第9話 優しい訪問者と、偽りの記憶
第9話 優しい訪問者と、偽りの記憶
コン、コン。
扉を叩く音が、静かな隠れ家に響いた。
「どなたか、いらっしゃいませんか?」
扉の向こうから聞こえる声は、穏やかだった。
助けを求める旅人の声。
けれど、その声を聞いた瞬間、レオンの表情が凍りついた。
「……そいつを中に入れるな」
低く、押し殺した声だった。
リリアは驚いて振り返った。
「レオンさん?」
「いいか、リリア。何があっても、俺が許可するまで扉を開けるな」
レオンは腰の剣に手をかけた。
普段の彼は、冷静で、どんな状況でも動揺を見せない。
そのレオンが、今は明らかに警戒していた。
アレンも無言で剣を抜き、扉の前に立つ。
「知っている人物なのか?」
「……知っている、と言いたくはないな」
レオンは苦々しく答えた。
「だが、あの気配は間違いない」
「誰なんですか?」
リリアが問いかけた、その時だった。
「……あれ?」
ミラが、不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、みんな。どうしてそんなに警戒してるの?」
「ミラ?」
「だって、困ってる人かもしれないじゃない。道に迷ったって言ってるんでしょ?」
ミラは扉へ向かおうとした。
アレンが素早く腕を伸ばし、彼女を止める。
「待て。何者か分からない相手を、簡単に信用するな」
「でも……」
「ミラの言うことも分かるよ」
リリアは、扉を見つめながら口を開いた。
「困っている人を助けたい。その気持ちまで、否定したくない」
「リリア!」
「でも、みんなを危険にさらしたいわけじゃないの」
リリアは一度深呼吸した。
怖くないわけではない。
それでも、自分の意思で確かめたかった。
「顔を見るだけなら、いいでしょうか?」
レオンはしばらく黙っていた。
やがて、深いため息をつく。
「……俺たちがそばにいる。それが条件だ」
リリアは頷いた。
そして、ゆっくりと扉を開けた。
◇
そこに立っていたのは、茶色の髪をした青年だった。
年齢は二十歳前後だろうか。
整った顔立ちに、柔らかな笑み。
旅人らしい簡素な服を身につけ、肩には小さな鞄を掛けている。
「ああ、よかった。人がいたんですね」
青年は安心したように笑った。
「突然すみません。森で道に迷ってしまって。少しだけ休ませていただけませんか?」
あまりにも自然な態度だった。
敵意も、殺意も感じられない。
少なくとも、普通の人間ならそう思っただろう。
しかし、レオンは一歩も動かなかった。
「名前は?」
「カイルです。カイル・エルデンと申します」
「どこから来た?」
「西の町からです。商隊に同行していたのですが、魔物に襲われてはぐれてしまいまして」
カイルは困ったように頭をかいた。
「お恥ずかしい話ですが、道に迷うのは昔から苦手なんです」
ミラが小さく笑った。
「なんだ、普通の旅人じゃない」
「ミラ、まだだ」
アレンが警戒を解かずに言う。
カイルは二人を見比べると、少し困ったように微笑んだ。
「警戒されるのも当然ですね。では、これを」
彼は鞄から一枚の身分証を取り出した。
西の町の商業組合が発行したものらしい。
レオンはそれを受け取り、表と裏を確認した。
偽造の痕跡は見当たらない。
それどころか、登録情報も正しく、発行元の印まで本物だった。
「……どうやって、これを手に入れた?」
「どういう意味でしょうか?」
「質問に答えろ」
レオンの声が鋭くなる。
カイルは困惑したように眉を下げた。
「もちろん、町で登録しました。何か問題が?」
沈黙が落ちた。
レオンは身分証を返すと、低く告げた。
「入れ。だが、妙な動きをすれば容赦はしない」
「ありがとうございます」
カイルは深く頭を下げた。
その瞬間。
彼の視線が、リリアへと向けられた。
そして、ほんの一瞬だけ。
その瞳に、言葉にできないほど深い悲しみが浮かんだ。
「……お会いできて、光栄です」
「え?」
「いえ。初めてお会いする方なのに、なぜか懐かしい気がして」
カイルは苦笑した。
「変なことを言って、すみません」
リリアは答えられなかった。
自分も、同じことを感じていたからだ。
初対面のはずなのに。
この人を、ずっと前から知っているような気がする。
それも、ただの知り合いではない。
もっと大切な――。
「リリア」
アレンの声に、彼女は我に返った。
「……ごめんなさい」
リリアは首を振った。
「大丈夫。ちょっと、考え事をしていただけ」
しかし、胸の奥では、何かが静かに動き始めていた。
◇
カイルが椅子に腰を下ろすと、ミラが温かいスープを差し出した。
「はい。大したものじゃないけど」
「ありがとうございます。助かります」
カイルは礼を言い、スープを口に運んだ。
「……おいしい」
「本当?」
ミラの表情がぱっと明るくなる。
「よかった。実は、料理はまだ練習中なの」
「こんなに温かい食事をいただけるだけで、十分ですよ」
その言葉に、ミラは嬉しそうに笑った。
警戒していたアレンも、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
ただ一人、レオンだけは違った。
彼はカイルから目を離さず、静かに様子をうかがっていた。
「カイルと言ったな」
「はい」
「お前は、この世界の神々をどう思う?」
唐突な質問だった。
ミラが目を丸くする。
「ちょっと、レオンさん。いきなり何を聞いてるのよ」
「答えろ」
カイルはスプーンを置いた。
しばらく考えたあと、静かに口を開いた。
「……神々は、世界を守ってくださる存在だと教わりました」
「教わったことではなく、お前自身の考えを聞いている」
「自分自身の、ですか」
カイルは窓の外へ視線を向けた。
「正直に言えば、分かりません」
意外な答えだった。
「神々が本当に世界を守っているのなら、どうして罪のない人々が苦しむのでしょう。どうして、救いを求める声が届かないことがあるのでしょう」
彼の声は穏やかだった。
しかし、その言葉には、どこか切実な響きがあった。
「それでも、人は神々を信じるしかないのかもしれません。何かを信じなければ、前に進めない人もいますから」
リリアは、思わず彼を見つめた。
その考え方に、覚えがあった。
誰かを信じたい。
でも、信じることが怖い。
そんな気持ちを、自分も知っている。
「……カイルさんは、優しいんですね」
リリアがそう言うと、青年は目を見開いた。
そして、ひどく寂しそうに笑った。
「いいえ。私は、優しくなんかありません」
「どうして?」
「本当に優しい人間なら、きっと……」
そこで、言葉が途切れた。
カイルは何かを言いかけ、唇を結んだ。
「……いえ。忘れてください」
その時だった。
リリアの視界に、文字が浮かび上がった。
《原初の権能――自動解析を開始》
《対象人物:カイル・エルデン》
《魂の状態:不安定》
《記憶構造:改変の痕跡を確認》
《警告――対象の記憶には、外部からの干渉が存在します》
「……っ!」
リリアは思わず息を呑んだ。
カイルが顔を上げる。
「どうしました?」
「あなた……」
言葉が出てこなかった。
この人の記憶は、誰かに変えられている。
それは間違いなかった。
けれど、彼自身に悪意があるのかどうかまでは、分からない。
リリアは慎重に尋ねた。
「カイルさん。最近、何か忘れてしまったことはありませんか?」
「忘れたこと?」
「例えば……大切な人の名前とか。昔の約束とか」
その瞬間。
カイルの手から、スプーンが落ちた。
甲高い音が室内に響く。
「……どうして、それを?」
彼の顔から、血の気が引いていた。
◇
カイルは両手で頭を抱えた。
「分からないんです」
震える声だった。
「ずっと、何かを忘れている気がする。目を閉じると、誰かの声が聞こえるんです」
「誰かの声?」
「はい。女の子の声です」
リリアの心臓が大きく跳ねた。
「その子は、いつも同じことを言うんです」
カイルは目を閉じた。
「――約束したよね、と」
リリアの頭に激痛が走った。
視界が白く染まる。
知らないはずの光景が、次々と浮かび上がった。
白い花が咲く庭。
銀色の髪の少女。
その少女の前に立つ、若い騎士。
騎士の顔は、目の前のカイルと同じだった。
『カイル』
少女が呼びかける。
『あなたは、私の味方でいてくれる?』
騎士は迷わず頷いた。
『もちろんです、エリシア様』
『たとえ、世界中が私を敵だと言っても?』
『はい』
騎士は剣を胸に当てた。
『私は、あなたが選ぶ道を守ります。あなたが望むなら、神々にさえ剣を向けましょう』
少女は微笑んだ。
その笑顔は、どこか泣きそうだった。
『ありがとう。……でも、ひとつだけ約束して』
『何なりと』
『いつか私が、世界を壊そうとしたら』
少女の瞳から、涙がこぼれた。
『その時は、あなたの手で私を止めて』
――景色が砕け散った。
「いやあああっ!」
リリアは頭を押さえて叫んだ。
「リリア!」
アレンが駆け寄り、彼女を抱きとめる。
ミラが慌てて治癒魔法を展開した。
しかし、リリアの意識は、記憶の深淵へ引きずり込まれていく。
目の前に、銀色の髪の少女が立っていた。
少女はリリアと同じ顔をしていた。
ただ、その瞳には、今のリリアがまだ知らないほど長い時間と、深い悲しみが宿っていた。
『思い出したのね』
「あなたは……エリシア?」
『そう。そして、あなた自身』
少女は静かに頷いた。
『でも、まだすべてを思い出さなくていい。今のあなたには、今のあなたとして生きる時間が必要だから』
「じゃあ、カイルさんは……?」
エリシアの表情が曇った。
『彼は、私が最初に信じた人』
「どうして、彼は私を忘れているの?」
『忘れたのではないわ』
少女は、悲しそうに目を伏せた。
『忘れさせられたの』
次の瞬間、世界が暗転した。
◇
「リリア! しっかりしろ!」
アレンの声で、リリアは目を覚ました。
呼吸が乱れ、全身に冷たい汗をかいていた。
「……アレン?」
「よかった……!」
アレンは、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
その声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
「急に倒れたんだ。何が見えた?」
リリアはゆっくりと身体を起こした。
そして、向かい側に立つカイルを見つめた。
彼もまた、呆然とした表情でリリアを見ていた。
「……今、私も見ました」
カイルが呟いた。
「白い花の庭と、銀色の髪の女の子。それから……剣を持った自分の姿」
彼は震える手で額を押さえた。
「私は、いったい……誰なんですか?」
その問いに、誰も答えられなかった。
やがて、レオンが重い口を開いた。
「お前の名前が、本当にカイル・エルデンなのか。それすら、疑わなければならない」
「……どういう意味ですか?」
「お前は、神々に仕える者だろう」
カイルの顔から、表情が消えた。
ミラが息を呑む。
アレンは剣を構え直した。
「やっぱり、ただの旅人じゃなかったか」
「待って!」
リリアは、アレンの前に手を伸ばした。
「彼は、自分が何者なのか分かっていないんです。少なくとも、今は……」
「だが、記憶を改変されている。神々の罠かもしれない」
「それでも、彼自身が何を望んでいるのか、まだ分からないでしょう?」
リリアはカイルを見つめた。
「あなたは、私たちを傷つけたい?」
カイルは答えられなかった。
長い沈黙のあと、彼は首を横に振った。
「……分かりません」
正直な答えだった。
「でも、あなたを見ると、胸が痛むんです。理由も分からないのに、謝らなければいけない気がする」
カイルの目から、一筋の涙がこぼれた。
「すみません。私は、あなたに何かをしたのでしょうか」
リリアは、胸が締めつけられるような思いがした。
かつてのエリシアは、この人を信じていた。
そして、今のカイルは、その記憶さえ奪われている。
彼は裏切り者なのか。
それとも、裏切り者に仕立て上げられた被害者なのか。
まだ、答えは出せない。
けれど――。
「……今は、分からなくてもいいです」
リリアは、静かに微笑んだ。
「あなたが何者なのか。何を忘れてしまったのか。少しずつ、一緒に確かめましょう」
「リリア……」
「ただし、ひとつだけ約束してください」
彼女は、真っ直ぐにカイルを見つめた。
「私たちに隠していることがあるなら、いつか必ず話してください。あなた自身の意思で」
カイルは目を見開いた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
その瞬間。
リリアの視界に、新たな文字が浮かび上がった。
《原初の記憶――第三封印の残響を確認》
《対象人物との魂の共鳴率:上昇》
《警告――過去の契約が再起動する可能性があります》
そして、最後に。
《創造主エリシアの命令を検知》
《契約内容――創造主が世界を滅ぼす場合、契約者はその魂を断つこと》
リリアの顔から、笑みが消えた。
カイルの手の甲にも、黒い紋章が浮かび上がっていた。
剣を抱く騎士の紋章。
それは、彼がかつて交わした契約の証だった。
同じ頃、神々の領域。
アステリオンは、水晶に映る光景を見ていた。
「……記憶が反応したか」
彼の隣に立つ神官が、深々と頭を下げる。
「はい。カイルの封印に揺らぎが生じています」
「構わん」
アステリオンは冷たく言い放った。
「むしろ、都合がいい」
「しかし、カイルがかつての記憶を完全に取り戻せば、我々への忠誠が失われる恐れが……」
「その前に、契約を発動させればいい」
アステリオンは水晶に指を触れた。
そこに映るのは、リリアとカイル。
「彼は創造主を守るために生まれた騎士だ。そして同時に、創造主を殺すための最後の剣でもある」
神々の王は、静かに笑った。
「リリアが真実を知れば、カイルを恐れるだろう。カイルが真実を知れば、自分自身を恐れるだろう」
水晶の中で、黒い紋章が脈打つ。
「信頼とは、脆いものだ。ほんの少し疑念を植えつけるだけで、容易く崩れる」
アステリオンは目を細めた。
「さあ、選ぶがいい。創造主エリシア」
その声が、神殿の奥深くに響いた。
「かつてお前が自らに課した契約を守るのか。それとも、今の自分を守るために、最も信じたい者を拒絶するのか」
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……今度こそ、お前に世界を選ばせはしない」
◇
夜。
隠れ家の外では、風が木々を揺らしていた。
リリアは眠れず、ひとり窓辺に座っていた。
カイルは別の部屋で休んでいる。
アレンは扉の近くで見張りを続け、ミラとレオンも交代で警戒に当たっていた。
みんなが、自分を守ろうとしてくれている。
それが嬉しかった。
同時に、怖くもあった。
もし、カイルが本当に自分を殺すための存在だったら。
もし、かつてのエリシアが、自らの手でそんな契約を結んでいたのなら。
自分は、何を信じればいいのだろう。
「……ねえ、エリシア」
リリアは、胸元に手を当てた。
「あなたは、どうして世界を滅ぼそうとしたの?」
答えはない。
ただ、遠い記憶の底から、悲しげな声が聞こえた気がした。
『私は、世界を滅ぼしたかったわけじゃない』
『ただ……もう、誰も失いたくなかったの』
リリアは目を閉じた。
その言葉の意味を、今はまだ理解できない。
けれど、いつかきっと知ることになる。
自分が何を失ったのか。
なぜ世界を創り、なぜ世界を壊す契約を結んだのか。
そして――。
どうして、カイルだけが、その約束を覚えていなければならなかったのか。
窓の外で、七つの星が不気味に輝いていた。
そのうちの一つが、音もなく黒く染まる。
第九話・完
次回予告 第十話「黒き契約と、守るための剣」
カイルの手に刻まれた、創造主を殺すための契約。
その力が目覚めれば、彼は自分の意思とは無関係にリリアへ剣を向けることになる。
契約を解除する方法を探すため、リリアたちは失われた騎士団の遺跡を目指す。
だが、旅立ちの朝。
カイルの身体に異変が起こる。
「逃げてください、リリア……!」
彼の手に、黒い剣が現れた。
そして、契約の声が告げる。
――創造主エリシアを、排除せよ。




