第78話 エリシアが最後に選んだもの
第78話 エリシアが最後に選んだもの
白い光の中で、ひとりの少女が泣いていた。
淡い金色の髪。
透き通るような橙色の瞳。
世界が生まれる前、まだ何者にも名前を与えられていなかった場所で、エリシアは膝を抱えて座っていた。
その背後には、白い花を手にした幼い少女が立っている。
けれど、少女の声は聞こえない。
記録そのものが、彼女の言葉を拒んでいるかのようだった。
「……エリシア」
アステリアが、震える声で呼びかけた。
記憶の中のエリシアは、こちらの声が聞こえていない。
彼女は、両手で顔を覆い、何度も同じ言葉を繰り返していた。
『私には、選べない……』
その声に、リリアの胸が締めつけられた。
世界を創造した者。
神々を超える力を持ち、数えきれない命の未来を生み出した存在。
そんな彼女が、誰にも見せずに泣いていた。
『世界を作れば、たくさんの命が生まれる』
エリシアは、涙を拭いながら呟いた。
『でも、命が生まれれば、いつか誰かが失われる。私はすべての悲しみを消すことなんてできない』
彼女の前には、二つの光が浮かんでいた。
一つは、無数の命が芽吹く、まだ存在しない世界。
もう一つは、白い花を持った少女の、小さな手。
世界を創造すれば、少女が願った未来を残せるかもしれない。
しかし、そのためには、失われた少女を取り戻すことを諦めなければならない。
少なくとも、エリシアはそう信じていた。
「……違う」
観測者が、かすれた声で呟いた。
「そんなはずはない。彼女は、どちらか一方を選ばなければならないなんて、望んでいなかった」
彼の鎖が、小さく震えた。
記憶の中で、エリシアが顔を上げる。
『私は、世界を作りたい』
その言葉には、確かな決意があった。
『でも、あの子を失ったことまで、正しいことにしたくない』
彼女は、白い花を持った少女へ手を伸ばした。
『あなたがいなくなったことを、世界のために必要だったなんて、言いたくないの』
リリアは息を呑んだ。
それは、世界を救うためなら誰かの犠牲も仕方がない、という考えを拒む言葉だった。
しかし同時に、エリシアは世界の創造を諦めようとしているわけでもなかった。
どちらか一方を正しいものとして、もう一方を捨てる。
その考え方そのものに、彼女は苦しんでいたのだ。
やがて、記憶の中のエリシアが立ち上がった。
彼女は白い花を胸に抱き、静かに告げた。
『私は、世界を作る』
アステリアが、目を見開いた。
『そして、あの子を失ったことを、忘れない』
エリシアの瞳から、最後の涙がこぼれた。
『どちらかを選ぶために、もう一方の存在をなかったことにはしない。私が世界を作ることと、あの子が失われたことは、同じ答えの中に閉じ込められなくていい』
白い花が、淡い光を放った。
『いつか、誰かが選び直せる日が来るかもしれない。そのときまで、私はこの願いを残しておく』
記憶の中のエリシアは、誰もいない空間に向かって微笑んだ。
『たとえ私が、その答えを見届けられなくても』
その瞬間、記憶が大きく揺らいだ。
黒い影が、映像の端から侵食してくる。
外部の存在だった。
『記録を停止せよ』
冷たい声が響く。
『創造主の意思に矛盾を確認。未確定の未来を残す選択は、世界の安定性を損なう』
「黙りなさい!」
アステリアが叫んだ。
「これは、エリシア自身が選んだことよ!」
『選択の結果は確定されなければならない』
「だからこそ、彼女は選び直す可能性を残そうとしたの!」
アステリアの声が、空間に響き渡る。
「あなたは、彼女が世界を作ると決めたことだけを記録して、その決意に至るまでの苦しみを消そうとした。彼女が迷ったことも、悲しんだことも、別の未来を望んだことも、すべて矛盾として排除しようとした!」
黒い影が、アステリアへ向き直った。
『第三の創造主。お前は、記録の管理者として失格である』
「ええ。私は、間違えたわ」
アステリアは逃げなかった。
「でも、間違えたからといって、私の意思まで消していい理由にはならない!」
彼女の胸元で、黒い亀裂が砕けた。
その内側から現れたのは、淡い金色の光だった。
《第四の約束――封印管理者の意思を確認》
《封印解除――承認》
《最終記録――開示を再開》
世界の外側に、鐘の音のような響きが広がった。
白い花が、ひとつ、またひとつと開いていく。
そして、記憶の中のエリシアが、初めてこちらを振り返った。
まるで、ずっと向こう側から見ていたかのように。
『もし、この記憶を見ている人がいるなら』
リリアは息を止めた。
『どうか、私の代わりに正しい答えを選ぼうとしないで』
その言葉は、以前アステリアが語った最後の言葉と重なっていた。
『私が何を望んだのか、あなたがすべて理解する必要はない。私が正しかったと証明する必要もない』
エリシアは、静かに微笑んだ。
『ただ、あなた自身が何を望むのかを、あなた自身で選んでほしい』
リリアの目に、涙が浮かんだ。
その声は、彼女の中に眠る記憶と同じ響きを持っていた。
けれど、今のリリアに語りかけるエリシアは、彼女自身ではない。
かつて世界を創造した、ひとりの別の存在だった。
『私は、世界を作ることを選んだ』
エリシアは告げた。
『でも、それは私が選んだ答え。あなたが同じ答えを選ぶ必要はない』
リリアは、唇を噛みしめた。
ずっと、どこかで恐れていた。
自分がエリシアの力を受け継いだ以上、いつか彼女と同じ道を歩まなければならないのではないか。
彼女が残した願いを叶えなければ、自分は創造主として失格なのではないか。
しかし、エリシアはその不安を見透かしたかのように、穏やかな声で続けた。
『あなたが私とは違う未来を選んだとしても、私の願いが失われるわけではない』
そして、最後にこう告げた。
『私の選択を、あなたの鎖にしないで』
白い光が弾けた。
記憶の中のエリシアは、静かに消えていく。
その姿を見つめながら、リリアは涙を拭った。
「……ありがとう」
それは、記憶の中のエリシアへ向けた言葉だった。
「私は、あなたと同じ答えを選ぶかどうか、まだわからない。でも、あなたの選択を怖がらなくていいんだって、初めて思えた」
その瞬間、リリアの胸元に刻まれた第三の約束が、温かな光を放った。
《継承者の意思――独立性を再確認》
《エリシアの記録――分離状態を維持》
《創世の理――所有権の強制移行を拒否》
彼女の力が、ほんの少しだけ変化した。
何かを命じるための力ではない。
誰かの未来を決めるための力でもない。
自分が選び、相手もまた選べるようにするための力。
その可能性が、リリアの中で静かに芽吹いていた。
だが、記録はまだ終わっていなかった。
白い花の中心から、ひとつの小さな結晶が現れた。
その中には、エリシアの姿が映っている。
彼女は、今までの記憶とは違う表情をしていた。
悲しみでも、決意でもない。
誰かを待つような、穏やかな微笑みだった。
『アステリア。観測者』
エリシアは、二人の名を呼んだ。
『もし、いつか私たちが別々の未来を選ぶことになっても、どうか覚えていて』
彼女は、両手を胸の前で重ねた。
『一緒にいた時間が、間違いになるわけじゃない』
アステリアが、声を押し殺した。
「エリシア……」
『離れることも、戻ることも、選び直すことも。誰かを大切に思った時間まで、否定する必要はないの』
エリシアは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
『私は、あなたたちと出会えてよかった』
観測者の鎖が、大きく揺れた。
彼は、顔を伏せた。
「……僕は」
声が震えていた。
「僕は、君に何も言えなかった」
彼は、エリシアの最後の記憶を見つめていた。
「世界の外に行くと決めたときも、君を残していくと決めたときも。僕は、自分が何を恐れているのか、ちゃんと伝えなかった」
紫色の瞳から、涙が落ちた。
「君が僕を引き止めるかもしれないと思った。だから、君に選ばせることすらしなかった」
リリアは、何も言わなかった。
今は、彼自身が自分の過ちと向き合う時間だった。
観測者は、しばらく黙っていた。
やがて、彼は顔を上げた。
「でも、もう一度選べるなら……今度は、君に本当の気持ちを伝えたい」
その言葉に応えるように、第三の扉が光り始めた。
《第四の約束――選び直す機会を承認》
《原初の観測者――選択情報の再固定を解除》
《帰還の可能性――本人の意思による選択を待機》
観測者を縛っていた鎖が、一本、音もなく砕けた。
しかし、彼が自由になったわけではない。
残された鎖は、まだ彼の身体に絡みついている。
そのうえ、世界の外側に開いた巨大な目が、再びリリアを見つめていた。
『創造者リリア・エヴァンジェル』
声には、先ほどまでとは違う響きがあった。
『お前は、エリシアの選択を理解したと考えている』
「理解しきれたなんて思っていないわ」
リリアは答えた。
「でも、彼女が何を望んだのかを知ろうとすることと、その願いをすべて引き継ぐことは違う。それだけは、わかった」
『ならば、問おう』
巨大な目が、ゆっくりと細められた。
『お前が選び直すことで、すでに失われた命が戻らなかった場合。それでも、お前は選択の機会を残すことを正しいと呼べるのか』
リリアの表情が強張った。
答えは簡単ではなかった。
選び直せることと、すべてを取り戻せることは違う。
失われた命は、選択の機会を残すだけでは戻らないかもしれない。
それでも。
「……正しいかどうか、今すぐ決めることはできない」
リリアは、正直に答えた。
「誰かが失ったものを、私の言葉だけで埋めることはできないから」
彼女は、白い花びらを見つめた。
「でも、失われたものが戻らないからといって、その人がこれから何を選ぶかまで奪う理由にはならないと思う」
巨大な目が沈黙した。
「私は、すべての悲しみを消せるとは思っていない。誰も傷つかない未来を、必ず作れるとも言えない」
リリアは、まっすぐにその目を見返した。
「それでも、悲しみを抱えたまま生きる人が、自分の未来を選べる世界であってほしい。私は、その可能性を守りたい」
その言葉が響いた瞬間、白い花びらが、巨大な目へ向かって舞い上がった。
目の表面に、細い亀裂が走る。
外部の存在が、初めて一歩退いた。
『……不確定な回答』
「ええ」
リリアは、静かに微笑んだ。
「私はまだ、答えを探している途中だから」
その瞬間、巨大な目の奥から、誰かの声が聞こえた。
冷たい命令の声ではない。
どこか、懐かしい声だった。
『……エリシア』
その声は、リリアではなく、記憶の中の創造主の名を呼んだ。
そして、巨大な目が完全に開かれた。
その奥に見えたのは、無数の世界でも、終わりのない暗闇でもなかった。
たったひとつの、小さな部屋。
そこには、白い花を手にした幼い少女と、彼女を見つめるもうひとりの人物がいた。
その人物の顔は、光に覆われて見えない。
けれど、リリアは、その声を聞いたことがあるような気がした。
『ようやく、ここまで来たか』
声が響く。
『ならば、次はお前が答える番だ。創造者』
そして、巨大な目の奥に、最後の問いが浮かび上がった。
《エリシアの選択を、継承するか》
《それとも、継承しないか》
リリアは、その文字を見つめた。
また、二つの選択肢。
また、誰かの願いを引き継ぐか、拒むかという問い。
しかし今度は、リリアにはわかっていた。
エリシアの選択を継承することも、継承しないことも、誰かに強制されるものではない。
そして、今すぐ答えを出さなくてもいいはずだった。
彼女は、静かに息を吸った。
「……その質問に答える前に、ひとつ聞かせて」
巨大な目が、リリアを見つめた。
「あなたは、いったい誰なの?」
空間が凍りついた。
観測者が顔を上げる。
アステリアの瞳が、大きく揺れた。
そして、目の奥にいた人物が、ゆっくりと顔を上げた。
その姿を見た瞬間、観測者の唇から、信じられないほど小さな声が漏れた。
「……そんなはずはない」
彼の目に浮かんだのは、恐怖だった。
そして、長い時間をかけても癒えなかった、深い後悔だった。
なぜなら、その人物は――
かつて、世界が生まれる前に、彼自身が失ったはずの存在に、あまりにもよく似ていたから。
第78話 終
次回、第79話「観測者が失ったもうひとつの真実」
巨大な目の奥に現れた、正体不明の人物。観測者はなぜ、その姿を見て恐怖したのか。そして、エリシアが最後に選んだものは、本当に世界の創造だけだったのか。リリアは、第四の約束に隠された最後の記録へと踏み込んでいく。




