第77話 アステリアが封じた未来
第77話 アステリアが封じた未来
世界の外側が、音もなく崩れていく。
足元を走る亀裂は、暗闇の彼方まで広がっていた。砕けた空間の欠片が、白い花びらとともに宙を舞う。
その中心で、アステリアは胸元を押さえていた。
黒い亀裂は、彼女の身体を侵食するように広がり続けている。
「アステリア!」
リリアが駆け寄ろうとした瞬間、アステリアは片手を上げて制した。
「来ないで。今の私に近づけば、あなたまで封印記録に巻き込まれるわ」
「でも、あなたの身体が……!」
「これは罰なのよ」
アステリアは、かすかに微笑んだ。
「私が隠したものが、私自身を拒んでいる。それだけのこと」
「そんなの、納得できない!」
リリアは首を横に振った。
「あなたが何をしたのか、私はまだ全部知らない。だから、あなたが罰を受けるべきだなんて、勝手に決めたくない!」
アステリアの瞳が揺れた。
その言葉は、彼女がかつてエリシアに言えなかった言葉だったのかもしれない。
間違いを犯した者にも、選び直す機会を残す。
それが第四の約束。
けれど、その約束を封じた張本人が、今、その約束によって裁かれようとしている。
「……あなたは、本当にエリシアに似ているわね」
「私はリリアよ」
リリアは、はっきりと答えた。
「エリシアの記憶を受け継いでいても、私は彼女じゃない。だから、彼女ができなかったことも、彼女とは違う方法で考えたい」
「そうね……」
アステリアは目を閉じた。
「だからこそ、あなたに知られたくなかった」
その瞬間、第三の扉が激しく震えた。
扉に刻まれた《まだ、選ばれていない未来》という文字が、白い光を放っている。
観測者は、扉を見つめたまま動かなかった。
「アステリア。君は、これが何なのか知っているんだね」
「ええ」
「第四の約束が復元されたことで、何が起こる?」
アステリアは、すぐには答えなかった。
崩壊する空間を見渡し、やがて静かに口を開いた。
「この扉の向こうには、世界が生まれる前に失われた、すべての選択が眠っているの」
ミラが息を呑む。
「すべての選択って……どういうこと?」
「選ばれなかった未来よ」
アステリアは、言葉を慎重に選ぶように続けた。
「誰かが別の道を選んでいたら、どうなっていたのか。失われた者が消されなかったら、どんな世界が生まれていたのか。創造主が違う選択をしていたら、何が変わっていたのか」
レオンが眉をひそめた。
「つまり、過去をやり直せるということか?」
「いいえ。過去そのものを消すことはできないわ」
アステリアは首を横に振った。
「この扉が開けば、過去に存在しなかった未来を、新たに選ぶ可能性が生まれる。それだけよ」
「それだけ……?」
セフィルが静かに問い返す。
「世界の根幹に関わる変化に聞こえますが」
「ええ。だからこそ、危険なの」
アステリアの表情が険しくなった。
「選ばれなかった未来が、今の世界と同時に存在し始めれば、世界は自分自身の歴史をひとつに定められなくなるかもしれない。人々が歩んできた人生も、失ったものも、守ってきたものも、別の可能性に揺さぶられる」
「でも、第四の約束は、誰かが選び直す機会を残すためのものなんでしょう?」
リリアは尋ねた。
「なら、どうして世界が壊れるの?」
「約束そのものが悪いわけではないわ」
アステリアは苦しげに答えた。
「問題は、誰が、どこまでを選び直せるのかということ。第四の約束には、明確な境界がなかったの」
彼女は第三の扉を見つめた。
「世界を作った者が、自分の過ちを何度でも修正できるとしたら? 誰かを失った者が、その人を取り戻すために、別の誰かの人生を何度でも変えられるとしたら?」
その問いに、リリアは言葉を失った。
誰かを救う願いが、別の誰かを傷つける。
それは、リリア自身が何度も直面してきた問題だった。
「だから私は、第四の約束を封印した」
アステリアは、ついに真実を口にした。
「世界が生まれる前、私はエリシアと観測者に、選び直す機会を残すべきだと訴えられた。けれど、私は恐れたの」
「何を?」
「エリシアが、世界を何度でも作り直そうとすることを」
アステリアの声が震えた。
「彼女は優しかった。失われたものを見捨てられなかった。誰かが泣いていれば手を伸ばし、救えなかった命があれば、自分の責任だと考えてしまう人だった」
リリアの胸が痛んだ。
エリシアの記憶の中にある、数えきれないほどの祈り。
世界を作ることを決めた彼女は、すべての人を幸せにしたかったわけではない。
ただ、誰もが自分の意思で未来を選べる場所を残したかったのだ。
「もし第四の約束があれば、エリシアは何度でもやり直そうとしたかもしれない。救えなかった者を救うために。失ったものを取り戻すために。そして、いつか自分自身を許せなくなってしまうかもしれなかった」
「だから、彼女から選択肢を奪ったの?」
リリアの声は、思った以上に冷たく響いた。
アステリアは目を伏せた。
「そうよ」
否定も、言い訳もしなかった。
「私は、彼女を守りたかった。けれど、本当は……彼女が私の知らない未来を選ぶことが怖かったの」
アステリアの胸元で、黒い亀裂がさらに広がった。
「エリシアが世界を作り直すために私を置いていくことも。観測者と一緒に、私の知らない場所へ行ってしまうことも。私は、何もかも恐れていた」
彼女は震える手を握りしめた。
「だから、世界の安定を理由にした。正しい判断だと自分に言い聞かせて、第四の約束を封じた。そして、その事実さえ記録から隠したの」
誰も口を開かなかった。
アステリアの罪は、世界を守ろうとしたことだけではない。
誰かを失うことが怖くて、その人が選ぶ未来を、自分の望む形に留めようとしたことだった。
「……私は、エリシアに謝る資格もないわ」
「それを決めるのは、あなたじゃない」
リリアは静かに告げた。
「エリシアがあなたを許すかどうかは、エリシア自身が決めること。あなたが謝ることも、これからどう生きるかも、あなた自身が選ぶことよ」
「でも、私は……」
「間違えたことと、これからも間違い続けることは違う」
リリアは、アステリアへ手を差し伸べた。
「あなたがしたことを、なかったことにはしない。私だって、すぐに全部を許せるわけじゃない」
正直な気持ちだった。
アステリアが封じた約束によって、失われたものはあまりにも多い。
その事実を、優しい言葉だけで覆い隠すことはできない。
「それでも、あなたが今から何を選ぶかまで、過去の罪に決めさせたくないの」
アステリアは、差し出された手を見つめた。
長い沈黙のあと、彼女は一歩だけ前へ進んだ。
しかし、その瞬間。
『不許可』
外部の存在の声が、空間を切り裂いた。
『封印管理者による自己修正を検知。第四の約束との接触を禁止する』
アステリアの身体が、強い光に包まれた。
「っ……!」
彼女の足元に、巨大な魔法陣のような記号が広がる。
《封印管理者――権限剥奪》
《第三の創造主――存在情報の削除を開始》
「アステリア!」
リリアが駆け寄る。
だが、光の壁が二人を隔てた。
『封印管理者は、封印対象に関する真実を開示した』
『規則違反を確認。管理者の存在を消去する』
「ふざけないで!」
リリアは壁を叩いた。
「彼女が自分の過ちを認めたからって、消されなきゃいけない理由なんてない!」
『記録された役割からの逸脱は、修正される』
「役割なんて、本人の意思より大切なものじゃない!」
創世の力が、リリアの身体から噴き上がった。
しかし、彼女はすぐに力を抑えた。
この場所で無理に法則を変えれば、アステリアの存在そのものを傷つけるかもしれない。
力を使うだけでは救えない。
それなら、どうすればいいのか。
リリアが考えを巡らせていると、観測者が静かに告げた。
「アステリア。君は、まだ第四の約束を封印しているのか?」
アステリアは苦しそうに顔を上げた。
「……いいえ」
「本当に?」
「封印したのは私。でも、もう、その未来を閉じ込めておきたいとは思っていないわ」
彼女の瞳から、涙がこぼれた。
「私は怖かった。今でも怖い。でも……怖いからといって、誰かの未来を奪っていい理由にはならない」
その言葉と同時に、彼女の胸元に刻まれていた黒い亀裂が、わずかに白く変わった。
《封印管理者――意思の変化を確認》
《第四の約束――封印解除条件を再評価》
外部の存在の光が揺らぐ。
『管理者の意思変更は、封印解除の根拠にならない』
「いいえ」
アステリアは、震えながらも顔を上げた。
「私が封印したのなら、私が封印を解く意思を示すことにも意味があるはずよ」
彼女はリリアを見た。
「リリア。私は、第四の約束を封印した理由を、あなたにすべて話すわ。そして、その結果をあなたに委ねる」
「……本当に、それでいいの?」
「ええ。今度こそ、あなたの答えを私が決めたりしない」
アステリアは、光の壁へ手を伸ばした。
「第四の約束の封印を解除するわ」
その瞬間、世界の外側が完全に静止した。
砕けていた空間も、舞い上がっていた花びらも、観測者を縛る鎖さえも動きを止めた。
そして、第三の扉に刻まれた文字が、ゆっくりと書き換わっていく。
《まだ、選ばれていない未来》
その下に、新たな一文が現れた。
《封印解除――管理者の意思を確認》
しかし、次に表示された記録を見た瞬間、アステリアの顔から血の気が引いた。
《封印解除の代償――管理者が最も守りたかった記憶》
「……そんな」
彼女は、震える唇で呟いた。
「なぜ、この記録が……」
リリアは彼女を見つめた。
「アステリア? 何が書かれているの?」
アステリアは答えなかった。
ただ、第三の扉を見つめている。
その瞳には、これまで見たことのない恐怖が浮かんでいた。
「第四の約束を封じたとき……私は、ひとつだけ、絶対に失いたくない記憶を守ろうとしたの」
「誰の記憶?」
アステリアの唇が震えた。
「エリシアの……最後の記憶よ」
その言葉が落ちた瞬間、扉の奥から、懐かしい声が聞こえた。
『アステリア。もし、私が間違えたら――』
エリシアの声だった。
けれど、その先が続くことはなかった。
代わりに、扉の表面に、ひとつの映像が浮かび上がる。
世界が生まれる直前。
エリシアが、誰もいない場所で、ひとり泣いている姿だった。
そして彼女の背後には、白い花を手にした、幼い少女が立っていた。
少女はエリシアへ手を伸ばし、何かを伝えようとしている。
だが、その声だけが、記録から完全に失われていた。
観測者が、息を呑んだ。
「……まさか」
彼の瞳が大きく揺れた。
「彼女が最後に選んだのは、世界を作ることだけじゃなかったのか……?」
扉に、新たな文字が浮かび上がる。
《第四の約束――最終記録》
《創造主エリシアの最後の選択――未開示》
リリアは、扉を見つめた。
エリシアは、何を選んだのか。
そして、アステリアは、その記憶の何を守ろうとしたのか。
答えを知るためには、封印を解かなければならない。
けれど、その代償は、アステリアが最も守りたかった記憶。
彼女が第四の約束を封じるほど恐れた、エリシアとの最後のつながりだった。
アステリアは、静かに目を閉じた。
「……それでも、私は選ぶわ」
彼女は光の壁へ、もう一度手を伸ばした。
「もう二度と、誰かの未来を、私の恐れで閉ざしたくないから」
第三の扉が、ゆっくりと開き始めた。
その向こうから、白い光が溢れ出す。
そして、エリシアの声が、今度こそ続きを告げようとしていた。
――だが、その声が響く直前。
外部の存在が、初めて明確な怒りを込めて叫んだ。
『その記憶を開くな!』
世界の外側に、巨大な目が開いた。
それは、これまで彼らを監視していた影とは違う。
もっと古く、もっと深い何か。
世界が生まれる前から、すべての選択を見つめていた存在だった。
そして、その目は、リリアだけを見つめていた。
『創造者リリア・エヴァンジェル』
声が響く。
『お前が知れば、もう二度と、元の世界には戻れない』
リリアは、恐怖を感じながらも、目を逸らさなかった。
「それでも、知りたい」
彼女は答えた。
「誰かが隠した真実を知らないまま、正しい未来を選ぶことなんてできないから」
白い光が、すべてを包み込んだ。
そして、エリシアが最後に残した記憶が、ついに開かれようとしていた。
第77話 終
次回、第78話「エリシアが最後に選んだもの」
第四の約束の封印が解かれようとする中、アステリアが守り続けたエリシアの最後の記憶が姿を現す。そこに残されていたのは、世界を創造する決意だけではなかった。エリシアは、世界と誰かを守るために、何を選び、何を手放そうとしていたのか。そして、世界の外側から見つめる巨大な目の正体に、リリアは初めて近づいていく。




