第83話 扉の向こうから届いた声
第83話 扉の向こうから届いた声
コン。
コン。
コン。
三度のノックが、世界の外側に響いた。
扉の向こうに、誰かがいる。
その事実だけで、リリアの胸は不思議なほど強く締めつけられた。
恐怖ではない。
期待とも違う。
ずっと待っていた誰かが、ようやく帰ってきたような感覚だった。
「……誰か、いるんですか?」
リリアが問いかける。
返事はなかった。
ただ、扉の中央に刻まれた名前が、淡く光っている。
――《リリア》
その文字を見た瞬間、観測者が声を上げた。
「触れてはいけない!」
リリアの手が、ぴたりと止まる。
「どうして?」
「わからない。だが、あの声が君の名前を刻むなと言った。理由もわからないまま従うのは危険だが、無視して進むのも危険だ」
「……そうだね」
リリアは、手を下ろした。
誰かに止められたからではない。
自分自身が、まだ扉の向こうにいる存在のことを何も知らないからだ。
知りたいという気持ちだけで、相手の意思を踏みにじりたくはなかった。
「まず、話をしてみよう」
リリアは扉に向かって言った。
「私はリリア・エヴァンジェル。あなたが誰なのか、どうして私の名前を知っているのか、教えてほしい」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、扉の向こうから声が聞こえた。
『……リリア』
その声は、少女のものにも、少年のものにも聞こえた。
若い声なのに、どこか遠い時間を生きてきたような響きがある。
『大きくなったんだね』
リリアは息をのんだ。
「私を、知っているの?」
『知っているよ』
「いつから?」
『あなたが、まだ自分の名前を持つ前から』
その言葉に、アレンがリリアの前へ出ようとした。
しかし、リリアはそっと彼の手に触れ、首を横に振った。
怖くないわけではない。
それでも、この声の主が何を伝えようとしているのか、まずは聞きたかった。
「私が名前を持つ前って……どういう意味?」
『そのままの意味だよ』
『あなたがリリアと呼ばれる前。エリシアの力とつながる前。そして、あなた自身が何者なのかを、まだ誰も決めていなかった頃』
リリアの胸元で、紋章が強く光った。
観測者が、顔をこわばらせる。
「そんなことが……」
アステリアもまた、言葉を失っていた。
エリシアの創造した世界に生まれたリリア。
そのリリアが、世界の創造より前から、誰かに知られていた。
それは、単なる記憶の食い違いでは済まされない。
世界の始まりそのものに関わる矛盾だった。
「あなたは、第三の存在なの?」
リリアが尋ねた。
扉の向こうで、小さな息をつく音がした。
『……そう呼ぶこともできる』
「それじゃ、あなたが最初の約束を交わした相手なの?」
『違うよ』
答えは、意外なほどはっきりしていた。
『私は、最初の約束を交わした者ではない』
『私は、その約束が交わされるのを、止めようとした者だ』
観測者の表情が変わった。
「止めようとした……?」
『そう』
声が静かに続ける。
『世界を創る前に、二人は決めようとしていた。世界を創ること。そして、そこに生まれるすべての存在に、選ぶ権利を与えること』
『でも、私は反対した』
リリアは、扉を見つめた。
「どうして?」
『世界が生まれれば、必ず選ばれないものが生まれるから』
その言葉は、今まで何度も考えてきた問題を、真正面から突きつけていた。
『誰かが未来を選ぶということは、別の未来を選ばないということ』
『どれほど優しい世界を創っても、すべての可能性を同時に生きることはできない』
『だから私は、世界を創る前に、もう一度考えてほしかった』
リリアは、静かにうなずいた。
「……それで、二人はあなたの話を聞いたの?」
『聞いてくれたよ』
声に、かすかな笑みが混じった。
『最後まで、聞いてくれた』
『そして、私の意見を聞いたうえで、それでも世界を創ると決めた』
観測者が、目を閉じた。
その表情から、何かを思い出しかけていることが伝わってきた。
「……そうだったのか」
彼は、かすれた声でつぶやいた。
「私たちは、君の反対を無視したのではなかった。君の話を聞いたうえで、選んだんだな」
『そうだよ』
『だから、私は二人を恨んでいない』
しかし、その声はすぐに沈んだ。
『ただ……ひとつだけ、約束してほしかったことがある』
「何を?」
『世界を創ったあとも、私の意見が間違っていたと、勝手に決めないでほしい』
扉の表面に、細い亀裂が走った。
『世界が生まれたからといって、世界を創らなかった未来が、無価値になるわけじゃない』
『選ばれなかった未来にも、そこにしかなかった願いがある』
リリアの脳裏に、第四の約束がよみがえった。
――選ばれなかった未来にも、選び直す機会を残す。
彼女は、ゆっくりと息を吸った。
「だから、あなたは世界の外側にいるの?」
『……それは、少し違う』
「違う?」
『私は、世界の外側にいるわけじゃない』
扉の向こうの声が、かすかに震えた。
『世界が生まれたとき、私は……』
そこで、声が途切れた。
扉全体が激しく揺れた。
黒い文字が表面に浮かび上がる。
――《対話記録への外部干渉を検知》
――《未確定情報の開示を停止》
――《第三の存在:応答を中断せよ》
リリアは、すぐに扉へ向き直った。
「待って! まだ話が終わっていない!」
『リリア、聞いて』
声が、必死に彼女を呼んだ。
『今、私が何者なのかを知ろうとしないで』
「どうして?」
『あなたが私のことを知れば、あなたは私を助けようとする』
リリアは、言葉を失った。
『そして、あなたは自分の力を使って、私を救おうとする』
『でも、それをしてはいけない』
「……私が助けることが、いけないの?」
『違う』
声が、はっきりと答えた。
『あなたが助けたいと思うことは、あなたの自由だよ』
『でも、私を救うために、あなたが何者なのかを失ってほしくない』
その言葉を聞いた瞬間、リリアの胸に痛みが走った。
どこかで、同じ言葉を聞いた気がした。
誰かが、自分を守るために、自分の選択を奪おうとしていた。
けれど、この声の主は違う。
助けを拒んでいるのではない。
自分のために、リリアが自分自身を犠牲にすることを恐れているのだ。
「……私は、あなたを助けたいと思うかもしれない」
リリアは、扉に向かって告げた。
「でも、あなたが誰なのかを知ったからって、必ず助けなきゃいけないとは思わない。あなたが何を望んでいるのかを聞いて、私自身がどうしたいのかを考える」
彼女は、胸元の紋章に触れた。
「それが、私の選択だから」
長い沈黙があった。
そして、扉の向こうから、かすかな笑い声が聞こえた。
『……やっぱり、あなたはリリアなんだね』
その瞬間、扉に刻まれていた《リリア》の文字が消えた。
代わりに、三つ目の円が、ゆっくりと開いていく。
中には、何もなかった。
ただ、ひとつの小さな光が浮かんでいた。
リリアは、光を見つめた。
「これは……?」
『私が、あなたに渡せるもの』
声が答える。
『名前ではない。記憶でもない』
『あなたが、これから自分で選ぶための、小さな手がかりだよ』
光は、扉を通り抜け、リリアの手のひらへと落ちてきた。
触れた瞬間、彼女の中に、短い映像が流れ込んだ。
何もない空間。
二人の人物が向かい合っている。
一人は、白い花を手にした観測者。
もう一人は、光をまとったエリシア。
そして、その二人の間に、幼いリリアによく似た少女が立っていた。
少女は、二人を交互に見つめていた。
やがて、彼女は小さな手を差し出した。
『ねえ』
『もし、世界を創ったあとで、誰かが間違えたら……』
少女の声が、リリアの心に響く。
『その人にも、もう一度選び直す機会をあげてね』
映像が途切れた。
リリアは、呆然と立ち尽くした。
「……今の子は、誰?」
扉の向こうから、声が答えた。
『その答えは、まだあなたの中にはない』
『でも、ひとつだけ覚えておいて』
『あなたは、誰かの願いを叶えるために生まれたわけじゃない』
リリアは、光を握りしめた。
『あなたが生きる理由は、あなた自身が選んでいいんだよ』
その言葉を最後に、扉は静かに閉じ始めた。
「待って!」
リリアは、一歩踏み出した。
「もう少しだけ、話を聞かせて!」
『ごめんね』
声が、優しく響く。
『今は、まだ話せない』
『でも、あなたが自分の意思でここへ来たことを、私は忘れない』
扉が閉じる直前、声が最後に告げた。
『そして、リリア』
『次に会うときは、私のことを救おうとする前に、ひとつだけ聞いてほしい』
「何を?」
『私は、本当に救われたいと思っているのか』
扉が閉じた。
同時に、世界の外側に漂っていた光が、ひとつずつ消えていく。
リリアの手のひらには、小さな光だけが残っていた。
*
「……今の映像」
最初に口を開いたのは、アステリアだった。
「エリシアと観測者がいた。けれど、あの少女は……」
「私に似ていた」
リリアが答えた。
「でも、私じゃない。少なくとも、私にはあの記憶がない」
観測者は、閉じた扉を見つめていた。
「世界が生まれる前に、第三の存在は二人に意見を伝えていた。そして、世界が生まれたあとも、選び直す機会を残してほしいと願った」
「それって……」
ミラが顔を上げる。
「第四の約束につながっているの?」
「可能性はある」
観測者は、慎重に答えた。
「だが、第四の約束を誰が最初に考えたのかは、まだわからない」
リリアは、手のひらの光を見つめた。
その光は、何も語らない。
ただ、彼女が指を開くと少し明るくなり、握りしめると静かに弱まった。
まるで、彼女の意思に反応しているかのようだった。
「私は、あの人を助けたいと思うかもしれない」
リリアは、ゆっくりと口を開いた。
「でも、あの人が何を望んでいるのかを、まだ知らない」
アレンがうなずく。
「なら、まずはそれを確かめよう」
「うん」
リリアは顔を上げた。
「誰かの願いを叶えるためじゃなく、誰かの意思を確かめるために」
そのとき、手のひらの光が、突然強く輝いた。
リリアの目の前に、新たな記録が現れる。
――《第三の存在:応答終了》
――《対話記録:一部保存》
――《第三の存在の願い:未確定》
そして、最後の一行。
――《次回接続条件:リリア・エヴァンジェルが、自身の意思で過去を選び直すこと》
「……私が、自分の過去を選び直す?」
リリアは、息をのんだ。
過去を変えることではない。
忘れた記憶を取り戻すことだけでもない。
自分がこれまで歩いてきた道を、どんな意味で受け止めるのか。
それを、自分自身で選び直すということなのだろうか。
彼女の脳裏に、前世の記憶がよみがえった。
誰かに嫌われることを恐れ、自分の気持ちを押し殺していた日々。
何も望まなければ、傷つかずに済むと思っていた。
けれど、望まないことを選び続けた結果、自分が何をしたいのかさえ、わからなくなっていた。
リリアは、ゆっくりと息を吐いた。
「……私、まだ自分の過去を全部受け入れられたわけじゃない」
アレンが、そっと彼女の手を握った。
「それでもいい」
「うん」
リリアは、小さくうなずいた。
「でも、今度は誰かに決めてもらうんじゃなくて、自分で考えてみたい」
閉じた扉の向こうにいる存在が、何者なのか。
なぜ自分の名前を知っていたのか。
そして、なぜ自分の過去を選び直す必要があるのか。
答えは、まだわからない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
リリアは、過去に縛られるために生きているのではない。
過去をなかったことにするためでもない。
過去を抱えたまま、これからの自分を選ぶために生きているのだ。
そのとき、彼女の手のひらの光が、最後に一度だけ明滅した。
そこに、見知らぬ一文が浮かび上がる。
――《過去の選び直し:最初の記憶を再生します》
リリアの視界が、再び白く染まった。
今度は、扉の向こうではない。
自分自身の、まだ知らない過去へと。
第83話 終
次回、第84話「リリアが生まれる前の記憶」
第三の存在から渡された、小さな光。その光が開くのは、エリシアの記憶ではない、リリア自身の過去だった。彼女が生まれる前に何があったのか。そして、世界の始まりとリリアの魂は、どこでつながったのか。




