第75話 失われた子のもうひとつの姿
第75話 失われた子のもうひとつの姿
扉の向こうに立っていた少女は、リリアが記憶の中で何度も見た少女と、あまりにもよく似ていた。
淡い金色の髪。 夕焼けを閉じ込めたような橙色の瞳。 そして、髪に飾られた一輪の白い花。
世界が生まれる前、エリシアと原初の観測者のそばにいた少女。
誰もが自分の意思で選べる世界を望み、その願いごと記録から消された子。
けれど、目の前の少女は、記憶の中の少女とは違っていた。
その瞳には、懐かしさも悲しみもない。
ただ、長い時間をかけて答えを待ち続けた者だけが持つ、静かなまなざしがあった。
「初めまして、創造者」
少女は微笑んだ。
「私は、あなたが探していた存在。けれど、あなたが知っている私とは、少し違うかもしれない」
リリアは息を呑んだ。
「あなたは……あの子なの?」
「その質問に答える前に、ひとつ聞かせて」
少女は一歩、こちらへ近づいた。
「あなたは、私を救うために、何を手放せる?」
その問いが響いた瞬間、扉の向こうの空間が震えた。
足元に浮かび上がる文字。
《存在の代償――再確認》
《要求対象:創造者リリア・エヴァンジェル》
《提示条件:創世の理の放棄》
アレンが、すぐさまリリアの前に出た。
「待て。力を手放せというのか?」
「そう」
少女はあっさりとうなずいた。
「あなたが持つ《創世の理》。神々を超え、世界の法則にさえ手を加えられる力。それを手放せば、私の存在を元の記録へ戻す道が開かれる」
「そんなことをしたら、リリアは……」
ミラが言いかけ、言葉を詰まらせた。
創世の力は、リリアの命そのものではない。
けれど、彼女の魂に深く結びついた力だ。それを失えば、今までのように世界の異変へ対抗できなくなるかもしれない。
そして、外部の存在が仕掛けた修正を止める手段も失う。
「力を手放したら、世界はどうなるの?」
リリアは少女を見つめた。
「私が力を失ったあとも、世界は続く?」
「保証はできないわ」
少女は隠さなかった。
「あなたが作り直した法則も、世界の意思とのつながりも、すべてが残るとは限らない。あなたは、今までのように世界を守れなくなる」
「じゃあ、あの子の存在を取り戻せる保証は?」
「それも、ない」
沈黙が落ちた。
失われた子を救うために、創世の力を手放す。
それでも救えるとは限らない。
世界を守る力を失い、目の前の少女さえ取り戻せなかったら。
それは、あまりにも危険な賭けだった。
「……ずいぶん一方的な条件だな」
レオンが低い声で言った。
「代償だけを要求して、結果は保証しない。そんなものを受け入れろというのか」
「受け入れるかどうかは、彼女が決めることよ」
少女はレオンを見た。
「私は、選択を奪っていない。条件を提示しているだけ」
「条件を提示することと、その選択しか残さないことは違う」
セフィルが静かに口を開いた。
「ほかの道が存在しないと証明されていない以上、これは自由な選択とは呼べない」
少女の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬だった。
けれど、リリアは見逃さなかった。
「あなたも、何かを選べずにいるの?」
問いかけると、少女の表情から微笑みが消えた。
「……私は、選ぶことを許されなかった存在だから」
その言葉は、記憶の奥に眠る誰かの声と重なった。
世界が生まれる前。
何者にも分類されず、何者の所有物でもなかった小さな子。
外部の存在は、その不確定な意思を世界の邪魔だと判断した。
そして、存在そのものを消そうとした。
「だから、私は考えたの」
少女は胸元に手を当てた。
「もし、いつか創造者がここへ来るなら。その人に力を手放してもらえば、私はもう一度、存在できるかもしれないって」
「……あなた自身が、そう望んだの?」
「わからない」
少女は初めて、迷うように視線を落とした。
「ずっと、それが私の望みだと思っていた。でも、本当にそうなのか、今はわからないの」
その答えを聞いた瞬間、リリアの胸に痛みが走った。
彼女は、この少女を救いたかった。
記録から消され、名前を奪われ、誰かの意思によって存在を決められた子。
そんな子に、もう一度、自分の人生を選んでほしかった。
けれど。
「私は、あなたを救いたい」
リリアは、はっきりと言った。
「あなたがどんな存在なのか、まだ全部はわからない。それでも、あなたが消えてほしくないと思っている」
少女は顔を上げた。
「なら、力を手放して」
「でも、それをあなたのために決めることはできない」
「……どうして?」
「私があなたを救いたいからといって、あなたが本当に望んでいる未来まで、私が決めていいことにはならないから」
リリアは、自分の胸に手を置いた。
創世の力が、かすかに応える。
「私が力を手放すことも、あなたが存在を取り戻すことも、どちらも簡単には決められない。あなたが望む未来を知らないまま、私の力だけを差し出しても、それはまた誰かが誰かの意思を決めることになる」
「……では、あなたは何も差し出さないの?」
「違うわ」
リリアは首を横に振った。
「私は、あなたを救うために、自分の力を使うことだけが正しいと思い込むのをやめる」
少女の目が見開かれた。
「創世の力は、私のすべてじゃない。力がなければ何もできないと決めつけることも、力を失えば終わりだと恐れることも、やめる」
リリアは一歩、少女へ近づいた。
「でも、あなたが望んでいるかどうかわからないまま、力を手放すことはしない。あなた自身が、何を望んでいるのかを選べるようになるまで、私はその答えを急がない」
長い沈黙。
少女は、リリアを見つめていた。
やがて、その唇が小さく動いた。
「……そんなことをしたら、間に合わないかもしれない」
「それでも」
リリアは答えた。
「あなたの未来を、あなたの知らないところで決めたくない」
その瞬間。
少女の髪に飾られた白い花が、淡い光を放った。
花びらが一枚、宙へ舞い上がる。
そして、リリアの胸元に刻まれた第三の約束の紋章が、静かに輝き始めた。
《第三の約束――照合開始》
《創造者の意思:他者の意思の代行決定を拒否》
《対象の意思:未確定》
《存在の代償――再評価》
空間を満たしていた文字が、次々と書き換わっていく。
少女は驚いたように自分の手を見下ろした。
「どうして……?」
その声には、初めて隠しきれない感情がにじんでいた。
「私は、あなたに力を手放してほしかった。そうすれば、私の存在が戻るかもしれないと思っていたのに……」
「今も、それがあなたの望み?」
リリアは尋ねた。
少女は答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙こそが、彼女が初めて自分自身の願いを疑った証だった。
そのとき、空間の奥から、あの声が響いた。
『不適合を確認』
顔のない影。
外部の存在が、少女の背後に現れていた。
『創造者は要求を拒否した。対象の意思は未確定。よって、修正を再開する』
少女の身体に、黒い亀裂が走った。
「っ……!」
彼女が膝をつく。
リリアが駆け寄ろうとした瞬間、アレンが叫んだ。
「リリア、待て! その影が彼女を利用している!」
外部の存在の光が、少女を貫くように照らした。
『未確定の意思は、再び消去される』
少女の身体が、足元から透け始めた。
「いや……」
彼女は震える手で、自分の胸を押さえた。
「まだ……私は、何も選んでいない……!」
その声を聞いた瞬間、リリアの中で何かが弾けた。
世界の法則を変えるためではない。
誰かの未来を決めるためでもない。
ただ、選ぶことさえ許されなかった少女が、もう一度その機会を奪われようとしている。
「やめて!」
リリアは手を伸ばした。
創世の力が指先に集まる。
しかし、力を放とうとした瞬間、外部の存在が告げた。
『その力を使えば、対象の意思を再び創造者の法則で上書きすることになる』
リリアの手が止まった。
少女を救うための力が、少女の意思を奪う可能性がある。
使えば、彼女を傷つけるかもしれない。
使わなければ、彼女は消されてしまう。
またしても、世界は二つの選択肢だけを突きつけてくる。
そのとき。
リリアの背後から、かすかな声が聞こえた。
「……違う」
原初の観測者だった。
鎖に囚われたまま、彼は少女を見つめていた。
「その子を救うために、リリアが答えを決める必要はない」
彼の紫の瞳が、初めて少女の目をまっすぐに捉えた。
「君が、君自身の答えを選ぶんだ」
少女の頬を、一筋の涙が伝った。
彼女は消えかけた手を見つめたあと、リリアへ視線を戻した。
「……私が、選んでもいいの?」
リリアは、涙をこらえながらうなずいた。
「もちろん」
少女は、初めて自分の意思で息を吸った。
そして、震える唇を開く。
「それなら、私は……」
言葉が、そこで途切れた。
彼女の胸元に、見たことのない文字が浮かび上がる。
それは、失われた名前ではなかった。
まだ誰にも与えられていない、彼女自身が選ぶための空白だった。
《未登録の意思――自己選択の兆候》
《消去処理――一時停止》
外部の存在が、初めて沈黙した。
少女は自分の胸元に手を当て、ゆっくりと顔を上げた。
「私……もう一度、考えたい」
その言葉は、小さかった。
けれど、誰かに命じられたものではなかった。
初めて彼女自身から生まれた、彼女だけの願いだった。
そして、白い花の最後の一片が、静かに光を放った。
花びらに浮かび上がった文字を見て、リリアは息を呑む。
そこに記されていたのは、少女の名前ではない。
世界が生まれる前に交わされた、もうひとつの約束だった。
《第四の約束――選ばれなかった未来にも、選び直す機会を残す》
リリアが第三の約束を継いだとき、世界はまだ、この約束の存在を知らなかった。
そして今、失われたはずの約束が、再び目を覚まそうとしていた。
第75話 終
次回、第76話「白い花に隠された第四の約束」
少女が初めて自分の意思で選んだのは、消えることでも、力を求めることでもなかった。白い花が示した第四の約束は、なぜ世界の記録から消されていたのか。そして、その約束を恐れる外部の存在が、ついに観測者へ最後の選択を迫る。




