第81話 創造主ではない少女の記録
第81話 創造主ではない少女の記録
――《第二の締結者:候補者、リリア・エヴァンジェル》
その文字は、リリアの胸元で淡い光を放ち続けていた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
世界が生まれる前に交わされた約束。
観測者さえ忘れていた、最初の約束。
その締結者のひとりとして、なぜ自分の名前が表示されるのか。
リリアには、まったく理解できなかった。
「……私は、エリシアじゃない」
ようやく口にした言葉は、自分に言い聞かせるような響きを帯びていた。
「エリシアの記憶や力を受け継いでいることは知ってる。でも、私はリリア・エヴァンジェル。エリシアとは別の魂を持った、ひとりの人間だよ」
彼女は胸元の文字を見つめた。
「それなのに、どうして私が世界の始まりの約束に関係しているの?」
アステリアは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、リリアの不安を深めていく。
「アステリア。何か知っているの?」
「……いいえ」
アステリアは、苦しそうに首を振った。
「少なくとも、私が知るエリシアの記録には、第二の締結者について何も残されていないわ」
「本当に?」
「ええ。けれど……」
アステリアは、リリアの胸元に浮かぶ文字を見た。
「記録が存在しないことと、何も起きなかったことが同じではない。あなたが、私にそう教えてくれたでしょう?」
リリアは、はっとした。
確かに、そのとおりだった。
記録から消された存在がいた。
名前を失いながらも、自分の意思を持ち続けている存在がいた。
ならば、自分についても、まだ知らないことが残されているのかもしれない。
「リリア」
アレンが、彼女の隣に立った。
「どんな記録が出てきても、君が君であることは変わらない」
彼はまっすぐに彼女を見つめた。
「もし君が知らない過去を持っていたとしても、それを理由に君の未来まで決めさせるつもりはない」
「アレン……」
「君が何者なのか、君自身が知りたいと思うなら、一緒に探す。でも、誰かに決められた答えを受け入れる必要はない」
リリアは、胸の奥に張り詰めていたものが、ほんの少し緩むのを感じた。
「ありがとう」
彼女は小さく笑った。
「私、自分のことを知りたい。でも、知らない過去があったからって、今の私を否定したくない」
「それでいい」
アレンは、そっと彼女の手を握った。
その温もりを確かめてから、リリアは観測者へ向き直った。
「あなたは、私を見て何か思い出す?」
観測者は、長い間、彼女を見つめていた。
「……わからない」
彼は正直に答えた。
「君を見ていると、何かを思い出しかける。でも、それが君自身の記憶なのか、エリシアの記憶なのか、それとも別の誰かのものなのか、区別がつかない」
「そう……」
「ひとつだけ、確かなことがある」
観測者は、白い花びらを手のひらに乗せた。
「君を見ていると、かつて誰かに言われた言葉が浮かぶんだ」
「どんな言葉?」
「――あなたは、未来を見ているのに、どうして今ここにいる人の気持ちを見落とすの?」
その瞬間。
リリアの視界が、白く染まった。
*
そこは、世界の外でも、エリシアの記憶の中でもなかった。
何もない空間。
けれど、完全な虚無ではない。
足元には、まだ名前のない花が咲いていた。
空には、星になる前の光が漂っている。
そして、少し離れた場所に、ひとりの少女が立っていた。
黒い髪。
青い瞳。
見覚えのある顔。
――自分だ。
けれど、目の前の少女は、今のリリアとは違っていた。
服装も、表情も、纏う雰囲気も違う。
少女は幼く見えた。
しかし、その瞳には、何かを長い間見守ってきた者の静けさが宿っていた。
「……あなたは、誰?」
リリアが尋ねると、少女は微笑んだ。
「それを、あなたが知る必要はないよ」
「え?」
「私は、あなたに名前を教えるために、ここにいるわけじゃないから」
少女は足元の花を見下ろした。
「あなたが、自分で選ぶために、ここにいるの」
「自分で選ぶ……?」
「うん。誰かから与えられた答えじゃなくて、あなた自身の答えを」
リリアは、少女の顔を見つめた。
不思議だった。
初めて会ったはずなのに、懐かしさが胸の奥からこみ上げてくる。
けれど、それはエリシアの記憶を思い出したときの感覚とは違った。
もっと個人的で、もっと曖昧なもの。
まるで、ずっと昔に交わした約束を、ようやく思い出しかけているようだった。
「私は、あなたと約束したの?」
少女は、すぐには答えなかった。
代わりに、一本の白い花を摘み取った。
「ねえ、リリア」
「どうして、私の名前を……」
「あなたは、誰かに自分の名前を呼ばれたとき、その人が自分をどう見ているか、気にしたことはある?」
唐突な質問だった。
けれど、リリアの胸には、鋭く響いた。
前世の記憶。
誰かに嫌われることを恐れ、本音を隠し、相手の期待に応えようとしていた自分。
名前を呼ばれるたびに、その人が望む自分でいなければと考えていた。
「……あるよ」
リリアは答えた。
「私は、嫌われるのが怖かった。だから、相手が望む自分になろうとしていた」
「今は?」
「今も、怖くないわけじゃない」
リリアは正直に答えた。
「でも、誰かに嫌われないためだけに生きるのは、もうやめたい。私が何を望んでいるのか、自分で考えたい」
少女は、嬉しそうに目を細めた。
「そう。それなら、きっと大丈夫」
「何が大丈夫なの?」
「あなたが、あなたのままでいられること」
少女は白い花を差し出した。
「約束を思い出すのは、まだ先でいいよ」
「待って。あなたは一体――」
「ひとつだけ、覚えておいて」
少女の姿が、光に溶け始めた。
「最初の約束は、世界を創るための約束じゃない」
リリアは、手を伸ばした。
「じゃあ、何のための約束なの?」
少女は、最後にこう告げた。
「世界がなくても、私たちが自分の意思で選べるようにするための約束だよ」
白い光が、弾けた。
*
「リリア!」
アレンの声で、リリアは我に返った。
彼の手が、彼女の肩を支えている。
「大丈夫か? 急に動かなくなったんだ」
「……うん。大丈夫」
そう答えながら、リリアは自分の手のひらを見つめた。
そこには、白い花びらが一枚、乗っていた。
夢ではなかった。
花びらに触れた瞬間、観測者が息をのんだ。
「その花びら……」
「知っているの?」
「いや、知っているというより……」
彼は言葉を探した。
「それは、私が持っている花と同じものだ。でも、少し違う」
観測者の花びらには、最初の約束に関する記録が刻まれていた。
しかし、リリアの花びらには文字がなかった。
ただ、中央に小さな光が宿っている。
セフィルが慎重に近づいた。
「記録がないのではなく、まだ記録として確定していないのかもしれません」
「未確定の意思……」
レオンがつぶやく。
それは、外部の存在が排除しようとしていたものだった。
まだ決まっていない未来。
まだ明かされていない名前。
そして、まだ本人にも理解できていない約束。
リリアは花びらを握りしめた。
「私は、何かを思い出しかけた」
「何を見たんだ?」
アレンに尋ねられ、リリアは少し考えてから答えた。
「私と同じ顔をした少女に会ったの。でも、エリシアじゃないと思う。少なくとも、エリシアの記憶を見たときとは違った」
アステリアの表情が変わった。
「同じ顔……?」
「うん。彼女は、最初の約束は世界を創るためのものじゃないって言っていた」
観測者が、ゆっくりと顔を上げた。
「では、何のための約束だと?」
リリアは、少女の言葉を思い出した。
「世界がなくても、私たちが自分の意思で選べるようにするための約束だって」
その瞬間、白い花びらが光った。
リリアの胸元に、新たな記録が現れる。
――《第二の締結者:照合開始》
――《魂の一致:確認できず》
――《記憶の継承:確認できず》
――《意思の連続性:判定不能》
そして、最後の一行。
――《リリア・エヴァンジェルは、記録上の人物と同一であるとは限らない》
「……同一であるとは限らない?」
ミラが文字を読み上げた。
「どういう意味?」
リリアは答えられなかった。
同じ顔の少女。
自分の名前を知っていた少女。
けれど、魂も記憶も一致しない。
それなのに、最初の約束に関わっている。
外部の存在が、初めて明確な反応を示した。
『第二の締結者に関する照合を停止せよ』
これまでの声とは違い、そこには明らかな焦りがあった。
『当該記録は、現在の世界に適用されない』
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「どうして?」
『……』
「適用されないなら、なぜ私の名前が出てきたの?」
『照合を停止せよ』
「答えて!」
リリアの声が、空間に響いた。
「あなたは、記録にない存在を消してきた。でも、今度は記録に残っている約束を、なかったことにしようとしている!」
胸元の光が強くなる。
しかし、リリアは力を振るわなかった。
ただ、問い続けた。
「この約束が、あなたにとって都合の悪いものだから?」
沈黙。
その沈黙こそが、何よりも雄弁だった。
やがて、外部の存在は告げた。
『第二の締結者が記録として確定した場合、現在の世界の成立条件に重大な矛盾が発生する』
「矛盾……?」
『最初の約束が成立した時点では、世界は存在していなかった』
『それにもかかわらず、第二の締結者は現在の世界に存在している』
『この矛盾が解消されない場合、世界の成立そのものが再検証される』
レオンが低くうなった。
「世界が生まれる前の約束が、世界そのものを揺るがすというのか」
『肯定』
アステリアが、青ざめた顔でつぶやいた。
「まさか……。世界は、エリシアが創ったから存在している。それが、根本から覆される可能性があるということ?」
リリアは、手のひらの花びらを見つめた。
世界を守りたい。
そこに生きる人たちを守りたい。
けれど、世界を守るために、誰かの存在や意思を再び消すことはしたくない。
その答えは、もう決まっていた。
「なら、世界の成立条件を調べよう」
リリアは顔を上げた。
「私の存在が矛盾だというのなら、その理由を確かめる。世界を壊すためじゃない。誰かを消さなくても、みんなが存在できる未来を探すために」
観測者は、静かに彼女を見つめた。
「君は……本当に、エリシアとは違うんだな」
「うん。私は私だから」
リリアは微笑んだ。
「だから、エリシアと同じ答えを出す必要もないよ」
その言葉に、観測者は初めて、確かな笑みを浮かべた。
しかし次の瞬間、白い花びらがひとりでに開いた。
その中心に、見知らぬ紋章が浮かび上がる。
それは、世界の創造を示す紋章でも、神々の権威を示す紋章でもなかった。
何もない空間に、二つの小さな点が描かれている。
その間には、一本の線。
そして、その線の中央には、まだ何も記されていない空白があった。
リリアが息をのむ。
「これは……?」
観測者の顔から、血の気が引いた。
「そんなはずはない……」
「何を知っているの?」
彼は答えなかった。
ただ、紋章から目を離せずにいた。
やがて、かすれた声で告げた。
「これは、世界を創るための紋章ではない」
観測者は、リリアを見た。
「世界が生まれる前に、私たちが決めたことを示す紋章だ」
そして、紋章の空白部分に、ひとつの文字が浮かび上がった。
――《第三の存在:未確定》
リリアの胸元が、再び強く光った。
最初の約束を交わしたのは、二人。
けれど、その約束が成立するためには、もうひとつの存在が必要だった。
それは誰なのか。
そして、なぜ世界が生まれる前から、その存在だけが未確定のまま残されているのか。
外部の存在が、最後に告げた。
『警告』
『第三の存在が確定した場合、世界は現在の形を維持できない可能性がある』
リリアは、白い花びらを握りしめた。
その先に待っているのが、世界の崩壊なのか。
それとも、今まで誰も選べなかった未来なのか。
まだ、誰にもわからなかった。
第81話 終
次回、第82話「世界を創る前に決められたこと」
世界の成立条件を揺るがす、第三の存在。観測者が知る過去と、記録に残されなかった約束。その謎を追うリリアたちの前に、世界が誕生する以前の記録が姿を現す。




