第65話 第三の約束を継ぐ者
第65話 第三の約束を継ぐ者
《第三の約束――最終継承者の選定を開始》
《候補者:リリア・エヴァンジェル》
白い部屋の壁に浮かんだ文字を、私はじっと見つめていた。
名前を持たなかった少女は、机の前に座り、白い紙を見つめている。
彼女が自分の名前を選ぶまで、誰も急かしてはいけない。
それは、私が彼女に約束したことだった。
けれど、私自身にも、避けて通れない選択が迫っていた。
第三の約束を継承するかどうか。
それを決めるのは、私だ。
「リリア……」
アレンが心配そうに私を見た。
「無理に今、答えを出す必要はないんじゃないか?」
「でも、時間がないんでしょう?」
私は壁の端に表示された残り時間を見た。
十四時間。
世界の外との接続が崩れるまで、もう半日も残されていない。
アレンは一度、言葉をのみ込んだ。
「時間がないことと、お前が急いで決めなきゃいけないことは、同じじゃない」
その言葉に、私は顔を上げた。
「……そうだね」
「俺は、お前に世界を救ってほしいから一緒にいるわけじゃない」
アレンは、まっすぐ私を見つめていた。
「お前が生きたいと思っているから、そばにいるんだ。だから、世界を救うためにお前自身を犠牲にするような選択だけは、してほしくない」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
誰かのために何かをすることは、悪いことではない。
大切な人を守りたいと思うことも、間違いではない。
でも、そのために自分自身を消してしまう必要はないのだ。
「ありがとう、アレン」
私は微笑んだ。
「私、自分がどうしたいのか、ちゃんと考えてみる」
アレンは静かにうなずいた。
その隣で、ミラが腕を組んだ。
「それで? その第三の約束って、具体的には何なの?」
セフィルが壁に刻まれた記録を確認する。
「ここまでの記録から考えると、第三の約束は、失われた者の意思を残された者が勝手に決めないこと。そして、残された者自身も、自分の意思で未来を選ぶことに関係しているようです」
「それって、世界を救うために誰かを犠牲にするなってこと?」
「それだけではないでしょう」
セフィルは、慎重に言葉を選んだ。
「誰かを救うために、その人の望みを無視してはいけない。けれど、誰かの意思を尊重するために、自分の願いを捨てる必要もない。おそらく、その両方を守るための約束なのです」
私は目を閉じた。
エリシアは、観測者を取り戻したかった。
観測者は、エリシアに世界を創ってほしかった。
名前を失った少女は、二人が迷ったとき、一緒に考えたかった。
三人とも、相手を大切に思っていた。
それなのに、その願いはすれ違い、取り返しのつかない別れにつながった。
誰かを大切に思う気持ちだけでは、すべてを守ることはできない。
だからこそ、約束が必要だったのだろう。
けれど、その約束さえも、誰かを縛る鎖になってしまった。
「……私は、約束を受け継ぎたい」
口にした瞬間、壁の文字が光った。
《継承意思――確認》
しかし、私は続けた。
「でも、条件がある」
光が揺らいだ。
「私は、エリシアの代わりにはならない。観測者の帰還を、彼自身の意思を無視して決めたりもしない。そして、あの子に、誰かのために消えることを求めない」
白い部屋に、私の声が響く。
「第三の約束を受け継ぐとしても、それを誰かに命令するための力にはしない。誰もが自分の未来を選べるようにするために、私はこの約束を受け継ぎたい」
しばらく、何も起こらなかった。
やがて、壁に刻まれた文字がゆっくりと書き換わった。
《継承条件――再照合》
《継承者の意思:確認》
《自己犠牲を前提としない選択:確認》
《他者の意思を尊重する選択:確認》
そして、最後に新しい一文が浮かび上がった。
《継承契約――本人の最終同意を待機》
「……まだ、何か足りないの?」
私が問いかけると、部屋の奥から低い音が響いた。
ごうん。
床が揺れ、中央に巨大な水晶が現れた。
その内部には、三つの光が浮かんでいる。
白い光。
銀色の光。
そして、深い青色の光。
白い光は、エリシアの記憶。
銀色の光は、観測者の意思。
そして、青色の光は――。
「……私?」
水晶の表面に、私の名前が浮かび上がった。
《リリア・エヴァンジェル――独立した魂》
その文字を見た瞬間、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
私は、エリシアの記憶を受け継いでいる。
彼女の力も、その悲しみも、少しずつ知るようになった。
でも、私は彼女ではない。
私の中にある青い光は、エリシアのものではなかった。
私自身が生きてきた時間。
私自身が出会った人たち。
私自身が選んできたこと。
それらが、ひとつの魂を形作っていた。
「……私は、私なんだね」
思わずつぶやくと、セフィルが微笑んだ。
「はい。だからこそ、あなたにしかできない選択があるのでしょう」
*
そのとき、水晶の奥から声が響いた。
『リリア・エヴァンジェル』
原初の観測者の声だった。
『君は、本当に第三の約束を受け継ぐつもりなのかい?』
「うん。でも、まだ聞きたいことがある」
『何だい?』
「もし私が継承したら、あなたは世界に戻れるの?」
沈黙。
観測者は、すぐには答えなかった。
『……わからない』
その返答に、私は目を見開いた。
『第三の約束は、僕を取り戻すために作られたものではないからね。約束を継承したからといって、僕が戻れるとは限らない』
「それでも、あなたは帰りたい?」
今度は、少し長い沈黙があった。
『……帰りたいと思っている』
静かな声だった。
『エリシアに会いたい。あの子が残した願いが、今どうなっているのかも知りたい。そして、僕自身が選んだ結果と、もう一度向き合いたい』
私は、ほっと息を吐いた。
「よかった」
『よかった?』
「だって、あなた自身が帰りたいと思っているなら、その気持ちを無視したくないもの」
私は水晶に手を触れた。
「でも、帰ってくるかどうかは、あなたが決めていい。私が約束を受け継いだからって、あなたに帰ってこいとは命令しない」
水晶の銀色の光が、ゆっくりと明滅した。
『……君は、本当に不思議な子だね』
「よく言われるよ」
『そうか。なら、僕からもひとつ、伝えておこう』
観測者の声が少しだけ低くなる。
『第三の約束を継承することは、ただ力を受け取ることではない。君は、世界が生まれる前から続いている争いに、自分の意思で関わることになる』
「世界の外にいる存在と、戦うことになるの?」
『戦うだけでは済まないかもしれない。彼らは、世界に存在するものを分類し、役割を与え、その役割から外れたものを修正しようとしている』
私の頭に、黒い糸がよぎった。
名前を失った少女を縛っていたもの。
世界の外から伸びてきた、あの無機質な力。
『彼らにとって、君は非常に危険な存在だ。君は、神々の法則だけでなく、彼らが決めた分類そのものに干渉できる可能性がある』
「……だから、私を排除しようとしているんだね」
『そうだろうね』
私は拳を握った。
怖くないと言えば、嘘になる。
私の力は強大だ。
けれど、まだ完全には使いこなせない。
創世の理を使うたびに、身体には負担がかかる。
もし、世界の外にいる存在が本気で私を消そうとしたら、今の私に何ができるのだろう。
それでも。
私は、隣にいる仲間たちを見た。
アレン。
ミラ。
セフィル。
そして、少し離れたところで私たちを見守るレオンとアステリア。
彼らは、私に世界を救えと命令しているわけではない。
ただ、私が自分で選ぶことを待ってくれている。
「……私、やっぱり受け継ぐよ」
私は水晶に向かって告げた。
「でも、ひとりでは受け継がない」
『どういう意味だい?』
「この約束を、私だけのものにしたくないの」
私は仲間たちを見た。
「私ひとりがすべてを背負ったら、きっとまた同じことが起きる。誰かがひとりで世界を守ろうとして、ほかの人たちの選択まで決めてしまう」
エリシアが、そうだったように。
観測者が、そうだったように。
そして、私自身も、同じ道を選びかけていた。
「だから、私はみんなと一緒に考えたい。私が間違えたときは、間違えたって言ってほしい。私がひとりで抱え込もうとしたら、止めてほしい」
アレンが、迷いなくうなずいた。
「わかった。何度でも言う」
ミラは、私の肩を軽く叩いた。
「もちろん。リリアが変な方向に突っ走ったら、私が引き戻してあげる!」
「変な方向って……」
「今だって、十分に変なことに巻き込まれてるでしょ!」
思わず、私は笑った。
セフィルも静かにうなずいた。
「私も協力します。あなたが選んだことを、あなたひとりの責任にするつもりはありません」
レオンが腕を組んだまま、口を開いた。
「約束とは、本来、ひとりで背負うものではない。互いに守る意思があってこそ、意味がある」
アステリアは、少しだけ目を細めた。
「……あの子が望んだ世界に、近づいているのかもしれないわね」
私は、もう一度水晶に向き直った。
「私は、第三の約束を受け継ぎます」
今度は、迷わなかった。
「誰かを救うために、その人の意思を奪わない。誰かの意思を尊重するために、自分の意思も捨てない。そして、ひとりで答えを決めず、互いに選ぶための道を探し続ける」
水晶が、強い光を放った。
白、銀、青。
三つの光が重なり合い、私の胸元へと流れ込んでくる。
熱い。
身体の奥に、今まで感じたことのない力が満ちていく。
同時に、無数の声が聞こえた。
世界が生まれる前の声。
エリシアが世界を創ろうとしたときの願い。
観測者が守ろうとした意思。
そして、名前を失った少女が残した、小さな祈り。
それらは、私の中でひとつになろうとしていた。
けれど、私は目を閉じ、はっきりと告げた。
「あなたたちの願いは受け継ぐ。でも、私の魂は私のものだよ」
光が、ぴたりと止まった。
次の瞬間、三つの光は私の中へ無理に溶け込むことなく、胸元に小さな紋章を形作った。
白い花を囲む、三本の銀色の輪。
その中央には、青い光が灯っている。
《第三の約束――継承成立》
《継承者:リリア・エヴァンジェル》
《魂の独立性:維持》
《他者への強制権限:なし》
私は、ゆっくりと息を吐いた。
力は、確かに私の中にある。
けれど、それは誰かを従わせるための力ではなかった。
誰かが自分の意思を失いそうになったとき、その声を世界に届けるための力。
その意味が、少しだけわかった気がした。
*
だが、安心したのも束の間だった。
保管庫の壁が、突然真っ黒に染まった。
《第三の約束――継承を確認》
《不整合の拡大を検知》
《最終修正を実行する》
「……何?」
セフィルの顔が強張った。
「これは、今までの反応とは違います。世界の外からの干渉が、保管庫全体に広がっている!」
黒い糸が、床を走った。
白い部屋の壁がひび割れ、机の上の紙が激しく揺れる。
名前を持たない少女が、椅子から立ち上がった。
『……また、わたしを消すの?』
その声には、恐怖がにじんでいた。
私は彼女の前に立った。
「消させない」
胸元の紋章が輝く。
第三の約束の力が、黒い糸を押し返そうとした。
しかし、糸は消えなかった。
むしろ、私の力を読み取るように、ゆっくりと形を変えていく。
『第三の約束の継承を確認』
『新たな矛盾を確認』
『継承者に、最終選択を要求する』
床に、巨大な文字が浮かび上がった。
《世界の維持》
《消失した子の復元》
《原初の観測者の帰還》
その三つが、並んで刻まれていた。
そして、その下に、冷たい言葉が現れた。
《三つのうち、ひとつを選択せよ》
私は息をのんだ。
「……そんなの、選べるわけない!」
世界を守りたい。
あの子の存在を取り戻したい。
観測者にも、自分の意思で帰ってきてほしい。
その願いのどれかを、捨てなければならない理由なんてない。
『選択を拒否した場合、すべての対象を消去する』
無機質な声が響いた。
残り時間は、十四時間を切っている。
私の胸元で、第三の約束の紋章が震えた。
そして、白い花の中から、名前を持たない少女の声が聞こえた。
『リリア……』
私は彼女を振り返った。
『わたし、もう……誰かに選ばされるのは嫌』
少女の瞳に、強い光が宿っていた。
『だから、わたしも一緒に考える』
私は、彼女の手を握った。
「うん。一緒に考えよう」
三つの選択肢を、誰かの思惑どおりに選ぶつもりはない。
第三の約束は、誰かの意思を奪うためのものではないのだから。
私は、壁に浮かぶ三つの文字を見つめた。
世界の維持。
少女の復元。
観測者の帰還。
そのすべてを諦めないために、私は何を選ぶべきなのか。
答えは、まだ見つからない。
けれど、ひとつだけ決めている。
誰かに与えられた三択の中から、未来を選ぶつもりはない。
第65話・終
次回、第66話「三つの未来を拒む少女」
第三の約束を継承したリリアに、世界の外から突きつけられた三つの選択。世界を守るか、失われた少女を取り戻すか、観測者を帰還させるか。ひとつを選べば、残る二つは失われるという。しかし、リリアはその前提そのものに疑問を抱く。神々の法則さえ超える創世の力で、彼女は「選ばされる未来」に抗おうとする。




