第80話 世界が生まれる前の最初の約束
第80話 世界が生まれる前の最初の約束
白い花びらに刻まれた文字は、消えることなく、観測者の手のひらに浮かんでいた。
――最初の約束。
――記録保持者の名を、本人の意思によってのみ開示する。
その文字を見つめたまま、観測者は動かなかった。
「……そんな約束が、存在していたなんて」
彼の声には、驚きよりも深い戸惑いがあった。
エリシアと世界を創る前から、彼は数え切れないほどの記録を見てきた。世界の誕生、神々の誕生、そして数え切れない生命の選択。
けれど、そのすべての始まりに、まだ知らない約束が存在していた。
「あなたにも、知らされていなかったの?」
リリアが尋ねると、観測者は静かにうなずいた。
「知らなかった。いや……正確には、知ろうとしていたはずなんだ」
「はず?」
「何かを探していた。誰かとの約束を守ろうとしていた。でも、何を約束したのかも、誰と交わしたのかも思い出せなかった」
観測者は自分の手を握りしめた。
「それでも、忘れてはいけないと思っていたんだ」
その言葉に、リリアの胸が締めつけられた。
忘れた理由さえわからない。
失ったことさえ、はっきりと思い出せない。
それでも、心の奥に残った何かだけが、失われた存在を探し続けていたのだ。
「なら、思い出そうよ」
リリアは一歩、彼に近づいた。
「でも、無理やり記憶を取り戻すんじゃない。その人が名前を明かすことを望むまで、待とう」
「……君は、それでいいのか?」
「うん」
リリアは迷わず答えた。
「知りたいことはたくさんある。でも、知りたいからって、相手の気持ちを無視していい理由にはならないもの」
観測者は目を伏せた。
その言葉は、かつて彼が誰かに教えたものだった。
観測することと、所有することは違う。
理解することと、代わりに決めることは違う。
忘れていたはずの教えが、今になって自分自身へ返ってくる。
「……そうだったな」
彼は、ほんの少しだけ笑った。
「私は、誰かにそう教えられたんだ」
その瞬間だった。
空間全体に、低い振動が走った。
巨大な眼が閉じた場所に、黒い亀裂が幾筋も広がっていく。
亀裂の向こうから、あの声が響いた。
『記録の逸脱を確認』
『最初の約束への接触を確認』
『修正対象を再定義する』
セフィルが顔を上げた。
「最初の約束……それが、あの存在の記録を守っていたということですか?」
『否定』
声は即座に答えた。
『最初の約束は、記録を守るために存在するのではない』
「では、何のためにあるの?」
ミラが問い返す。
しばらく、返事はなかった。
まるで、その問い自体が、相手の想定にないものだったかのように。
やがて、声が答えた。
『最初の約束は、記録される以前の存在を定義するためのもの』
レオンが眉をひそめる。
「記録される以前……?」
『記録されなければ、存在を証明できない。存在を証明できなければ、世界における位置を持たない』
『ゆえに、すべての存在は記録によって定義される』
その説明を聞いたカイルが、低い声で言った。
「違うな」
全員の視線が彼へ向いた。
「記録がなくても、そこにいたことまで消えるわけじゃない」
カイルは、銀色の指輪を握りしめた。
「俺は記憶を奪われていた。自分が何をしたのか、誰と約束したのかさえ、わからなかった。それでも……誰かを守りたいという気持ちは、残っていたんだ」
彼はリリアを見た。
「記録が存在を決めるのなら、記録を失った俺は、俺じゃなくなっていたはずだ。でも、そうじゃなかった」
黒い亀裂が、わずかに震えた。
「存在したことと、それを証明できることは別だ」
リリアは、カイルの言葉を受け継いだ。
「あなたたちは、記録にないものを存在しないことにしている。でも、記録から消えたことと、最初から存在しなかったことは同じじゃない」
『不完全な定義だ』
「そうかもしれない」
リリアは認めた。
「でも、だからこそ、まだ決めつけちゃいけないんだよ」
彼女の胸元で、白い花の紋章が淡く光った。
その光に呼応するように、観測者の手のひらの花びらが揺れた。
そして、新たな文字が浮かび上がる。
――最初の約束。
――記録される前にも、意思は存在する。
リリアは息をのんだ。
「これが……最初の約束?」
「いや」
観測者は、慎重に首を振った。
「これは約束の一部だ。すべてではない」
「どうしてわかるの?」
「この言葉を見たとき、心の奥で何かが動いた。でも、まだ足りないんだ」
彼は花びらを見つめた。
「この約束を交わした相手が、何を望んでいたのか。それがわからない限り、私は本当の意味を理解できない」
そのとき、白い花びらの裏側に、かすかな光が走った。
文字がひとつ、浮かび上がろうとする。
名前ではない。
短い問いだった。
――あなたは、私がいなくなっても、私の意思を信じられますか。
観測者の表情が凍りついた。
「……ああ」
彼の唇が震える。
「その問いを、私は知っている」
記憶の断片が、彼の脳裏をかすめた。
世界が生まれる前。
まだ神々も、創造主も存在しなかった頃。
何もない空間に、ひとりの人物が立っていた。
その顔は、まだ見えない。
けれど、その人物は彼に向かって手を差し伸べていた。
そして、確かにこう言ったのだ。
――私が消えても、私の代わりに未来を決めないで。
観測者は目を閉じた。
「……私は、約束したんだ」
その声は、ひどくかすれていた。
「その人がいなくなっても、その人の意思を、私の都合で書き換えないと」
リリアは、彼の隣に立った。
「それなら、今も守れるよ」
「だが、私はその人を忘れていた」
「忘れていたことと、約束を破ると決めたことは違うよ」
観測者は顔を上げた。
リリアは続ける。
「あなたは今、思い出そうとしている。でも、その人の名前を無理やり引き出そうとはしていない。自分が何をすべきか、もう一度考えようとしている」
彼女は、白い花びらをそっと見つめた。
「その人が望んだことを、これから選び直せばいいんだよ」
その言葉に、観測者は静かにうなずいた。
しかし、次の瞬間。
黒い亀裂から、無数の鎖が飛び出した。
鎖は観測者ではなく、彼の手のひらにある白い花へと伸びていく。
『記録保持者の意思を確認する』
『名前の開示を要求する』
『拒否した場合、記録保持者の存在を再び未定義領域へ隔離する』
「やめろ!」
観測者が叫んだ。
けれど、鎖は止まらない。
リリアが《創世の理》を発動しようとした瞬間、胸元に激痛が走った。
「っ……!」
「リリア!」
アレンが彼女を支える。
世界の外では、創世の力そのものが、彼女の存在を危険にさらしていた。
それでもリリアは、手を伸ばした。
「その人が名前を明かすかどうかは、その人自身が決めることだよ!」
『名前の開示は、記録の修復に必要』
「必要かどうかを、あなたが決めないで!」
リリアの声が響いた。
白い花びらが、まばゆい光を放つ。
鎖が一瞬だけ動きを止めた。
そして、花びらに最後の一文が浮かび上がった。
――名前を明かすことは、存在を証明するための義務ではない。
その瞬間、黒い鎖が砕け散った。
しかし、声は消えなかった。
『……理解不能』
『記録される以前の意思が、記録の修復を拒否する理由はない』
リリアは、痛みに耐えながら答えた。
「理由がなくても、嫌だと言っていいんだよ」
沈黙。
長い、長い沈黙だった。
やがて、黒い亀裂の奥から、今までとは違う声が聞こえた。
それは、あの人物の声だった。
巨大な眼の向こうで、顔を隠していた存在。
観測者が、失った記憶の中で探し続けていた存在。
『……もう、いい』
その声は、穏やかだった。
『私は、まだ名前を明かさない』
観測者が息をのむ。
『あなたが思い出してくれたことは、嬉しい。でも、私が何者だったのかを、あなたに決めてほしくない』
『私が誰だったのか。それを、私自身が思い出せるかどうかも含めて……もう少しだけ、時間がほしい』
観測者は目を閉じた。
そして、深く頭を下げた。
「……わかった」
声には、悲しみも、安堵もあった。
「待つよ。今度は、君の答えを奪わない」
白い花が、静かに揺れた。
その瞬間、リリアの目の前に新たな記録が開いた。
――《最初の約束:意思の存在を確認》
――《記録保持者:自己選択を継続》
――《名前の開示:保留》
――《外部による強制修復:失敗》
そして、その下に。
今まで一度も表示されなかった項目が現れた。
――《最初の約束の締結者:二名》
リリアは目を見開いた。
「二名……?」
観測者も、初めて見る記録だった。
約束を交わしたのは、彼と、もうひとり。
だが、記録はそこで終わっていなかった。
最後の一行が、ゆっくりと浮かび上がる。
――《第二の締結者:現在の世界に存在》
全員が息をのんだ。
「まさか……」
アステリアが、震える声でつぶやいた。
「この世界の中に、もうひとりの締結者がいるというの?」
リリアは、世界の外を見つめた。
最初の約束を交わした者。
観測者が失った存在。
そして、まだ明かされていない、もうひとりの名前。
その人物は、今もこの世界のどこかで生きているのだろうか。
それとも――。
リリアの胸元に、見覚えのない文字が浮かび上がった。
――《第二の締結者:接続先を検索中》
――《候補者:リリア・エヴァンジェル》
彼女の呼吸が止まった。
観測者が、ゆっくりと振り向く。
「……リリア?」
リリアは答えられなかった。
自分はエリシアではない。
失われた少女でもない。
それなのに、なぜ自分が、世界の始まりよりも前の約束に関わっているのか。
その答えは、まだどこにも記されていなかった。
ただひとつだけ、確かなことがある。
世界が生まれる前に交わされた約束は、まだ終わっていない。
そして、その続きを選ぶ権利は――。
神々にも、観測者にも、外部の存在にもない。
リリア自身の意思に、委ねられようとしていた。
第80話 終
次回、第81話「創造主ではない少女の記録」
リリアに浮かび上がった、第二の締結者という記録。彼女は世界の始まりに何を約束したのか。そして、なぜその記憶だけが、彼女の中に残されていないのか。




