第82話 世界を創る前に決められたこと
第82話 世界を創る前に決められたこと
――《第三の存在:未確定》
その文字が浮かび上がった瞬間、世界の外側に、無数の光が現れた。
星ではない。
魂でもない。
それらは、まだ何者にもなっていない可能性だった。
生まれることを選ばなかった未来。
選ばれる前に失われた命。
そして、誰にも名前を呼ばれなかった存在。
それらが、リリアたちの周囲を静かに漂っていた。
「……なんて数だ」
レオンが息をのむ。
「このすべてが、世界になる可能性だったというのか?」
「いいえ」
観測者が答えた。
「世界になる可能性だけではない。世界にならなかったものも、ここには含まれている」
彼は、漂う光のひとつに手を伸ばした。
だが、触れる直前に、その手を止めた。
「ここにあるのは、選ばれた未来だけではないんだ」
リリアは、光のひとつを見つめた。
その中には、ほんの一瞬だけ、見知らぬ街の景色が浮かんだ。
誰も神々に祈らず、誰も魔法を使わず、それでも人々が笑いながら暮らしている世界。
別の光には、巨大な樹木に覆われた大地が見えた。
さらに別の光には、海しか存在しない世界があった。
どれも、実現しなかった未来。
けれど、確かに可能性として存在していたものだった。
「世界を創る前に、こんなにも多くの未来があったのね……」
ミラがつぶやく。
「なら、どうして今の世界が選ばれたの?」
その問いに、観測者はすぐには答えなかった。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「それを決めたのが、私たちだったからだ」
*
観測者は、リリアたちを振り返った。
「世界が生まれる前、私たちは三つのことを決めた」
「三つ?」
リリアが尋ねる。
「ああ。ひとつ目は、世界を創ること。ふたつ目は、創られた存在の意思を、創造者が勝手に奪わないこと」
そこで、観測者の声がわずかに揺れた。
「そして、三つ目は……世界が生まれる前に、ある存在の意思を確かめることだった」
「ある存在?」
「第三の存在だ」
リリアの胸元に、再び紋章が浮かんだ。
二つの点を結ぶ線。
その中央にある、空白。
「私たちは、その存在が何を望んでいるのかを知らなかった。だから、世界を創る前に、その意思を確かめようとしたんだ」
「それなら、どうして確かめなかったの?」
アレンが問いかける。
観測者は、目を伏せた。
「……確かめる前に、世界を創ることを選んだからだ」
空間が、静まり返った。
「私たちは、すべての答えがそろうまで待つことができなかった。世界を創らなければ、そこで生きる者たちも生まれない。だが、世界を創れば、まだ答えの出ていない問題を抱えたまま、未来が始まってしまう」
「それでも、創ることを選んだんだね」
リリアの言葉に、観測者はうなずいた。
「そうだ。私たちは、世界を創ることを選んだ」
「じゃあ、その第三の存在は?」
「……わからない」
彼は苦しそうに答えた。
「その存在が何を望んでいたのか、私たちは最後まで確かめられなかったのかもしれない」
リリアは、紋章の空白を見つめた。
世界を創るという選択。
その選択によって、救われたものがある。
けれど、選ばれなかった未来もある。
そして、その選択をする前に、意思を確かめるべきだった存在がいた。
「観測者」
リリアは、まっすぐ彼を見た。
「あなたは、その存在を置き去りにしたことを後悔しているの?」
観測者は目を閉じた。
「……ああ」
その声には、長い時間をかけても消えなかった悔いがにじんでいた。
「私は、世界を創ることが正しいと思っていた。生まれる命を守ることが、何よりも大切だと思っていた」
彼は、光の海を見渡した。
「だが、その考えを理由に、まだ答えを出していない存在のことを後回しにした。それが正しかったのか、今でもわからない」
リリアは、すぐには答えなかった。
彼の選択を、簡単に間違いだとは言えない。
世界が生まれなければ、アレンも、ミラも、セフィルも、レオンも、カイルも存在しなかったかもしれない。
もちろん、リリア自身も。
それでも、ひとつの命の意思を確かめなかったことが、正しかったと断言することもできない。
「……私にも、答えはわからない」
リリアは正直に言った。
「でも、今なら、その存在の意思を確かめられるかもしれない」
観測者が顔を上げる。
「何をするつもりだ?」
「第三の存在を探すの。見つけたら、その人が何を望んでいるのかを聞きたい」
「もし、その答えが世界の存続と両立しなかったら?」
「そのときは、みんなで考える」
リリアは、迷わず答えた。
「私ひとりで答えを決めたりしない。世界を守るためだからって、その人の意思を無視することもしない」
彼女は、胸元の紋章に手を添えた。
「世界を創る前にできなかったことを、今度こそ、ちゃんとやりたいんだ」
観測者は長い間、リリアを見つめていた。
やがて、静かにうなずいた。
「……君なら、そう言うと思った」
*
そのときだった。
光の海の中央に、巨大な扉が現れた。
扉には、文字がひとつも刻まれていない。
取っ手も、鍵穴もない。
ただ、扉の表面に、三つの円が描かれていた。
ひとつ目の円には、世界を創る紋章。
ふたつ目の円には、白い花の紋章。
そして、三つ目の円には、何も描かれていなかった。
「この扉は……?」
セフィルが近づこうとした瞬間、観測者が制止した。
「待ってくれ」
その表情には、明らかな緊張があった。
「この扉を、私は知っている」
「知っているのに、今まで話さなかったの?」
ミラが問いかける。
「いや、存在そのものを忘れていたんだ。記憶を失っていたというより……この扉について考えようとすると、思考が途切れていた」
観測者は扉を見つめた。
「まるで、私自身が、この扉の存在に気づかないようにしていたかのように」
アステリアが、青ざめた顔で口を開いた。
「そんな……。あなたの記憶にまで、外部から干渉されていたというの?」
「それだけではないかもしれない」
観測者は、扉に刻まれた三つの円を見た。
「この扉は、私たちが世界を創る前に用意したものだ。だが、誰が用意したのかは思い出せない」
リリアは、ゆっくりと扉に近づいた。
すると、胸元の紋章が反応した。
――《第一の条件:世界の創造者》
――《第二の条件:最初の約束の締結者》
――《第三の条件:未確定》
その文字を見た瞬間、リリアは息をのんだ。
「この扉……第三の存在を確かめるためのものなんだ」
「おそらくな」
観測者が答えた。
「だが、第三の条件が未確定のままでは、扉は開かない」
「それなら、第三の存在を見つければいいんだね」
「そう簡単ではない」
観測者は首を振った。
「この扉は、存在を見つけただけでは開かない。第三の存在が、自分の意思で条件を満たす必要がある」
リリアは、扉を見つめた。
つまり、第三の存在が誰なのかを突き止めるだけでは足りない。
その存在が、自らの意思で何かを選ばなければならないのだ。
そのとき、扉の中央に、小さな文字が浮かび上がった。
――《第三の存在は、すでに世界の中にいる》
「……え?」
リリアが声を漏らした。
観測者も、目を見開いた。
「そんなはずはない。第三の存在は、世界が生まれる前から未確定だったんだぞ」
だが、文字は消えなかった。
さらに、その下に、新たな一文が刻まれる。
――《ただし、本人は自身の役割を知らない》
アレンが、リリアの前に立った。
「待て。まさか、その人物を無理やり探し出そうというのか?」
扉は答えなかった。
しかし、空間全体が低く震え始めた。
外部の存在の声が、響き渡る。
『第三の存在に関する情報を封鎖する』
『当該存在の特定を禁止する』
『違反した場合、世界の成立条件を再検証する』
レオンが剣の柄を握った。
「また脅しか」
「違う……」
リリアは、扉に浮かぶ文字を見つめていた。
「今度は、何かを恐れているんだ」
外部の存在は、これまで何度も彼女たちの前に現れた。
矛盾を許さず、未確定の意思を排除し、すべてを定義しようとしてきた。
だが、今回は違う。
世界の成立条件そのものが揺らぐと告げながら、第三の存在を特定することを禁じている。
それは単に、秩序を守るためなのだろうか。
それとも――。
「リリア」
観測者が、慎重に声をかけた。
「ひとつ、頼みがある」
「何?」
「第三の存在を探す前に、君自身の記憶を調べてほしい」
リリアは目を見開いた。
「私の記憶?」
「ああ。君は、世界の始まりを知らない。エリシアの記憶を受け継いでいても、彼女が世界を創る前に何を見ていたのか、すべてを知っているわけではない」
観測者は、リリアの胸元の紋章を見つめた。
「君が見た、君と同じ顔の少女。彼女が何者なのか。そして、なぜ君が第二の締結者の候補になったのか。その答えは、君の記憶の中にある可能性がある」
「でも、私にはそんな記憶……」
そう言いかけた瞬間。
リリアの頭の奥に、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
アレンが、すぐに彼女を支えた。
「リリア!」
視界が揺れる。
聞いたことのない声が、頭の中に響いた。
――まだ、選ばないで。
――世界を創るかどうかを決める前に、私たちの話を聞いて。
――お願い。今度こそ、私たちを置いていかないで。
リリアは、息をのんだ。
今の声は、エリシアのものではなかった。
観測者のものでもない。
そして、先ほど会った少女の声とも、完全には一致しなかった。
けれど、その声には、深い悲しみと、必死に何かを伝えようとする願いがあった。
「……誰なの?」
リリアは、震える声で尋ねた。
返事はなかった。
ただ、彼女の手のひらにある白い花びらが、ゆっくりと裏返った。
そこに、初めて文字が浮かび上がる。
――《記憶の封印:第一層、解除》
――《回復した記憶:世界創造前の対話》
――《記憶の所有者:リリア・エヴァンジェル》
そして、最後の一行。
――《警告:この記憶は、現在の世界の創造者によって記録されたものではありません》
リリアは、顔を上げた。
世界を創ったのは、エリシア。
そのエリシアによって記録されたものではない記憶が、自分の中に眠っていた。
それは、いったい誰が残したものなのか。
観測者が、かすれた声でつぶやいた。
「……まさか。君は、エリシアが世界を創る前から……」
彼は最後まで言い切れなかった。
扉の三つ目の円が、ゆっくりと光り始めたからだ。
その中央に、ひとつの文字が浮かび上がる。
――《リリア》
直後、世界の外側から、聞いたことのない声が響いた。
『その名を、扉に刻むな』
外部の存在の声ではなかった。
観測者が失った存在の声でもない。
もっと古く、もっと深い場所から響く声だった。
『その少女に、まだ真実を知らせてはならない』
リリアの胸元の紋章が、激しく明滅する。
『なぜなら――』
声は、そこで途切れた。
代わりに、扉の向こうから、三度のノックが響いた。
コン。
コン。
コン。
まるで、ずっと向こう側で待っていた誰かが、ようやくこちらに気づいたかのように。
そして、扉の表面に新しい文字が刻まれた。
――《第三の存在:応答を開始》
リリアは息を止めた。
世界が生まれる前に、決められたこと。
その約束を交わした者たち。
そして、今も世界の中にいるという、第三の存在。
扉の向こうにいるのは、いったい誰なのか。
その答えが明らかになったとき、リリア自身の過去もまた、変わり始めるのかもしれなかった。
第82話 終
次回、第83話「扉の向こうから届いた声」
世界の始まりを知る、謎の声。リリアの記憶に封じられた、創造前の対話。そして、第三の存在が初めて応答を始めた扉。リリアたちは、その向こうにいる者の意思を確かめるため、次の一歩を踏み出す。




