第93話 名前を選ぶまで、待つという約束
第93話 名前を選ぶまで、待つという約束
白い扉が、音もなく開いていく。
その向こうに広がっていたのは、部屋でも、廊下でもなかった。
無数の白い花が浮かぶ、果てのない空間。
花びらは地面に落ちることなく、静かな風に運ばれている。ひとつひとつの花の中心には、小さな光が宿っていた。
まるで、まだ生まれていない記憶が、形を得るのを待っているかのようだった。
「……ここが、始まりの回廊?」
私が尋ねると、アステリアは慎重に頷いた。
「おそらくね。ただ、私が知っている場所とは違う。ここは、記録を保管するだけの場所ではないみたい」
「では、何のための場所なのですか?」
セフィルの問いに、アステリアはすぐには答えなかった。
代わりに、空間の奥へ目を向けた。
そこに、一人の少女が立っていた。
白い服。
淡い金色の髪。
橙色の瞳。
髪には、小さな白い花が飾られている。
世界が生まれる前に失われた子に、よく似ていた。
けれど、私はすぐに気づいた。
あの子とは違う。
顔立ちは似ていても、纏う雰囲気が違う。あの子の瞳には、遠い記憶を抱えた静けさがあった。
目の前の少女の瞳には、まだ何も決まっていない者だけが持つ、揺れる光があった。
「あなたは……」
私が呼びかけると、少女は一歩だけ後ずさった。
「ごめんなさい」
小さな声だった。
「まだ、近づかないでほしいの」
私は足を止めた。
「わかったわ」
少女は、少し驚いたように目を見開いた。
「……どうして、理由を聞かないの?」
「あなたが近づかないでほしいと言ったからよ。それ以上の理由が必要?」
少女は何も答えなかった。
ただ、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
その仕草を見て、私は思い出した。
かつて、もう一人の少女もそうしていた。
自分の存在を認めてもらえるか、不安でたまらないとき。
誰かに選ばれるために、自分を差し出そうとしていたとき。
けれど、目の前の少女は違う。
彼女は、自分の意思で距離を取ろうとしている。
その選択を、私は尊重したかった。
「私はリリア・エヴァンジェル。あなたの名前を、無理に聞くつもりはないわ」
「……リリア」
少女は、私の名前を口の中で確かめるように繰り返した。
「あなたは、自分の名前を自分で選んだの?」
その問いに、私は一瞬だけ言葉を失った。
私の名前は、生まれたときから与えられていたものだ。
けれど、前世の私が何者だったのかを思い出し、エリシアの記憶と向き合い、それでも今の自分として生きることを選んだとき。
私は、与えられた名前を自分のものとして選び直したのかもしれない。
「最初から選んだわけではないわ。でも、今はこの名前で生きたいと思っている」
「……そう」
少女は、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「私も、そうなれるのかな」
「なれるかどうかを、私が決めることはできない。でも、あなたがそうなりたいと願うなら、そのための時間を守りたい」
少女の目に、淡い光が宿った。
その瞬間、空間全体が小さく震えた。
《未確定の意思――接続を確認》
《命名権限――本人に帰属》
《外部からの命名介入――拒否》
白い花々が、一斉に光を放つ。
少女は驚いて周囲を見渡した。
「……また、始まった」
「何が?」
「私が何者なのかを、決めようとする声」
少女の足元に、黒い文字が浮かび上がった。
《記録対象:未確定》
《役割:未設定》
《存在理由:未登録》
《修正提案――役割の確定を開始》
空間の奥から、あの外部の存在の声が響いた。
『未確定のまま存在し続けることは、秩序を乱す』
『役割を与えれば、存在理由が確定する』
『名前を与えれば、記録が完成する』
少女の身体が、淡い光に包まれた。
その光は、彼女を傷つけるものではないように見えた。
けれど、少女の表情は苦痛に歪んでいた。
「やめて……」
彼女は耳を塞いだ。
「私は、まだ決めていない!」
声が空間に響き渡る。
『決めていないことは、拒否ではない』
『未決定の意思は、記録にとって不完全である』
「違う!」
少女は顔を上げた。
「決めていないのは、決めたくないからじゃない。自分で考えたいから!」
その言葉に、私の胸が熱くなった。
私は一歩踏み出しかけた。
しかし、アレンがそっと私の腕に触れた。
「リリア」
彼は静かに首を横に振った。
「彼女が自分で選ぼうとしている。今は、彼女の声を聞こう」
私は足を止めた。
そうだ。
彼女を助けたいからといって、私が代わりに答えを与えてはいけない。
守ることと、決めることは違う。
それは、私たちが何度も学んできたことだった。
「……あなたの名前は、あなたが選ぶものよ」
私は少女に向かって告げた。
「今すぐ決めなくてもいい。今日決めなくても、明日決めなくてもいい」
少女は、ゆっくりとこちらを向いた。
「でも、決めなかったら、私は消されるかもしれない」
「その可能性はあるわ」
私は、嘘をつかなかった。
「私にも、あなたが必ず助かると約束することはできない。でも、あなたが考える時間を奪わせないために、私はここにいる」
少女は私を見つめた。
その瞳には、恐怖があった。
けれど、その奥には、消えそうで消えない意志が宿っていた。
「……あなたは、私を助けるために、私の名前を決めないの?」
「決めないわ」
「私が間違った名前を選んでも?」
「あなたが選んだ名前なら、それはあなたの選択よ。間違いだと思ったら、いつか自分で選び直せばいい」
その瞬間、白い花が一輪、少女の足元に落ちた。
初めて、花が地面に触れたのだ。
花びらの中央に、文字が浮かび上がる。
《第四の約束――再選択の機会を保持》
《対象:未確定の意思》
《選択の強制――無効》
外部の声が、わずかに低くなった。
『その約束は、未確定を許容する』
『だが、未確定のままでは、未来を定義できない』
「未来を定義するために、今を奪う必要はないわ」
私は答えた。
「未来は、本人が選んだときに初めて、その人のものになる」
黒い文字が揺らいだ。
けれど、消えはしなかった。
『ならば、問おう』
空間の奥に、巨大な目が開いた。
『もし、この少女が最後まで名前を選べなかったら』
『もし、選ぶ前に世界が終わるとしたら』
『それでも、お前は待つのか』
私は息を呑んだ。
それは、簡単に答えられる問いではなかった。
待つことによって、失われるものがあるかもしれない。
決断を先送りにすることで、誰かが傷つくこともある。
それでも、本人の意思を無視して答えを決めることが、正しいとは思えなかった。
「待つわ」
私は答えた。
「ただし、何もせずに待つわけじゃない。彼女が選べる未来を残すために、私はできることをする」
「……リリア」
少女が、小さく私の名前を呼んだ。
その声には、先ほどまでの怯えとは違う感情が混じっていた。
「私、考えてみる」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「どんな名前なら、私が私として生きられるのか。誰かの代わりじゃなく、誰かの願いを叶えるためでもなく……私自身が、その名前で生きたいと思えるのか」
「うん」
私は微笑んだ。
「ゆっくり考えて」
少女は頷いた。
その瞬間、彼女を包んでいた光が消えた。
《命名処理――停止》
《本人の意思による保留――承認》
《存在の独立性――維持》
しかし、その直後。
新たな記録が浮かび上がった。
《記録の受領者――意思の反応を確認》
《接続対象:アレン・クロフォード》
《受領者の意思――未確認》
アレンの手の中で、銀色の欠片が強く輝いた。
彼は眉をひそめ、欠片を見つめる。
「……今、何かが聞こえた」
「何が聞こえたの?」
私が尋ねると、彼は少し迷ったあと、答えた。
「誰かが、俺に問いかけたんだ」
『君は、彼女が自分の名前を選ぶまで待てるか』
アレンは、ゆっくりと息を吐いた。
「俺は、待つと答えた」
その瞬間、銀色の欠片から一本の光が伸び、白い花の中央に吸い込まれた。
そして、花びらの裏側に、小さな文字が現れた。
《最初の約束――第二の締結者》
《意思の照合――開始》
アステリアが息を呑む。
「そんな……」
彼女は、花を見つめたまま呟いた。
「最初の約束の締結者は、二名のはずよ。一人は原初の観測者。そして、もう一人は……」
言葉が途切れた。
花びらが、一枚だけ落ちた。
その裏側に、今まで隠されていた記録が現れた。
《第二の締結者――名前の開示条件》
《本人が、自らの意思で過去の約束を認識すること》
《ただし、認識と同時に、現在の関係性が変化する可能性あり》
私はアレンを見た。
彼は、私を見つめ返した。
その瞳に、覚悟と戸惑いが入り混じっていた。
「リリア。もし俺が、君の知らない過去を持っていたとしても……」
彼は言葉を選ぶように、一度だけ目を伏せた。
「今の俺が君のそばにいることまで、嘘になるわけじゃない」
「……ええ」
私は頷いた。
「過去が何であっても、今のあなたが何を選ぶのかは、あなた自身が決めることよ」
アレンは静かに微笑んだ。
そのとき、白い扉の向こうから、聞き覚えのある声が響いた。
銀色の髪。
紫色の瞳。
世界の外にいる、原初の観測者の声だった。
『……ようやく、ここまで来たんだね』
空間の花々が、一斉に揺れた。
『けれど、まだ名前を開いてはいけない』
『第二の締結者が、自分の過去を思い出す前に、その名を告げれば――』
声が、そこで途切れた。
代わりに、白い花の中央に、最後の一文が刻まれる。
《最初の約束――第二の締結者の記憶、第一層を解放》
そして、その下に。
《記憶の所有者:アレン・クロフォード》
アレンの瞳が、大きく見開かれた。
「……俺が?」
その瞬間、彼の背後に、見知らぬ誰かの影が浮かび上がった。
影は、アレンの肩にそっと手を置き、囁いた。
『待っていてくれて、ありがとう』
アレンは振り返った。
けれど、そこには誰もいなかった。
残されたのは、彼の手の中で静かに光る銀色の欠片と、まだ開かれていない約束だけだった。
第93話 終
次回、第94話「原初の観測者が知っていた名前」
アレンが最初の約束の第二の締結者である可能性が浮上した。彼の記憶に残された「待っていてくれて、ありがとう」という声は誰のものなのか。そして、原初の観測者が名前の開示を止めようとした理由とは。




