第91話 私自身が訪問者だった可能性
第91話 私自身が訪問者だった可能性
「まさか、あなたが……?」
アステリアの言葉は、最後まで続かなかった。
閉ざされた記録の前で、彼女は青ざめた顔をしていた。
「アステリア。今、誰のことを言おうとしたの?」
私が尋ねると、彼女は唇を結んだ。
「……わからないの」
「思い出せないの?」
「いいえ。思い出しかけたのよ。でも、名前を口にしようとした瞬間、記憶そのものが押し戻された」
アステリアは自分のこめかみに手を当てた。
「まるで、私がその名前を知っていること自体、許されていないみたいに」
銀の指輪が、小さく震えた。
カイルは私たちを見比べ、苦しげに息を吐いた。
「記録が示した二人目の候補は、リリアだった。だが、それは前世のリリアが訪問者だったという意味なのか?」
「まだ断定できないわ」
私は首を横に振った。
「訪問者の記録と、私の前世の意思が照合対象になった。それだけよ」
「けれど、処刑前夜に君は牢獄にいたんだろう?」
アレンが心配そうに私を見た。
「そうよ。少なくとも、私が覚えている限りでは」
答えながら、私は自分の言葉に引っかかりを覚えた。
覚えている限りでは。
それは、今の私が何度も使ってきた言葉だった。
前世の記憶は、成長とともに少しずつ戻ってきた。処刑の理由も、最後に会った人も、あの日に自分が何を選んだのかも、すべてが一度に明らかになったわけではない。
ならば、私が牢獄にいたという記憶さえ、すべてを映しているとは限らない。
「……確かめたいことがあるの」
私は指輪に手を伸ばした。
「記録をもう一度開いて。今度は、訪問者の顔ではなく、訪問者が牢獄に入ったときの記録を見たい」
「危険よ」
アステリアが即座に言った。
「あなたの前世の意思と現在の記憶が衝突すれば、記憶の境界が崩れるかもしれない。あなたがあなた自身を見失う可能性もある」
「それでも、知りたい」
私は彼女を見つめた。
「私が何を選んだのかを、誰かの説明だけで決めたくないの」
その言葉に、アステリアは目を伏せた。
かつて彼女は、エリシアのためだと信じて、彼女の選択を制限した。
そして今、私に同じことをするつもりはないのだろう。
「……わかったわ。ただし、一人では入らせない」
「私も行く」
アレンが迷いなく言った。
「記憶の中に直接入れる保証はないわよ」
「それでも、君が戻ってくる場所にはいる」
彼の言葉に、胸の奥が温かくなった。
ミラも杖を握り直す。
「私だっているからね。記憶が暴走したら、力ずくでも引っ張り戻してあげる」
「その言い方、少し怖いんだけど……」
「怖いくらいでちょうどいいの!」
そのやり取りに、私はかすかに笑った。
どんな過去が待っていようと、今の私には、一緒に歩いてくれる人たちがいる。
私は指輪に触れた。
「開いて」
銀色の光が、静かに広がった。
*
目を開けると、私は石造りの牢獄に立っていた。
冷たい床。
鉄格子。
壁に揺れる小さな灯火。
間違いない。
ここは、前世の私が処刑を待っていた牢獄だった。
けれど、何かがおかしい。
私は鉄格子の内側にいる。
そして、牢獄の外側にも、もう一人の私がいた。
白い囚人服を着た少女。
うつむいた顔も、細い指も、見覚えがある。
前世の私自身だった。
「……あれが、私」
思わず呟いた瞬間、背後から声がした。
「そう。あの子が、処刑を待っていたあなた」
振り返る。
そこには、黒い外套をまとった人物が立っていた。
顔は影に覆われている。
けれど、その声を聞いた瞬間、私は息を止めた。
聞いたことがある。
処刑前夜、牢獄を訪れた人物の声だ。
「あなたは……誰?」
人物は答えなかった。
代わりに、鉄格子の向こうにいる前世の私を見つめた。
「彼女は、二つの選択肢を提示された」
記憶の中の前世の私が顔を上げる。
『真実を話せば、助かる可能性がある。ただし、あなたが救おうとした人物の存在が明らかになる』
『記憶を封じれば、その人物を守れるかもしれない。ただし、あなた自身が何を守ったのかさえ、わからなくなる』
それは、以前見た記憶と同じだった。
けれど、今回は違う。
私は、前世の自分の背後に、もう一つの影があることに気づいた。
牢獄の壁に映る影。
少女の影でも、訪問者の影でもない。
三つ目の影が、二人の間に立っていた。
「……あれは何?」
私が尋ねると、黒い外套の人物が初めてこちらを向いた。
「あなたには、まだ見えてはいけないものだ」
「どうして?」
「あなたが知れば、過去の選択を変えようとするから」
私は眉をひそめた。
「過去を変えるつもりなんてないわ。私は、何があったのかを知りたいだけ」
「本当に?」
その問いは、静かだった。
だからこそ、胸に突き刺さった。
「真実を知ったあと、あなたは何もしないでいられるのか。自分を裏切った者がいたとわかっても。自分が誰かを傷つけたとわかっても。それでも、ただ知るだけで終われるのか」
私はすぐには答えられなかった。
過去を知れば、今の仲間への見方が変わるかもしれない。
カイルが何をしたのか。
アレンが握りしめた手に、どんな記憶が隠されているのか。
そして、私自身が何を選んだのか。
真実を知ることは、必ずしも救いにはならない。
それでも。
「……それを決めるのは、真実を知ったあとの私よ」
私は相手を見据えた。
「今の私に、未来の私の選択を奪わないで」
黒い外套の人物は、長い沈黙のあと、わずかに顔を傾けた。
「そう言うと思っていた」
その言葉に、胸がざわついた。
まるで、この人物は私の答えを昔から知っていたかのようだった。
牢獄の中で、前世の私が立ち上がった。
『私は、どちらも選ばない』
訪問者が静かに尋ねる。
『それなら、どうする?』
『生きたい。記憶も失いたくない。私が救おうとした人も、できる限り守りたい』
前世の私の声は震えていた。
『全部が叶うなんて思っていない。それでも、私が何を諦めるのかまで、誰かに決められたくない』
私は目を見開いた。
それは、今の私と同じ言葉だった。
訪問者は、しばらく何も言わなかった。
やがて、彼は小さく頷いた。
『……わかった』
『本当に?』
『君の選択を、私が勝手に書き換えることはしない』
その瞬間、壁の三つ目の影が動いた。
影は前世の私の足元へ伸び、彼女の輪郭に重なろうとした。
訪問者が振り向く。
『まだ、そこにいたのか』
初めて、その声に怒りが混じった。
『彼女の選択は、君のものではない』
影が揺らぐ。
けれど、消えることはなかった。
そして、影の奥から、別の声が聞こえた。
『ならば、記録を分ければいい』
『彼女が選んだことと、彼女が選ばなかったことを』
『その両方を残せば、彼女の存在は確定しない』
訪問者は答えなかった。
ただ、前世の私の手に何かを握らせた。
小さな銀色の欠片。
指輪の一部に見えた。
『これを持っていて』
『これは何?』
『いつか、君自身が真実を確かめるためのものだ』
訪問者は彼女の手を包み込んだ。
『ただし、誰かに答えを与えてもらおうとはしないでほしい。君が自分で選んだときにだけ、この記録は開く』
前世の私が頷く。
その直後、記憶が激しく揺れた。
鉄格子が崩れ、灯火が消える。
三つ目の影が、こちらを向いた。
影の奥に、一つの目が浮かび上がる。
『見つけた』
その声は、あの外部の存在と同じだった。
『記録の中に隠された意思』
『二人の選択を守った者』
『そして――』
目が、私を捉えた。
『記録を開く資格を持つ、もう一人の当事者』
視界が砕け散った。
*
「リリア!」
アレンの声で、私は現実に引き戻された。
膝が崩れそうになるのを、彼が支えてくれる。
「大丈夫か?」
「……ええ。でも、今の記憶は……」
私は震える息を整えた。
訪問者は、前世の私に銀色の欠片を渡していた。
そして、記録を分けると言った。
彼女が選んだことと、選ばなかったこと。
二つの意思を混ぜずに残すための指輪。
カイルの指輪に封じられていた仕組みと、同じだった。
「カイル。あなたの指輪には、銀色の欠片がある?」
「ああ」
彼は指輪の亀裂を見つめた。
「だが、欠けている部分がどこにあるのかは……」
言いかけて、彼は突然口を閉じた。
そして、ゆっくりと私を見た。
「リリア。君の胸元にある白い花の紋章……それは、いつからある?」
私は自分の胸に手を当てた。
第三の約束を継承したときからある、白い花の印。
「第三の約束を継いだときよ」
「違う」
カイルの声が震えた。
「俺は今、思い出した。あの記憶の中で、銀色の欠片を渡された少女の手首にも、同じ紋章があった」
沈黙が落ちた。
アステリアが一歩、前へ出る。
「それは……あり得ないわ。第三の約束は、世界が創造されたあとに継承されたものよ」
「なら、なぜ前世の私に同じ印があったの?」
私は自分の手を見つめた。
第三の約束が、私の魂に刻まれていた。
けれど、それが世界の創造よりも前から存在していたとしたら。
私がエリシアの力と記憶に接続したのは、偶然ではなかったのかもしれない。
そのとき、カイルの指輪が再び光った。
今度は、声ではなく、短い記録が浮かび上がった。
《記録の保護者:カイル・エルデン》
《記録の受領者:未確定》
《記録の本来の所有者:本人の意思による開示を待機》
そして、最後の一文。
《警告――記録の受領者と、記録の保護者は、同一人物ではない》
カイルが息を呑む。
「……俺は、彼女から記録を預かっただけなのか?」
誰も答えられなかった。
その直後、指輪の奥から、あの幼い少女の声が響いた。
『ありがとう』
一瞬だけ、声が柔らかくなる。
『でも、まだ思い出さないで』
『あなたが私を思い出したら、あの人まで消えてしまうから』
光が消えた。
私は、目を閉じた。
あの人とは誰なのか。
そして、なぜ私が思い出すことが、その人の消失につながるのか。
答えは、まだ見えない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
私の前世は、ただ処刑された少女の物語ではなかった。
誰かが私の選択を守ろうとし、誰かがその記録を隠し、そして誰かが、その両方を世界から消そうとしていた。
その中心にいるのは、私自身。
私は顔を上げた。
「次は、記録の受領者を探すわ」
カイルが頷く。
「その人物が、訪問者の正体を知っているかもしれない」
しかし、指輪には、まだ消えていない小さな文字が残っていた。
《記録の受領者――現在の世界に存在》
《所在:創造主の最も近く》
そして、その下に、誰かが後から書き加えたような文字が浮かび上がった。
《ただし、本人は自分が記録を受け取ったことを知らない》
私はゆっくりと仲間たちを見渡した。
誰もが、私のそばにいる。
誰が記録の受領者なのか。
その答えを、私はまだ知らなかった。
第91話 終
次回、第92話「創造主の最も近くにいる者」
記録の受領者は、現在の世界に存在している。本人すら知らない記録を受け取った者は、リリアの仲間の中にいるのか。それとも、彼女がまだ出会っていない誰かなのか。




