
その言葉に、私は口を閉じた。
確かに、そうだ。
過去の自分が何を決めたとしても、今の自分が同じ答えを選ぶとは限らない。
過去の約束を理由に、現在の意思まで縛ることはできない。
アレンも、それを理解したようだった。
「……わかった。俺は、自分で確かめる」
観測者は頷いた。
「それがいい」
けれど、アレンは続けた。
「ただし、君が知っていることをすべて隠していい理由にはならない。俺が選ぶために必要な情報まで、勝手に封じないでくれ」
観測者の瞳が揺れた。
「……その通りだ」
彼は、初めて深く頭を下げた。
「すまない。僕は、君を守るつもりで、君の選択を制限しかけていた」
その姿を見て、私は胸の奥に小さな痛みを感じた。
観測者もまた、同じ過ちを繰り返しかけていたのだ。
守りたいという願いが、いつの間にか相手の未来を決める力に変わってしまう。
その境界は、思っているよりもずっと曖昧なのかもしれない。
*
「それで……」
私は観測者を見つめた。
「あなたは、誰の名前を知っているの?」
観測者は顔を上げた。
「何のことだい?」
「アレンが声を聞いたとき、あなたは名前を開いてはいけないと言ったわ。まるで、その名前を知っているようだった」
彼は沈黙した。
やがて、静かに口を開いた。
「僕が知っている名前と、彼が思い出すべき名前は、同じとは限らない」
「それは答えになっていないわ」
「そうだね」
彼は苦笑した。
「でも、嘘をつくよりはいい」
アレンが観測者に向き直った。
「なら、質問を変える。俺が思い出そうとしている相手は、今もこの世界にいるのか?」
観測者はすぐには答えなかった。
白い花が一輪、彼の足元に浮かび上がる。
その花びらには、見覚えのある記録が刻まれていた。
《記録保持者の名は、本人の意思によってのみ開示する》
観測者は花を見つめた。
「……存在しているかどうかを、僕が決めることはできない」
「答えられないのか?」
「違う。答えることで、彼女の存在を僕の認識に閉じ込めたくないんだ」
その言葉に、アレンは眉を寄せた。
「彼女?」
観測者は、しまったというように口を閉じた。
一瞬だけ、空気が凍りつく。
「今、彼女と言ったわね」
私は観測者を見つめた。
「アレンが待っていた相手は、女性なの?」
「……それも、まだ確定していない」
「今のは明らかに失言だったわ」
「そうだね」
観測者は否定しなかった。
「けれど、性別を知ったところで、名前を知ったことにはならない。僕が伝えられるのは、ここまでだ」
アレンは、何かを言いかけてやめた。
彼自身も、今の言葉に引っかかるものを感じたのだろう。
そのときだった。
白い花の群れの中から、一輪だけ黒く染まった花が現れた。
花びらには、見知らぬ文字が刻まれている。
《最初の約束――締結者への警告》
《第二の締結者が記憶を完全に回復した場合、第三の存在に関する封印が解除される》
《ただし、封印解除によって、現在の世界の成立条件が再評価される》
アステリアが息を呑んだ。
「第三の存在……」
その言葉を聞いた瞬間、空間の奥から、あの外部の存在の声が響いた。
『これ以上、記録を開くことは許可できない』
巨大な目が、花々の向こうに浮かび上がる。
『第二の締結者の記憶を封印せよ』
『第三の存在に関する記録を再封鎖せよ』
『世界の成立条件を維持せよ』
黒い光が、アレンへ向かって伸びた。
「アレン!」
私は叫んだ。
けれど、彼は逃げなかった。
銀色の欠片を握りしめ、巨大な目を見据える。
「……俺の記憶は、俺のものだ」
彼の声は、驚くほど静かだった。
「過去に何を約束したのか、まだわからない。けれど、それを思い出すかどうかは、俺が決める」
銀色の欠片が輝いた。
黒い光が、彼の手前で止まる。
《第二の締結者――意思の自立性を確認》
《外部からの記憶封印――拒否》
巨大な目が、ゆっくりと細められた。
『ならば、選べ』
空間の中央に、二つの扉が現れた。
一つは銀色。
もう一つは黒色。
《第一の選択:記憶の封印を維持し、現在の世界を安定させる》
《第二の選択:記憶の封印を解除し、第三の存在の記録を開く》
そして、最後に警告が浮かび上がる。
《第二の選択を行った場合、第三の存在が世界の創造そのものを拒絶する可能性があります》
私は息を呑んだ。
世界を創る前に、その意思を確かめるべきだった存在。
その存在が、今も世界の中にいる。
そして、もしその意思が世界の創造を拒んだなら。
私たちが守ってきた世界は、どうなるのだろう。
アレンは二つの扉を見つめていた。
観測者は、何も言わなかった。
彼が選ぶべきことだからだ。
やがてアレンは、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺は」
彼が言葉を続ける前に、黒い扉の向こうから声が響いた。
『待って』
それは、少女の声だった。
『その人に、まだ選ばせないで』
『だって――』
声が震えた。
『あの人は、私が世界を創ることを望んでいなかった理由を、まだ知らない』
二つの扉が、同時に揺れた。
そして、銀色の扉に、新たな文字が浮かび上がる。
《第二の締結者――過去の記憶、第二層》
《解放条件:第三の存在の願いを聞くこと》
私は、アレンの隣に立った。
「なら、まずはその願いを聞きましょう」
アレンは私を見た。
そして、ゆっくりと頷いた。
「そうだな。俺たちは、誰かの意思を知らないまま、未来を決めるわけにはいかない」
黒い扉の向こうで、少女が小さく息を呑んだ。
『……ありがとう』
その声が消えたあと、扉の表面に、最後の一文が浮かび上がった。
《第三の存在――対話の許可を申請中》
《申請者:アレン・クロフォード》
《ただし、対話が成立した場合、申請者は自身の過去における最大の過ちを知ることになります》
アレンの表情が、わずかに強張った。
それでも、彼は目を逸らさなかった。
「……それでも、聞くよ」
扉の向こうから、かすかな返事が届いた。
『なら、今度こそ最後まで聞いて』
『私が、あなたたちに何を伝えようとしたのかを』
扉が、ゆっくりと開き始めた。
第94話 終
次回、第95話「第三の存在が拒んだ世界」
アレンは、世界創造の前に第三の存在の意思を確かめようとしていた可能性が浮上した。扉の向こうにいる存在は、なぜ世界の創造を望まなかったのか。そして、アレンが犯したという「最大の過ち」とは何なのか。




