第10話 黒き契約と、守るための剣
第10話 黒き契約と、守るための剣
――創造主エリシアを、排除せよ。
その声は、誰の耳にも聞こえなかった。
ただ一人、カイルを除いては。
「……あ、ああ……!」
夜明け前。
隠れ家の一室で、カイルは床に膝をついていた。
右手の甲に刻まれた黒い紋章が、脈打つように光っている。
熱い。
まるで、皮膚の下に焼けた鉄を押しつけられているかのようだった。
紋章から黒い光が溢れ、腕を這い上がっていく。
「やめろ……! 私は……!」
何をやめろと言っているのか、自分でも分からなかった。
身体が動かない。
声が出ない。
頭の中に、無数の命令が流れ込んでくる。
『契約者を確認』
『創造主の魂を検知』
『対象――リリア・エヴァンジェル』
『排除命令を実行します』
「違う……!」
カイルは床に爪を立てた。
「私は、あの人を傷つけたくない……!」
その言葉を吐き出した瞬間、右腕から黒い炎が噴き上がった。
炎は空中で形を変え、一本の剣へと姿を変える。
黒い刀身。
柄には、七つの星を貫く一輪の白い花が刻まれていた。
その剣を見た瞬間、カイルの脳裏に、ひとつの光景が蘇った。
銀色の髪の少女が、泣きながら彼に告げている。
『カイル。もしも私が、世界を壊そうとしたら』
『その時は、あなたの手で私を止めて』
そして、もう一つの声。
冷たく、感情のない声が、記憶の上から重なる。
『創造主の魂を断て』
『世界を守るために、契約を果たせ』
「……やめろおおおっ!」
カイルの叫びが、夜明け前の静寂を切り裂いた。
◇
「今の声は……!」
隣の部屋で眠っていたリリアが、跳ね起きた。
ほとんど同時に、アレンが扉を開けて飛び込んでくる。
「リリア、無事か!」
「私は大丈夫。それより、今の声はカイルさんの……!」
二人は廊下を駆けた。
部屋の扉を開けた瞬間、黒い光が視界を覆う。
「カイル!」
部屋の中央に、カイルが立っていた。
その右手には、黒い剣。
腕には黒い紋様が広がり、瞳の片方が深い闇に染まっている。
彼の表情は苦痛に歪んでいた。
「来ないでください……!」
カイルは剣を握りしめた。
「お願いです……! 私から、離れて……!」
「どうしたの?」
「分からない……! 身体が、勝手に……!」
彼の右腕が持ち上がる。
剣先が、まっすぐリリアへ向けられた。
アレンが瞬時に前へ出る。
「リリア、下がれ!」
「待って!」
「だが――」
「カイルさんは、戦いたくないって言ってる!」
リリアは、黒い剣を見つめた。
視界に、無数の文字が浮かび上がる。
《原初の権能:契約解析を開始》
《対象:魂の強制契約》
《契約者:カイル・エルデン》
《契約内容:創造主エリシアの魂を断つ》
《契約状態:強制執行中》
《警告――契約は魂の深層に刻まれています》
《解除には、契約の根源への干渉が必要です》
「魂に……刻まれている?」
リリアが呟いた、その時だった。
「逃げてください、リリア……!」
カイルの身体が大きく揺れた。
黒い剣が振り下ろされる。
「っ!」
アレンの剣が、その一撃を受け止めた。
金属音が鳴り響き、床に亀裂が走る。
「ぐっ……!」
アレンの身体が押し戻された。
黒い剣から溢れる力は、ただの魔力ではない。
神々の権能に似ている。
しかし、それよりも深く、重い。
まるで世界そのものが、カイルの腕を通してリリアを拒絶しているかのようだった。
「アレン!」
「大丈夫だ!」
アレンは歯を食いしばり、剣を押し返す。
「だが、こいつの力……普通じゃない!」
「分かってる!」
リリアは両手を握りしめた。
力を使えば、止められるかもしれない。
けれど、カイルの魂に刻まれた契約へ直接干渉すれば、彼自身を傷つける可能性がある。
それでも、何もしなければ――。
「カイルさん!」
リリアは、一歩踏み出した。
「聞こえますか!」
「来ないで……!」
「あなたは、私を傷つけたくないんでしょう?」
カイルの動きが、一瞬だけ止まった。
「だったら、まだ諦めないでください!」
「でも……私は……!」
「あなたが何者なのか、私はまだ知りません。あなたが昔、何をしたのかも分からない!」
リリアの声が震える。
怖かった。
目の前にいる青年が、自分に剣を向けていることが。
このまま近づけば、命を落とすかもしれないことが。
それでも、彼を見捨てたくはなかった。
「それでも、今のあなたは、私を傷つけたくないって言った!」
リリアは、カイルを見つめた。
「私は、その言葉を信じたい!」
カイルの瞳が揺れた。
黒く染まった瞳の奥に、ほんの一瞬、元の色が戻る。
「……リリア、様……」
その瞬間、黒い紋章が激しく輝いた。
『契約者の抵抗を確認』
『意思による契約の拒絶を検知』
『強制執行を強化します』
「がああああっ!」
カイルの身体から、黒い衝撃波が放たれた。
「危ない!」
アレンがリリアを抱きかかえ、横へ飛び退く。
衝撃波が壁を砕き、隠れ家全体が大きく揺れた。
そこへ、ミラとレオンが駆け込んでくる。
「何が起きてるのよ!?」
「カイルの契約が発動した!」
アレンが叫んだ。
レオンは黒い剣を見た瞬間、目を見開いた。
「まさか……あの剣は……!」
「知っているんですか、レオンさん!」
「知っているも何も……!」
レオンは険しい表情でカイルを見据えた。
「それは、かつて創造主を守るために鍛えられた剣だ!」
「守るための剣?」
リリアが聞き返す。
「そうだ。だが、神々はその力を逆転させた。守護の契約を、創造主を殺すための契約へと変えたんだ!」
レオンの拳が震えた。
「そんなことができるのは、神々の中でも限られた者だけだ……!」
「つまり、カイルさんは神々に利用されているってこと?」
「その可能性が高い!」
リリアはカイルを見た。
彼は黒い剣を握りしめながら、必死に抵抗していた。
腕から血が流れ落ちている。
それでも、剣先だけはリリアに向けられていた。
契約が、彼の意思をねじ曲げているのだ。
「……そんなの、絶対に許さない」
リリアは立ち上がった。
「リリア、待て!」
アレンが腕を伸ばす。
「今のカイルに近づくのは危険だ!」
「分かってる」
「なら――」
「でも、危険だからって、見捨てたくないの!」
リリアは振り返った。
「アレン。私が自分で選ぶことを、認めてくれるんでしょう?」
アレンは言葉を失った。
そして、苦しげに目を伏せたあと、剣を握り直した。
「……ああ」
彼はリリアの隣に立った。
「なら、俺はお前が選んだ道を守る」
その言葉に、リリアは頷いた。
◇
リリアは、ゆっくりとカイルへ近づいた。
一歩。
また一歩。
黒い剣が震える。
カイルは首を振り続けていた。
「来ないで……! お願いです……!」
「カイルさん」
「私は……あなたを……!」
「うん」
「殺したくない……!」
その言葉と同時に、リリアは彼の目の前までたどり着いた。
剣先が、彼女の胸元に触れる。
あと少し動けば、命を奪える距離だった。
アレンが息を呑む。
ミラは両手を握りしめた。
レオンも、動かなかった。
リリアは黒い剣を見つめ、静かに口を開いた。
「……この契約を、解除します」
《警告》
《契約への干渉は、対象の魂に重大な負荷を与える可能性があります》
《成功率:算出不能》
《実行しますか?》
リリアは、迷わず答えた。
「はい」
世界が、一瞬だけ静止した。
彼女の指先から、淡い銀色の光が広がる。
その光は黒い剣に触れ、刀身を包み込んだ。
次の瞬間、リリアの視界に、無数の鎖が現れた。
それは、カイルの魂を取り囲んでいた。
幾重にも重なった黒い鎖。
それぞれに、神々の文字が刻まれている。
『服従』
『命令』
『排除』
『絶対遵守』
そして、中央にある一番太い鎖には、こう刻まれていた。
『創造主を殺せ』
「……こんなもの」
リリアは、唇を噛みしめた。
「人の心を縛るために、魂まで利用するなんて……!」
銀色の光が強まる。
鎖が軋み、一本ずつ砕けていった。
だが、最後の鎖だけは違った。
そこには、神々の文字とは異なる、古い文字が刻まれていた。
リリアは、その文字を知っていた。
エリシアが創世の際に用いた、原初の言葉。
そして、その鎖に刻まれていたのは――。
『エリシアの願いに従え』
「……え?」
リリアの動きが止まった。
この契約は、神々が一方的に押しつけたものではない。
その根源には、かつての自分自身の意思が存在していた。
なぜ?
どうしてエリシアは、自分を殺すための契約を残したのか。
考えようとした瞬間、鎖が激しく光った。
『契約の根源への干渉を確認』
『創造主の権能との衝突が発生』
『警告――世界構造に負荷が発生しています』
「くっ……!」
激痛が全身を貫いた。
鼻から血が流れ落ちる。
足元が崩れそうになる。
それでも、リリアは手を離さなかった。
「私は……!」
彼女は、鎖を見つめた。
「昔の私が何を願ったとしても……!」
銀色の光が、再び強く輝く。
「今の私が、どうするかは……今の私が決める!」
最後の鎖が、音を立てて砕けた。
黒い剣が、光の粒子となって崩れていく。
カイルの腕から紋章が消え、黒く染まっていた瞳にも、本来の色が戻った。
「……あ……」
カイルは呆然と自分の手を見つめた。
「私、は……」
そして、力が抜けたように膝をついた。
「カイルさん!」
リリアもまた、その場に崩れ落ちた。
アレンが慌てて彼女を抱きとめる。
「リリア! おい、しっかりしろ!」
「……だい、じょうぶ……」
リリアは弱々しく笑った。
「ちょっと……疲れただけ……」
「どこが大丈夫なんだ!」
アレンの声が震えた。
彼女の顔は真っ青で、呼吸も浅い。
ミラが駆け寄り、すぐさま治癒魔法を展開した。
「もう、無茶ばっかりして! お願いだから、自分のことも大事にしてよ……!」
ミラの瞳には涙が浮かんでいた。
リリアは、申し訳なさそうに微笑んだ。
「……ごめんね」
「謝らなくていいから!」
ミラは声を荒らげた。
「ただ、ちゃんと帰ってきてよ……。私たちを置いていかないで」
その言葉に、リリアは目を見開いた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……うん。約束する」
その約束が、どれほど大切なものなのか。
今のリリアには、まだ分かっていなかった。
◇
しばらくして。
カイルは、床に座り込んだまま、自分の手を見つめていた。
「……私は、あなたに剣を向けた」
彼は震える声で言った。
「あなたを殺そうとしたんです」
「でも、あなた自身の意思じゃなかった」
「それでも……」
カイルは顔を覆った。
「もし、あなたが契約を解除してくれなかったら。私は本当に、あなたを殺していたかもしれない」
「そうかもしれません」
リリアは、正直に答えた。
カイルが顔を上げる。
「……それでも、あなたを信じるんですか?」
「全部を信じているわけじゃありません」
リリアは少しだけ困ったように笑った。
「まだ、あなたが何者なのか分からないから。でも、あなたが私を傷つけたくないと思っていたことは、信じています」
「……どうして?」
「あなたが、必死に抵抗していたから」
リリアは、彼の右手を見つめた。
「あなたは最後まで、私を傷つけたくないって言っていました。それだけで、今のあなたを疑う理由にはならないと思います」
カイルは、何も言えなかった。
ただ、顔を伏せ、両手を強く握りしめた。
やがて、彼はゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その声は、かすれていた。
「私は、まだ自分が何者なのか分かりません。でも、いつか必ず、自分の記憶を取り戻します。そして……あなたに何があったのかも、知りたい」
「うん。一緒に探しましょう」
リリアは頷いた。
しかし、その時。
レオンが、静かに口を開いた。
「……ひとつ、気になることがある」
「何ですか?」
「リリア。お前は、契約を解除したと言ったな」
「はい」
「だが、本当にすべて解除できたのか?」
その問いに、リリアは言葉を失った。
レオンは、床に残された黒い光の跡を指さした。
そこには、紋章の一部が焼きついていた。
完全に消えたはずの七つの星。
その中央に、一輪の白い花。
「契約の表面は消えた。だが、根源にあった言葉は、お前自身の意思に由来していた」
レオンは険しい顔をした。
「つまり、神々が契約を作り変える以前から、創造主は自分を止めるための仕組みを残していた可能性がある」
「……私が、自分を殺すために?」
「いや」
レオンは、首を横に振った。
「本当にお前を殺すためなら、あんな形で契約を残す必要はない。おそらく、何か別の目的があったはずだ」
アレンが眉を寄せた。
「別の目的?」
「創造主は、世界を滅ぼそうとしたわけではない。少なくとも、俺が知る記録ではな」
レオンは、古びた書物を取り出した。
「それなのに、なぜ自分自身を止める契約を残したのか。答えを知るには、古い騎士団の遺跡へ行く必要がある」
「騎士団の遺跡……」
リリアは、その言葉を繰り返した。
「そこに、私の過去が残っているんですか?」
「おそらくな。創造主を守った騎士たちの記録と、神々が隠した契約の原本。その両方が残されている可能性がある」
レオンは地図を広げた。
森の北東。
険しい山々に囲まれた場所に、古い印が記されている。
「ここへ向かう。神々が俺たちの動きを察知する前に」
アレンが頷いた。
「分かった。出発の準備をしよう」
「私も行くわ」
ミラが、すぐに手を挙げた。
「リリアを一人にするわけにはいかないもの」
「もちろん、私も行きます」
リリアは、地図に描かれた場所を見つめた。
まだ、何も分からない。
自分がなぜ世界を創ったのか。
なぜ自分を止める契約を残したのか。
そして、かつて信じた人々との間に、何があったのか。
けれど、今度は一人ではない。
アレンがいる。
ミラがいる。
レオンも、カイルもいる。
過去がどれほど恐ろしいものだったとしても、自分の意思で向き合えるはずだ。
「……行こう」
リリアは、顔を上げた。
「私、自分の過去から逃げたくない」
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
◇
その頃、神々の領域。
アステリオンは、砕けた水晶を見つめていた。
「……契約を解除したか」
神官が、恐る恐る口を開く。
「カイルの魂に刻まれた契約が、一部消失しました。これほど強固な契約を、人間の姿のままで解除するとは……」
「人間の姿、か」
アステリオンは、冷たく笑った。
「それこそが、あの者の最も厄介なところだ」
「と、おっしゃいますと?」
「創造主は、かつて神々を超える存在だった。だが、今は人間として生まれ、人間として悩み、人間として選ぼうとしている」
アステリオンの瞳が細くなる。
「その弱さが、あの者を縛ることもある。だが……」
彼は玉座から立ち上がった。
「その弱さこそが、神々の権能すら覆す力になる可能性もある」
神官は息を呑んだ。
「では、次はどうなさいますか?」
アステリオンは、神殿の奥にある巨大な扉へ視線を向けた。
扉には、七つの封印が施されている。
その向こうには、神々でさえ容易には触れられない、古代の遺物が眠っていた。
「騎士団の遺跡へ向かうのなら、歓迎してやろう」
彼は、ゆっくりと手を伸ばした。
「そこに眠る真実が、あの者を救うとは限らないのだからな」
一つ目の封印が、音もなく解けた。
その奥で、何かが目を覚ます。
かつて創造主に仕えた騎士たちの記憶。
そして、彼らが最後に遺した、世界を揺るがす秘密。
第十話・完
### 次回予告 第十一話「忘れられた騎士団と、最初の試練」
契約から解放されたカイルを仲間に加え、リリアたちは古代騎士団の遺跡を目指す。
そこには、創造主エリシアに仕えた騎士たちの記録が眠っているという。
しかし、遺跡の入口を守るのは、かつて神々に敗れた騎士の亡霊だった。
「創造主の名を継ぐ者よ。お前は、何のために力を求める?」
試されるのは、リリアの力ではない。
彼女が何を守り、何を選ぶのか――その心だった。




