第92話 創造主の最も近くにいる者
第92話 創造主の最も近くにいる者
《記録の受領者――現在の世界に存在》
《所在:創造主の最も近く》
《ただし、本人は自分が記録を受け取ったことを知らない》
銀の指輪に浮かんだ文字は、私たちの目の前でゆっくりと薄れていった。
最後の一文だけが、いつまでも消えなかった。
創造主の最も近くにいる者。
それは、誰を指しているのだろう。
「……私の最も近くにいる者、か」
思わず呟くと、アレンが私の隣に立った。
「その言葉だけなら、候補はいくらでもいる。俺たちの誰かかもしれないし、君自身が気づいていない誰かかもしれない」
「そうね。でも、本人が記録を受け取ったことを知らないのなら、本人に尋ねても答えは得られないわ」
「だったら、記録そのものに尋ねればいいんじゃない?」
ミラが首を傾げた。
「カイルの指輪がいろいろ喋ってくれたんだから、もう一度、受領者の名前を出させるとか」
「試す価値はあるわ。ただし、無理に開けば記録が壊れる可能性がある」
アステリアは慎重だった。
「この記録は、名前を隠すためだけに封じられているのではないと思う。受け取った本人の意思を確認せずに開示しないための仕組みかもしれない」
「名前を知ることさえ、本人の意思を無視することになるのか」
レオンが低く呟く。
「名前を知ることと、その人の意思を奪うことは違う。でも、この記録は、その境界を慎重に扱おうとしているのでしょう」
私は指輪に視線を戻した。
前世の私が、訪問者から何かを受け取った。
カイルは記録を保護していた。
そして、受領者は別に存在する。
三者の役割が違うのなら、私たちはそれぞれを混同してはいけない。
「アレン」
「どうした?」
「もし、あなたが私の知らない記録を受け取っていたとして、それが私の過去に関わるものだったら……あなたは話してくれる?」
突然の質問に、彼は少しだけ目を見開いた。
けれど、すぐに真剣な顔で答えた。
「君に関わることなら、話す。ただし、俺自身が何も知らないまま受け取っていたのなら、まず何が記録されているのか確かめる」
「どうして?」
「知らないことを知っているふりはしたくない。それに、君の過去だからといって、俺が君の代わりに答えを決めるわけにはいかないだろう」
その答えに、私は静かに頷いた。
彼なら、そう言うと思っていた。
けれど、アレンの指先がわずかに動いたことを、私は見逃さなかった。
何かを思い出しかけたような仕草。
「……アレン?」
「いや。何でもない」
彼はそう答えた。
その声は、いつもと変わらなかった。
だからこそ、私はそれ以上尋ねなかった。
今ここで疑うことも、無理に思い出させることも、正しいとは思えなかったからだ。
*
「一つ、試してみたいことがある」
セフィルが口を開いた。
彼は銀の指輪をじっと見つめている。
「この記録は、受領者の名前を隠しているのではなく、受領者へつながる道を隠している可能性がある」
「道?」
「ああ。記録を受け取った者が、その事実を知らないのなら、本人の記憶を直接探しても見つからないかもしれない。だが、記録が受け渡された瞬間の痕跡なら、指輪に残っているはずだ」
アステリアが考え込む。
「確かに……記録の受領者と保護者が別人なら、受け渡しの記録も別に保存されている可能性があるわね」
「やってみよう」
カイルが指輪を差し出した。
セフィルはその上に手をかざし、淡い紫色の魔力を流し込んだ。
「記録の内容には触れない。受け渡しの痕跡だけを探す」
指輪が小さく震えた。
一瞬、白い光が広がる。
その光の中に、見知らぬ場所が浮かび上がった。
石造りの廊下。
高い天井。
壁には、世界創造以前のものと思われる古い紋章が刻まれている。
そして、廊下の先に、一人の人物が立っていた。
顔は見えない。
ただ、その手には、小さな白い花が握られていた。
「この花……」
私が息を呑む。
それは、失われた子が大切にしていた花と同じものだった。
けれど、人物の姿は、その子とは違っていた。
背丈も、立ち方も、何もかもが異なる。
人物は花を胸元に抱き、誰かを待っているようだった。
やがて、もう一人の影が現れた。
その人物は、何かを差し出した。
受け取った側は、少しだけ躊躇したあと、それを胸元にしまった。
記録が途切れる直前、受け取った人物が顔を上げた。
その瞳が、一瞬だけ光に照らされる。
青い瞳。
私と同じ色だった。
「……っ!」
映像が弾け、指輪の光が消えた。
「リリア!」
アレンが私を支える。
「大丈夫か?」
「ええ。でも、今の人物……」
私は息を整えながら、セフィルを見た。
「青い瞳だったわ。私と同じ色」
セフィルは頷いた。
「ただし、同じ瞳の色だけでは、あなた本人とは断定できない。記録の中に、あなたと似た魂の痕跡が残されている可能性もある」
「それでも、手がかりにはなるわね」
レオンが言った。
「その廊下に心当たりは?」
アステリアは、しばらく考えてから首を横に振った。
「ない……と言いたいところだけれど、一つだけ、似た場所を知っているわ」
彼女の声が低くなる。
「世界が創造される前、エリシアが記録を保管していた場所。正式な名前は残されていないけれど、私はそこを《始まりの回廊》と呼んでいた」
「世界が生まれる前の場所……」
私は呟いた。
そこに記録の受領者がいたのだとしたら、その人物は現在の世界に生まれる前から、何かを受け取っていたことになる。
そして、その記録は今も、私たちの世界につながっている。
「行きましょう」
私は仲間たちを見渡した。
「《始まりの回廊》へ。記録の受け渡しが行われた場所を調べたい」
アステリアは頷いた。
「ただし、気をつけて。あそこは、創造主の権限でさえ、すべての記録を開ける場所ではないわ」
「どうして?」
「そこには、世界が創造される前に交わされた約束のうち、まだ誰も引き継いでいないものが保管されているから」
その言葉に、胸の奥が微かに疼いた。
最初の約束。
第三の約束。
第四の約束。
そして、まだ正体のわからない第三の存在。
すべてが、あの場所につながっている気がした。
*
《始まりの回廊》へ向かう扉は、すぐには現れなかった。
私たちが移動を始めたとき、突然、私の胸元の白い花の紋章が熱を帯びた。
「……何?」
足を止める。
紋章から伸びた光が、床に一本の線を描いた。
その線は、私たちの進む方向ではなく、アレンの足元へ伸びていた。
誰もが息を止めた。
アレン自身も、自分の足元を見つめている。
「アレン……?」
彼は答えなかった。
代わりに、ゆっくりと右手を開いた。
その手のひらには、いつの間にか、小さな銀色の欠片が握られていた。
カイルの指輪に欠けていたものと、よく似ている。
「俺は、これを……」
アレンは戸惑ったように欠片を見つめた。
「いつから持っていたんだ?」
誰も答えられなかった。
カイルが一歩近づき、指輪を差し出す。
銀色の欠片が、指輪の亀裂に反応した。
けれど、はまることはなかった。
代わりに、指輪の表面に新たな文字が浮かび上がる。
《記録の保護者:カイル・エルデン》
《記録の受領者:未確定》
《記録の接続先:アレン・クロフォード》
アレンの顔が強張った。
「……俺が、接続先?」
「受領者とは違うみたいね」
私は慎重に言った。
「あなたが記録を受け取ったのか、それとも記録へつながる鍵を持っているのか、まだわからない」
「そうだな」
アレンは欠片を握りしめた。
「だが、これが俺の手元にある理由は確かめたい」
その瞬間、銀色の欠片から、かすかな声が響いた。
『鍵を持つ者へ』
私たちは一斉に息を止めた。
『もし、この記録を受け取った者が、まだ自分の名を知らないのなら――』
声が乱れる。
『決して、代わりに名を与えてはならない』
アレンの手の中で、欠片が淡く光った。
『その者が自分自身を選ぶまで、待ちなさい』
そして、最後に。
『あなたが彼女を守るために、彼女の選択を奪わないことを願う』
アレンは、何も言わなかった。
けれど、その言葉が彼の胸の奥に触れたことだけは、表情を見ればわかった。
私は彼の手にそっと触れた。
「アレン。何か思い出した?」
彼はしばらく黙っていた。
やがて、小さく首を横に振った。
「……まだ何も。ただ、今の声を聞いていると、誰かに約束したような気がする」
「どんな約束?」
「わからない。でも――」
彼は私を見つめた。
「誰かが自分の名前を選ぶまで、待つという約束だ」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸元の白い花が、静かに開いた。
花びらの中央に、新たな文字が浮かび上がる。
《記録の受領者――本人の意思を確認中》
《接続対象:アレン・クロフォード》
《受領者との関係:未確定》
そして、その下に。
《警告――接続対象が記録を完全に開いた場合、封印された約束の締結者が目覚める可能性があります》
私は、ゆっくりとアレンを見上げた。
彼は私の手を握り返した。
「リリア。俺は、君の代わりに何かを決めるつもりはない」
その瞳には、迷いがあった。
それでも、逃げるつもりはないという意志があった。
「だから、もし俺が何かを忘れていたとしても、君に隠すためじゃなく、君と一緒に確かめるために思い出したい」
私は頷いた。
「うん。一緒に確かめよう」
その瞬間、遠くから三度、扉を叩く音が響いた。
誰もいないはずの廊下の奥。
そこに、白い扉が現れていた。
扉には、見覚えのある三つの円と、その中央に小さな空白が刻まれている。
そして、扉の向こうから声がした。
『鍵を持つ者が来た』
『保護者も、創造主も、ここにいる』
『ならば、次に問うべきことは一つ』
扉の中央の空白が、青く輝いた。
『記録を受け取った者は、誰の意思によって、その記録を受け取ったのか』
私は息を呑んだ。
問いかけは、アレンに向けられているようでいて、私自身にも向けられている気がした。
そして、扉の向こうから、もう一つの声が響く。
『……まだ、私の名前を呼ばないで』
それは、かつて私が記憶の中で聞いた、あの少女の声に似ていた。
『今度こそ、自分で選びたいから』
扉が、ゆっくりと開き始めた。
第92話 終
次回、第93話「名前を選ぶまで、待つという約束」
アレンの手に現れた銀色の欠片と、始まりの回廊に現れた白い扉。記録の受領者はまだ明らかにならない。けれど、扉の向こうには、自分の名前を自分で選ぼうとする誰かが待っていた。




