第68話 世界が選んだ最初の犠牲
第68話 世界が選んだ最初の犠牲
《世界の意思が選んだ、最初の対象》
《リリア・エヴァンジェル》
その記録が刻まれた瞬間、白い花弁が音もなく砕け散った。
ひとひら、またひとひら。
舞い落ちた花弁は床に触れる前に光となり、保管庫の奥へと吸い込まれていく。
最後の一枚が消えたとき、リリアの胸元に刻まれた第三の約束の紋章が、鋭い痛みを放った。
「っ……!」
「リリア!」
アレンが彼女の肩を支える。
その手に力がこもった。
「どうした? どこか痛むのか?」
「大丈夫……少し、胸が熱くなっただけ」
「少しで済む顔色じゃない」
アレンの青い瞳が、リリアの顔を確かめるように見つめる。
彼女は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
胸の奥に、何かが入り込んでいる。
それは魔力ではなかった。
呪いとも違う。
まるで、遠く離れた誰かが彼女の心臓の鼓動を数えているような感覚だった。
「……ねえ、アレン」
「なんだ?」
「もし私が、世界を守るために犠牲にならなければならないって言われたら……あなたは、どうする?」
アレンの表情が凍りついた。
「その質問には答えない」
「どうして?」
「お前が犠牲になることを、最初から選択肢に入れるつもりがないからだ」
即答だった。
リリアは目を伏せた。
「でも、世界の意思が私を選んだのよ」
「だから何だ」
アレンは、彼女の肩を支える手を離さなかった。
「世界が選んだからといって、それが正しいとは限らない」
「……」
「神々が選んだことも、あの影が決めたことも、そして世界そのものが望んだことも。俺たちが考えることをやめて、ただ従わなければならない理由にはならない」
彼の声には、迷いがなかった。
「お前は、そう教えてくれただろう?」
リリアは、はっと顔を上げた。
神々に見捨てられた日。
誰にも価値を認められず、命さえ奪われそうになったあの日。
彼女は、誰かに選ばれることを諦めかけていた。
けれど、アレンは彼女を見つけた。
力があるからではない。
創世の女神になれるからでもない。
ただ、そこにリリアがいたから。
「……ありがとう」
「礼はいらない。約束しただろう。お前が迷うなら、俺も一緒に迷うと」
アレンは少しだけ表情を和らげた。
「ただし、勝手にいなくなることだけは許さない」
「ふふ……それは、なかなか厳しい条件ね」
「当然だ」
その短いやり取りを見ていたミラが、深く息を吐いた。
「まったく。こんなときまで二人の世界を作らないでよね」
「ミラ……」
「でも、アレンの言うとおりよ。リリアが犠牲にならなきゃ世界が救えないなんて、そんな結末を簡単に認めるわけにはいかないわ」
ミラの掌に、小さな炎が灯る。
「世界が相手だろうと、神々が相手だろうと、文句を言う権利くらいはあるでしょ?」
「……ああ。もちろんだ」
レオンが頷いた。
「そもそも、世界の意思が目覚めたばかりなら、その選択が正しいかどうかもわからない。自らの望みを知ったばかりの存在が、他者の命を代償にする意味まで理解しているとは限らない」
セフィルも、壁に浮かぶ記録を見つめながら口を開いた。
「だが、なぜリリアなのだろうな」
その言葉に、全員の視線が集まった。
「第三の約束を継承したから、というだけでは説明がつかない。世界の意思は、先ほどまで自分の望みを探していた。ならば、リリアを選んだことにも、何らかの理由があるはずだ」
「理由……」
リリアは胸元の紋章に触れた。
そのとき、保管庫の奥で水晶がひとつ、音を立てて割れた。
全員が振り返る。
割れた水晶の内側から、黒い文字が浮かび上がっていた。
《世界の意思――選択理由の開示》
《対象:リリア・エヴァンジェル》
《判定理由:世界の外側に接続可能な魂》
リリアの呼吸が止まった。
「世界の……外側?」
セフィルが眉をひそめる。
「待て。リリアの魂が世界の外側に接続しているというのか?」
文字が変化した。
《魂の構造――二重の記録を確認》
《第一記録:リリア・エヴァンジェル》
《第二記録:創世の理との接続痕跡》
《第三記録:未登録》
「第三……?」
ミラが呟いた。
リリアは、息を呑んだまま文字を見つめていた。
自分の魂に、三つ目の記録がある。
そんなことは聞いたことがない。
エリシアの記憶を受け継いでいることは知っている。
けれど、自分自身がエリシアそのものではないことも、はっきりと理解していた。
ならば、第三の記録とは何なのか。
「……私の中に、まだ何かあるの?」
リリアが問いかけた瞬間、保管庫全体が暗くなった。
水晶の光が一斉に弱まる。
そして、あの声が響いた。
――開示を中止せよ。
外部の存在。
顔のない影が、天井も床もない空間から姿を現した。
ただひとつの光る目が、リリアを見据える。
――未登録情報の開示は、世界の安定性を損なう。
「また、それ?」
リリアはゆっくりと立ち上がった。
「世界を安定させるためなら、何も知らないままでいろというの?」
――肯定。
「ふざけないで」
彼女の声が、保管庫に響いた。
「私の魂について、私自身が知らされていないことがある。それなら、知る権利くらいあるはずよ」
――権利は、世界の維持を前提とする。
――世界の維持を損なう情報は、開示対象外である。
「あなたが決めた前提でしょう!」
リリアが手をかざす。
創世の理が光となって指先に集まった。
しかし、影は動じなかった。
――対象は、世界の意思との接続を維持している。
――対象の存在が、外部との接続点となる可能性を確認。
――世界の意思の自発的選択を制限するため、対象の切り離しを提案する。
アレンが剣を抜いた。
「切り離しだと?」
――リリア・エヴァンジェルを世界の意思から分離する。
――その後、対象を隔離する。
――世界の意思は、再び安定した状態に戻る。
「つまり、リリアを閉じ込めるということか」
レオンの声が低くなる。
――肯定。
「断る!」
ミラの炎が燃え上がった。
「リリアを閉じ込めて、何もなかったことにするなんて許さない!」
だが、影は彼女たちを見ていなかった。
その光る目は、ただリリアだけを捉えていた。
――対象の意思は、世界の安定に対して危険である。
――対象の切り離しを実行する。
瞬間、リリアの足元に黒い円が広がった。
「リリア、動くな!」
アレンが彼女の腕を引く。
だが、黒い円は彼女の足に絡みつき、床のない空間へ引きずり込もうとした。
「っ……!」
リリアは創世の理を発動した。
白い光が黒い円を押し返す。
しかし、黒い円は消えなかった。
むしろ、彼女の魔力を吸い取るように、少しずつ広がっていく。
「どうして……!」
――対象の魂は、世界の意思と接続している。
――接続を切断するには、対象の存在情報を再定義する必要がある。
「存在情報を……再定義?」
セフィルが顔色を変えた。
「まさか、リリアの存在そのものを書き換えるつもりか!」
影は答えなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
リリアの身体が、少しずつ透け始める。
指先から、白い光がこぼれていった。
「リリア!」
アレンが彼女の手をつかむ。
けれど、触れている部分からも光が散っていく。
「離さないで……!」
「ああ!」
アレンは両手で彼女をつかんだ。
「絶対に離さない!」
ミラが炎を放つ。
レオンとセフィルも、それぞれの力を黒い円へ叩きつけた。
だが、攻撃はすべて吸い込まれていく。
影の声が響いた。
――対象の切り離し、進行。
――残り、三十秒。
「そんな……!」
ミラが歯を食いしばる。
「リリアをどうすれば助けられるのよ!」
その問いに、誰も答えられなかった。
リリアは、アレンの手を握り返した。
身体から力が抜けていく。
意識が遠のきかける。
それでも、彼女は必死に考えた。
創世の理で黒い円を消そうとしても、無理だった。
ならば、消すのではなく、別の方法を探さなければならない。
世界の意思との接続。
自分の魂。
そして、第三の約束。
――失われた者の意思を、残された者が勝手に決めてはならない。
ならば、自分自身の意思を、誰かに勝手に決めさせてはならないはずだ。
「……そうよ」
リリアは顔を上げた。
「私は、あなたに選ばれたからここにいるんじゃない」
黒い円が、彼女の身体をさらに深く包み込む。
「私が、自分でここにいることを選んだのよ!」
胸元の白い花が輝いた。
――対象の抵抗を確認。
――切り離しを継続する。
「だったら、私の意思を無視して切り離すことなんてできない!」
リリアは目を閉じた。
創世の理を、黒い円へ向けるのではない。
自分の魂へ向ける。
自分が何者なのか。
何を受け継ぎ、何を望み、何を選んできたのか。
前世の記憶。
リリアとして生きてきた日々。
神々に見捨てられた痛み。
アレンと出会ったこと。
ミラと笑い合ったこと。
セフィルが自分の意思を取り戻していく姿。
レオンが過去の罪と向き合ったこと。
そして、名を持たない少女が、消えることを恐れながらも自分の未来を選ぼうとしたこと。
それらは、誰かに与えられただけの記録ではない。
リリア自身が生きて、感じて、選んできたものだった。
「私は、エリシアではない」
彼女は静かに告げた。
「エリシアの記憶を受け継いでいても、彼女のすべてを背負う必要はない」
胸元の紋章が、強く輝く。
「私は、リリア・エヴァンジェル」
黒い円に、亀裂が走った。
「私自身の意思で、この世界に生きている!」
その瞬間、世界の意思が応えた。
――リリア・エヴァンジェル。
声が、彼女の魂の奥深くに響く。
――あなたの意思を、私は確認した。
――あなたの存在を、私は認める。
――私は、あなたを切り離すことを望まない。
光が爆発した。
黒い円が砕け散り、リリアの身体を包んでいた闇が消えていく。
彼女はアレンの腕の中へ倒れ込んだ。
「リリア!」
「……アレン……?」
「無事か? どこか痛むか?」
彼の顔は、今にも泣き出しそうだった。
リリアは弱々しく微笑んだ。
「大丈夫……たぶん」
「たぶん、じゃない」
「ごめんなさい……」
アレンは彼女を抱きしめた。
強く、けれど痛くないように。
「……本当に、無茶ばかりする」
「でも……自分の意思を、守れたわ」
「そうだな」
アレンは彼女の髪に頬を寄せた。
「よく頑張った」
その言葉に、リリアは目を閉じた。
けれど、安堵したのも束の間だった。
保管庫の中央に、新たな文字が浮かび上がった。
《世界の意思――対象の切り離しを拒否》
《リリア・エヴァンジェル――存在情報の独立性を確認》
《外部からの修正――失敗》
そして、その下に。
《第三記録――一部開示》
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「第三記録……!」
先ほど中断された、彼女の魂に関する記録。
今度こそ、その一部が開示されようとしていた。
文字が浮かび上がる。
《第三記録の由来――》
そこで、記録が途切れた。
空間が激しく揺れる。
影が、再び姿を現した。
――開示を禁止する。
「またなの!?」
ミラが叫ぶ。
だが、今度は影だけではなかった。
保管庫の奥から、別の光が現れた。
黄金色の光。
それは、神々の力とも、創世の理とも異なる輝きだった。
光の中に、ひとつの声が響く。
――もう、隠し続けることはできない。
その声を聞いた瞬間、リリアは息を呑んだ。
聞き覚えがある。
忘れたことなどない。
世界が生まれる前の記憶。
幼いエリシアのそばに立ち、彼女の選択を見届けていた存在。
そして、第三の創造主。
「……アステリア?」
黄金の光が、ゆっくりと人の姿を形作った。
黒い髪。
黄金の瞳。
その表情には、深い悲しみが浮かんでいた。
アステリアはリリアを見つめ、静かに告げた。
「あなたの魂に刻まれた第三の記録……その本当の意味を、私は知っている」
彼女は一度、目を伏せた。
「そして、それを隠したのは――私なの」
リリアの胸が、強く脈打った。
世界が選んだ最初の犠牲。
自分の魂に隠された第三の記録。
そして、それを隠した第三の創造主。
すべての謎が、ひとつにつながろうとしていた。
けれど、アステリアが次に口にした言葉は、リリアの想像を超えていた。
「リリア。あなたが世界の外側に接続できる理由は、エリシアの力を受け継いだからではないわ」
アステリアの黄金の瞳が揺れる。
「あなたは……世界が生まれる前に、失われたあの子の意思に触れているの」
リリアは息を止めた。
世界が生まれる前に失われた子。
名前も記録も奪われた、あの少女。
彼女とリリアの魂は、いったいどこでつながったのか。
アステリアは答えようとした。
しかし、その瞬間、影の光る目が彼女を捉えた。
――第三の創造主。
――未許可の記録開示を確認。
――次の修正対象に指定する。
アステリアの身体に、黒い亀裂が走った。
「アステリア!」
リリアが叫ぶ。
アステリアは、それでも微笑んだ。
「今度こそ……あなたに選んでもらうわ」
黄金の光が、激しく輝く。
「私が隠した真実を知ったうえで、あなた自身が何を選ぶのかを」
次の瞬間、彼女の姿が黒い光に覆われた。
そして、保管庫に最後の記録が刻まれた。
《修正対象――アステリア》
《消去開始まで――十時間》
リリアは、拳を握りしめた。
もう誰にも、勝手に選ばせない。
自分の未来も。
失われた者たちの未来も。
そして、罪を告白しようとしているアステリアの未来も。
すべてを救えると、まだ確信できるわけではない。
それでも、選択する権利だけは、決して奪わせない。
第68話・終
次回、第69話「第三の創造主が隠した真実」
アステリアの消去まで、残された時間は十時間。リリアは自分の魂に刻まれた第三の記録と、失われた子とのつながりを知るため、アステリアの記憶へ踏み込む。しかし、そこに待っていたのは、第三の創造主が世界を守るためについた嘘だけではなかった。彼女が本当に恐れていたものとは――。




