第8話 最初の裏切り者と、消された約束
第8話 最初の裏切り者と、消された約束
「彼女が守ろうとする人間たちを、彼女自身の手で失わせるのだ」
神々の王、アステリオンの言葉が、白亜の神殿に冷たく響いた。
玉座の前に跪く神官たちは、誰一人として顔を上げない。
彼らは知っていた。
創造主エリシアが目覚めれば、神々の支配は終わる。
そして、リリア・エヴァンジェルが本当の意味で自らの力を取り戻せば、彼らの存在そのものが脅かされるということも。
「人間は弱い。愚かで、欲深く、恐怖に簡単に屈する」
アステリオンは、手のひらに浮かんだ小さな光を見つめた。
そこには、森の奥に身を潜めるリリアたちの姿が映し出されている。
「だが、彼女は違う。自分が傷つくことよりも、他者が傷つくことを恐れている」
アステリオンの唇に、冷たい笑みが浮かんだ。
「ならば、その優しさこそが彼女の弱点だ」
彼が指を鳴らすと、光の中に一人の青年の姿が現れた。
茶色の髪に、穏やかな瞳。
どこにでもいる、ごく普通の人間だった。
しかし、その胸元には、神々に仕える者だけが持つ白い紋章が刻まれていた。
「彼を利用しろ。彼女が信じるものを、彼女自身の手で疑わせるのだ」
「かしこまりました」
青年は深々と頭を下げた。
その瞳には、わずかな迷いもなかった。
――少なくとも、今は。
◇
「……誰かが、私たちを探している」
森の隠れ家で、リリアは突然顔を上げた。
胸の奥が、ひどくざわついていた。
理由は分からない。
ただ、世界そのものが何かを告げようとしているような、不思議な感覚があった。
「また神々の追っ手か?」
剣の手入れをしていたアレンが、すぐに立ち上がる。
「分からない。でも……さっきから、嫌な感じがするの」
「嫌な感じ、ね」
ミラは椅子に座ったまま、腕を組んだ。
「リリアのその勘、今まで何度も当たってるのよね。できれば外れてほしいけど」
「ごめんね」
「謝らなくていいってば。悪いのは追いかけてくる神様たちなんだから」
ミラは頬を膨らませた。
その姿に、リリアは少しだけ笑った。
ここ数日、ずっと胸の中にあった不安が、ほんの少し和らぐ。
自分には、守りたいものができた。
前世では、誰かに嫌われることが怖くて、自分の気持ちを押し殺していた。
けれど今は違う。
失うことが怖くても、誰かと一緒にいたいと思える。
だからこそ――。
「リリア」
レオンの声が、静かに響いた。
「お前の力が反応しているのは、単に敵が近づいているからではないかもしれない」
「どういうことですか?」
レオンは机の上に、一冊の古びた書物を置いた。
黒い表紙には、七つの星が描かれている。
その中央には、刃物で削り取られたような跡があった。
「これは、神々が世界を支配する以前に書かれた記録だ。かつて創造主に仕えた騎士たちが、後世に残したものだとされている」
アレンが眉をひそめた。
「そんな記録が残っていたのか」
「正確には、残されていたというべきだな。神々はこの本の存在を消したつもりだったらしい」
レオンは本を開いた。
古代文字が並ぶページの端には、何度も繰り返し書かれた一文があった。
『最初の裏切り者は、神ではない』
リリアは息を呑んだ。
「……神様じゃ、ない?」
「ああ」
レオンは重々しく頷いた。
「神々が創造主に反旗を翻すよりも前に、彼女の秘密を外部に漏らした者がいたらしい」
「誰が、そんなことを……」
「名前は消されている。ただし、その人物が残した最後の言葉だけは記録されていた」
レオンがページをめくる。
そこには、細い文字でこう記されていた。
『私は、あの方を裏切ったのではない』
『あの方が、世界を失わずに済む道を選んだのだ』
リリアの指先が震えた。
その文章を見た瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走る。
視界が揺れ、知らないはずの景色が脳裏に浮かんだ。
白い花が咲く庭。
銀色の髪を風になびかせる少女。
そして、その前に跪く一人の人物。
顔は見えない。
けれど、その声だけは、はっきりと聞こえた。
『どうか、私を恨まないでください』
『あなたが愛した世界を、守りたかったのです』
「――っ!」
リリアは胸を押さえ、机に手をついた。
「リリア!」
アレンが駆け寄り、彼女の身体を支える。
「大丈夫か?」
「うん……大丈夫。今、何かが見えたの」
「記憶か?」
「たぶん。でも、誰なのか分からない。声も、顔も……」
言葉が途切れた。
リリアは自分の手を見つめる。
怖かった。
記憶を取り戻すたび、自分の知らない自分が増えていく。
いつか、そのすべてが今の自分を塗りつぶしてしまうのではないか。
そんな恐怖が、心の奥底に潜んでいた。
「無理に思い出す必要はない」
アレンは、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「今のお前が知らないことを、今すぐ知る必要はないんだ」
「でも、知らなかったら……また同じことを繰り返すかもしれない」
「それでもだ」
アレンは迷わず答えた。
「過去を知ることと、過去に従うことは違う。何を選ぶかは、お前が決めればいい」
その言葉に、リリアの胸が温かくなった。
かつての自分なら、誰かの期待に応えようとして、無理にでも記憶を取り戻そうとしたかもしれない。
けれど今は、少しだけ違う。
「……ありがとう、アレン」
「礼を言われるようなことじゃない」
そう言いながら、アレンは彼女を支える手を離さなかった。
その様子を見ていたミラが、わざとらしく咳払いをする。
「はいはい。いい雰囲気のところ悪いんだけど、話を続けてもいい?」
「ミラ!」
「冗談よ、冗談!」
ミラは笑った。
レオンも、ほんのわずかに表情を和らげる。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
書物のページが、誰も触れていないのにひとりでにめくれ始めたのだ。
紙が擦れる音が、静かな部屋に響く。
そして、一番最後のページで止まった。
そこには、これまでの古代文字とは違う文字が浮かび上がっていた。
『創造主エリシアへ』
『もしも、あなたが再び人として生まれたのなら』
『どうか、あの約束を思い出さないでください』
リリアの呼吸が止まった。
「……あの約束?」
次の瞬間、文字の下に新たな一文が現れる。
『あなたが私に託した、世界を終わらせるための約束を』
部屋の空気が凍りついた。
「世界を……終わらせる?」
ミラが呆然と呟く。
「ちょっと待ってよ。世界を創った人が、世界を終わらせる約束をしたってこと?」
「まだ断定はできない」
レオンは書物を閉じようとした。
しかし、その手が止まった。
ページの中央に、七つの星とは別の紋章が浮かび上がっていたからだ。
それは、剣を抱く一人の騎士の姿。
そして、その紋章の下には、ひとつの名前が刻まれていた。
「……そんな、馬鹿な」
レオンの顔から血の気が引いた。
「レオンさん?」
リリアが声をかけても、彼は答えなかった。
ただ、紋章を見つめている。
「この名前は……」
その声は、かすかに震えていた。
「かつて、創造主エリシアを守ると誓った騎士団の中で、最も忠実だった男の名だ」
「それが、どうしたんですか?」
「そいつは――」
レオンは、ゆっくりと顔を上げた。
「神々に反逆した騎士たちを、皆殺しにした男だ」
◇
同じ頃。
隠れ家から離れた森の入口に、一人の青年が立っていた。
茶色の髪。
穏やかな顔立ち。
そして、胸元に刻まれた白い紋章。
彼は手のひらに、小さな水晶を乗せていた。
水晶の中には、リリアたちの姿が映っている。
「対象の居場所を確認しました」
青年が静かに告げる。
水晶の向こうから、アステリオンの声が響いた。
『よくやった。お前ならば、彼女も警戒しないだろう』
「……はい」
『忘れるな。お前が何者であるかを』
青年は目を伏せた。
「私は、神々に仕える者です」
『そうだ。お前は彼女に近づき、信頼を得る。そして、彼女が最も大切にする者たちを、彼女自身の力で傷つけさせるのだ』
「……承知しました」
通信が途切れる。
森には、静寂が戻った。
青年はしばらく水晶を見つめていたが、やがて懐から小さなものを取り出した。
それは、古びた銀色の指輪だった。
表面には、七つの星ではなく、一輪の白い花が刻まれている。
青年は指輪を強く握りしめた。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「今度こそ、守りたかったのに」
その瞳に、一瞬だけ深い悲しみが宿る。
だが、次の瞬間には、何事もなかったかのように表情が消えた。
彼は森の奥へ歩き始めた。
リリア・エヴァンジェルに会うために。
そして、かつて交わされた約束を、再び繰り返すために。
◇
隠れ家では、リリアが窓の外を見つめていた。
木々の向こうから、誰かが近づいてくる気配がする。
不思議なことに、恐怖はなかった。
むしろ、懐かしさに似た感情が胸を満たしていた。
初めて会うはずなのに。
名前さえ知らないはずなのに。
どうして、こんなにも――。
「……会いたい」
自分でも驚くほど小さな声だった。
その瞬間、彼女の視界に文字が浮かび上がる。
《原初の記録:新たな反応を検知》
《封印された記憶との共鳴を確認》
《警告――対象人物との接触は、魂の構造に重大な影響を及ぼす可能性があります》
そして、最後に。
《対象人物:識別不能》
《記録上の分類――最初の裏切り者》
リリアは目を見開いた。
扉の向こうで、足音が止まる。
コン、コン。
控えめなノックが二度。
そして、聞き覚えのない青年の声がした。
「突然すみません。旅の途中で道に迷ってしまって……」
穏やかで、優しい声だった。
「どなたか、いらっしゃいませんか?」
アレンが剣に手をかける。
レオンの顔が険しくなる。
ミラは、リリアの手をそっと握った。
リリアは扉を見つめたまま、動けなかった。
なぜなら。
扉の向こうにいる人物の気配が、ひどく悲しげに感じられたからだ。
まるで、長い長い時間をかけて、ようやく帰ってきた人のように。
そして、彼女の胸の奥で、忘れられた記憶が囁いた。
『おかえりなさい、エリシア』
――その声は、誰のものだったのだろう。
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次回予告 第九話「優しい訪問者と、偽りの記憶」
隠れ家を訪れた謎の青年。
彼は自らを旅人だと名乗り、リリアたちに助けを求める。
しかし、彼の存在を前にして、レオンは強い警戒を露わにした。
「そいつを中に入れるな」
その言葉の意味を知る前に、リリアは青年の瞳に、かつての自分が失ったはずの景色を見つけてしまう。
彼は敵なのか。
それとも、かつてエリシアが愛した誰かなのか。
そして、最初の裏切り者が隠し続けてきた真実とは――。




