第64話 名を呼ぶ資格
第64話 名を呼ぶ資格
《消失した子――最後の選択》
扉に刻まれた文字を見つめながら、私は白い花を両手で包み込んだ。
花の中には、確かに誰かがいる。
名前を失い、世界から存在を消され、それでも自分の人生を生きたいと願った少女。
彼女は、まだ消えていない。
けれど、名前を取り戻すためには、本人の意思による呼びかけが必要だという。
「……呼びかけって、どういう意味なんだろう」
私がつぶやくと、セフィルが扉に刻まれた文字を調べ始めた。
「おそらく、単に名前を呼ぶということではありません。名前そのものが失われている以上、呼ぶべき言葉がないのですから」
「じゃあ、何を呼べばいいの?」
「それは……」
セフィルは答えを見つけられず、口を閉じた。
アレンが私の隣に立つ。
「名前がなくても、彼女がそこにいることはわかっている。それなら、名前を呼ぶことだけが方法じゃないんじゃないか?」
「存在を認める、ということ?」
「ああ。少なくとも、彼女を誰かの代わりとして扱うつもりがないことは、伝えられるはずだ」
私は小さくうなずいた。
そうだ。
彼女は、ずっと誰かのために存在するよう命じられてきた。
エリシアの魂を完成させるため。
原初の観測者を取り戻すため。
そして、役割を終えたら消えるため。
誰も、彼女自身が何を望んでいるのかを尋ねなかった。
私も、最初は彼女を危険な存在だと思っていた。
彼女が私を消そうとしたとき、私は彼女を止めることだけを考えていた。
けれど、今は違う。
彼女は私を消そうとした。
それは事実だ。
だけど、彼女自身もまた、誰かによって消えることを決められていた。
その二つは、どちらもなかったことにはできない。
「……私、彼女に謝りたい」
ミラが目を丸くした。
「リリアが?」
「うん。彼女が私を消そうとしたことは、許せない。でも、彼女の存在そのものを怖がって、何を考えているのか知ろうとしなかったことは、私の間違いだったと思う」
私は白い花を見つめた。
「だから、ちゃんと話したい。彼女が何を望んでいるのか、彼女自身の言葉で聞きたいんだ」
その瞬間、扉がかすかに震えた。
《呼びかけの資格――確認中》
文字が浮かび上がり、すぐに消える。
代わりに、扉の中央に小さな鏡が現れた。
鏡の表面には、私の姿が映っている。
黒い髪。
青い瞳。
そして、その奥に重なるように、白い服を着たもうひとりの少女がいた。
彼女は鏡の向こうから、私を見つめていた。
*
『……どうして、あなたがここにいるの?』
少女の声が、鏡を通して響いた。
私は驚きながらも、彼女の目を見つめた。
「あなたと話したかったから」
『わたしと?』
「うん」
『……わたしは、あなたを殺そうとしたんだよ』
「知ってる」
『あなたの人生を奪おうとした』
「それも、知ってる」
少女は唇をかみしめた。
『だったら、どうして……』
「あなたが何をしたかと、あなたがこれからどう生きるかは、別のことだから」
彼女の瞳が揺れた。
「あなたがしたことを、私は簡単に許せない。でも、あなたがこれから自分の人生を生きたいと思うことまで、否定したくない」
『……そんなの、きれいごとだよ』
「そうかもしれない」
私は正直に答えた。
「私だって、何が正しいのか全部わかっているわけじゃないから」
前世の記憶が、胸の奥をよぎった。
誰かに嫌われるのが怖くて、本当の気持ちを隠していた日々。
自分の望みを口にすることさえ、わがままだと思い込んでいた。
誰かに必要とされなければ、自分には価値がないのだと信じていた。
彼女は、かつての私に似ている。
けれど、同じではない。
だからこそ、彼女の未来を私が決めてはいけない。
「ねえ。あなたは、今も名前がほしい?」
少女はすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、彼女は小さくうなずいた。
『……ほしい』
「どんな名前がいい?」
『わからない』
彼女は困ったように笑った。
『名前がほしいって思ったのは、本当。でも、どんな名前が自分に合うのかなんて、考えたこともなかった』
「じゃあ、ゆっくり考えればいいよ」
『でも、時間がないんでしょう?』
私は言葉に詰まった。
世界の外との接続が崩れるまで、残された時間は十六時間を切っている。
その間に、名前の記録を復元しなければならない。
そうでなければ、彼女の存在が再び消される可能性がある。
しかし。
「時間がないからって、あなたの名前を私が勝手に決めるわけにはいかない」
私は鏡に手を伸ばした。
「あなたは、誰かの代わりじゃない。エリシアでも、私でもない。だから、あなたの名前はあなたが決めていい」
『……もし、わたしが間違えたら?』
「間違えたと思ったら、また考えればいい」
『もし、その名前が誰にも受け入れてもらえなかったら?』
「それでも、あなたが選んだ名前であることは変わらないよ」
少女は、鏡の向こうで目を見開いた。
そして、泣きそうな顔で笑った。
『……あなたって、変な人』
「よく言われるかも」
思わずそう答えると、隣でミラが小さく吹き出した。
アレンも、ほんの少しだけ表情を緩めた。
そのとき、鏡の表面に文字が浮かび上がった。
《本人の意思――確認》
《呼びかけの資格――仮承認》
扉が、ゆっくりと開き始める。
しかし、完全に開く直前、鏡の向こうから黒い糸が伸びてきた。
『不適切な接触を確認』
あの無機質な声が響いた。
『未完の魂に、独立した意思は認められない』
少女の身体が、びくりと震えた。
『対象は、原初の創造主の欠損を補うために存在する』
『名前の付与は、役割の完了を意味する』
『役割完了後、対象は消失する』
「……違う!」
私は叫んだ。
「名前を持つことと、消えることは関係ない!」
『否定』
黒い糸が鏡の内側を覆っていく。
『対象の存在意義は、創造主の魂の完成である』
『独立した人生を望むことは、存在理由への反逆である』
少女は、震える手で自分の胸を押さえた。
『……わたしは』
声がかすれる。
『わたしは、消えたくない』
「うん!」
『誰かのために消えるんじゃなくて……自分で生きたい』
「うん!」
『でも……』
少女の瞳から涙が落ちた。
『それを選んだら、わたしは、わたしを生み出した人たちを裏切ることになるの?』
私は息をのんだ。
それは、彼女にとって初めての問いなのかもしれなかった。
自分の意思を持つこと。
命じられた役割を拒むこと。
それは、彼女がずっと従ってきた存在への裏切りなのではないか。
そう考えてしまうほど、彼女は長い間、役割と自分自身を結びつけられていたのだ。
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「自分の人生を選ぶことは、裏切りじゃないよ」
『……本当に?』
「本当だよ。あなたを生み出した人たちが、あなたに何を望んでいたとしても、あなたの人生を生きるのはあなたなんだから」
私は鏡に手を当てた。
「それに、誰かを大切に思うことと、その人の言うとおりに生きることは、同じじゃない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが響いた。
エリシアの記憶ではない。
私自身の心から生まれた言葉だった。
誰かに愛されるために、自分を捨てる必要はない。
誰かに必要とされるために、役割を演じ続ける必要もない。
自分が何を望んでいるのか。
それを見失わないことこそ、大切なのだ。
鏡の向こうで、少女がゆっくりと顔を上げた。
『……わたし、まだ名前を決められない』
「うん」
『でも、自分で決めたい』
「うん」
『だから……』
少女は、震える唇で言った。
『わたしが名前を決めるまで、消えないでいられるようにしてほしい』
その瞬間、白い花が光り輝いた。
鏡を覆っていた黒い糸に、無数の亀裂が走る。
《本人の意思による命名――保留》
《消失処理――一時停止》
《独立した存在としての認識――開始》
少女の身体を縛っていた黒い糸が、一本、また一本とほどけていった。
けれど、完全には消えなかった。
鏡の奥には、まだ黒い影が残っている。
あの声も、完全には消えていない。
『一時停止は、解決ではない』
声が低く響く。
『期限までに第三の約束が完成しなければ、対象は再び回収される』
扉の向こうで、時計のような音が鳴った。
残された時間は、十五時間。
私は鏡から手を離した。
少女は、もう一度、自分の顔に触れていた。
まるで、自分が本当にここに存在しているのかを確かめるように。
『……ねえ、リリア』
「なに?」
『わたし、あなたのことがまだ少し怖い』
私は思わず笑った。
「私も、あなたのことが怖いよ」
『えっ?』
「だって、あなたは私を消そうとしたんだもの。すぐに全部を信じられるわけじゃない」
少女は、驚いたように目を見開いた。
「でも、怖いからって、あなたの話を聞かない理由にはならないでしょう?」
扉が完全に開いた。
向こう側には、真っ白な部屋が広がっていた。
中央には、一脚の椅子。
その前に、小さな机が置かれている。
机の上には、何も書かれていない一枚の紙と、銀色のペンがあった。
そして、紙の上には、たった一行の文字が刻まれていた。
《名前を持たなかった者が、初めて自分を名乗る場所》
「……ここで、名前を決めるの?」
私が尋ねると、アステリアが静かに答えた。
「そうでしょうね。けれど、名前を決めるのはあなたではない。彼女自身よ」
私はうなずいた。
「わかってる」
部屋の奥に、少女の姿が現れた。
白い服。
黒い髪。
青い瞳。
私と同じ顔をした、けれど私ではない少女。
彼女は椅子の前に立ち、机の上の紙を見つめた。
『……ここに、わたしの名前を書くの?』
「そうみたい」
『でも、何も思いつかないよ』
「じゃあ、今日は書かなくてもいいんじゃない?」
私がそう言うと、アステリアが驚いた顔をした。
「リリア。この部屋は、彼女が名前を選ぶために用意された場所なのよ」
「うん。でも、名前を決めることが目的になったら、また彼女に何かを強制することになるでしょう?」
私は、少女に向かって微笑んだ。
「ここに来たからって、今すぐ決めなくてもいい。自分が何を好きなのか、どんな人になりたいのか。それを考えてからでも遅くないよ」
少女は机の前で立ち尽くした。
そして、しばらくしてから、そっと椅子に腰を下ろした。
『……わたし、考えてみる』
「うん」
『どんな名前が好きなのか。どんな自分になりたいのか』
少女は白い紙を見つめた。
『それから、自分で決める』
銀色のペンが、かすかに光った。
紙の端に、小さな文字が浮かび上がる。
《命名権――本人に帰属》
その下には、まだ何も書かれていなかった。
名前は、空白のままだった。
けれど、その空白は、もう失われたものを意味してはいなかった。
これから彼女自身が、何かを書き込める場所だった。
私は、静かに息を吐いた。
まだ問題は解決していない。
世界の外から伸びる力も、観測者の帰還も、第三の約束の継承も、すべて途中のままだ。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
彼女は今、自分の未来を選ぶ権利を取り戻したのだ。
そのとき、部屋の壁に新たな文字が浮かび上がった。
《第三の約束――最終継承者の選定を開始》
《候補者:リリア・エヴァンジェル》
《選定条件:残された者の意思による選択》
そして、その下に、もうひとつの名前が現れた。
《原初の創造主――エリシア》
私は息をのんだ。
第三の約束を継承するためには、私自身が選ばなければならない。
エリシアの願いを受け継ぐのか。
それとも、彼女の約束を終わらせるのか。
その選択は、まだ私の前に残されている。
私は机に向かう少女を見つめた。
彼女は、まだ名前を持っていない。
それでも、確かにここにいる。
私はその姿を胸に刻みながら、静かに決意した。
誰かの願いを受け継ぐことと、誰かの人生を代わりに生きることは違う。
だから私は、私自身の意思で、この世界の未来を選ぶ。
神々が決めた未来でも、エリシアが望んだ未来でもない。
私たちが、自分で選ぶ未来を。
第64話・終
次回、第65話「第三の約束を継ぐ者」
名前を選ぶ権利を取り戻した少女。一方、リリアには第三の約束を継承するかどうかという決断が迫る。約束を受け継げば、世界を救う道が開かれるかもしれない。しかし、その代償としてリリア自身の未来まで決められてしまう可能性があった。彼女は、誰のためでもなく、自分の意思で答えを選べるのか。
少女はしばらく私を見つめていた。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
『……そっか』
その顔に、ほんの少しだけ安心したような表情が浮かぶ。
私は、その変化を見逃さなかった。
彼女は、誰かに許されるために生きるのではない。
私と仲良くなるためだけに生きるのでもない。
彼女自身の人生を、彼女の意思で選んでいくのだ。
そして私は、その選択を見届けたいと思った。
*




