第63話 観測者が犯した罪
第63話 観測者が犯した罪
《原初の観測者――罪の記録》
《閲覧条件:失われた子の名を知る者》
保管庫の壁に浮かび上がった文字を、私は何度も読み返した。
失われた子の名前を知る者。
けれど、その名前は世界から消されている。
記録を残した本人である観測者でさえ、今は世界の外にいる。
「……どうすれば、名前を知ることができるの?」
私の問いに、箱の底で白い花がかすかに揺れた。
アステリアは、苦しそうに目を伏せている。
「名前を復元するには、あの子が最後に交わした約束を理解しなければならない。けれど、第三の約束の記録は、あの子が消えた瞬間に途切れてしまったの」
「つまり、約束の続きがわからない限り、名前も戻らない?」
「そうよ」
私は拳を握った。
また、行き止まりなのだろうか。
そのとき、セフィルが箱の縁に指を触れた。
「いいえ。ひとつだけ、方法があるかもしれません」
「何?」
「記録を読むのではなく、記録が残された理由を探るのです」
セフィルは、白い花を見つめた。
「観測者は、あの子の存在が消されるとわかっていて、記録を残した。ならば、彼はいつか誰かがこの場所に辿り着くことを望んでいたはずです」
「そして、その誰かに真実を託したかった……?」
「おそらく」
私は箱に手を置いた。
「だったら、聞かせて。あなたが残したかった真実を」
白い花が光った。
次の瞬間、保管庫の壁が消えた。
私たちは、世界が生まれる前の灰色の空間に立っていた。
そこには、三人の子供がいた。
エリシア。
観測者。
そして、名前を失った少女。
先ほど見た記憶の続きだった。
*
少女が消えたあと、エリシアは長い間、動かなかった。
彼女の手には、少女が残した白い花が握られている。
『……返して』
エリシアが、かすれた声で言った。
『あの子を返して』
返事をする者はいない。
世界はまだ存在しない。
空も、大地も、時間さえもない。
それなのに、ひとつの命だけが失われた。
観測者は、膝をついていた。
何度も手を伸ばし、消えた少女の痕跡を探している。
『駄目だ……何も残っていない』
『あなたは観測者でしょう?』
エリシアが顔を上げた。
『すべてを見ることができるんでしょう? だったら、あの子を見つけて!』
観測者は唇をかみしめた。
『僕に見えるものは、もう何もないんだ』
『嘘よ!』
『エリシア……』
『あなたが見つけられないなら、私が見つける! 世界を創って、時間を生み出して、どこまでも探しに行く!』
彼女の瞳に、強い光が宿った。
それは、後に世界を創造する力の始まりだった。
けれど、その光の奥には、深い絶望があった。
『たとえ、世界のすべてを犠牲にしても……』
「待って!」
私は思わず声を上げた。
記憶の中のエリシアが、ぴたりと動きを止めた。
もちろん、彼女に私の声が聞こえるはずはない。
それでも私は、叫ばずにはいられなかった。
「そんなことをしたら、あの子が望んだ世界まで失われてしまう!」
その瞬間、観測者がこちらを向いた。
灰色の瞳が、私を見つめる。
記憶の中の人物が、私の存在に気づいたのだ。
『……君は』
観測者の声が響いた。
『そうか。君が、ここまで来たんだね』
アレンが私の前に立った。
「リリア、下がれ。記憶の中とはいえ、何が起きるかわからない」
「大丈夫。彼は私に話しかけている」
観測者は、少しだけ悲しそうに笑った。
『君は、僕の罪を知りに来たんだろう?』
「うん」
『なら、見届けてほしい。僕が何を選び、何を失ったのかを』
彼が手を上げると、灰色の空間に黒い亀裂が生じた。
少女を消したものと同じ、世界の外から伸びてきた力。
その亀裂の向こうから、無数の声が響いてきた。
『未登録の存在を回収する』
『不整合を修正する』
『消失した個体に関する記録を削除する』
観測者の顔から、表情が消えた。
『やはり、君たちは彼女を消しただけではないんだね』
彼は亀裂に向かって問いかけた。
『なぜ、あの子を消した?』
答えはなかった。
『彼女は世界を壊そうとしたわけでも、誰かの自由を奪ったわけでもない。ただ、僕たちと一緒に未来を考えようとしただけだ』
黒い亀裂が、さらに広がった。
『存在そのものが不整合である』
無機質な声が返ってくる。
『未確定の意思は、創造される世界に不要である』
私は息をのんだ。
未確定の意思。
つまり、誰かの決めた役割に従わず、自分で未来を選ぼうとする存在が、排除されていたということなのか。
観測者が静かに目を閉じた。
『……そうか』
彼は、初めて怒りをあらわにした。
『君たちは、世界を創る前から、世界の未来を決めていたんだ』
その手に、銀色の光が集まる。
『ならば、僕はその決定を拒否する』
観測者は、消えた少女が立っていた場所に向かって手を伸ばした。
何もない空間から、小さな光がひとつ浮かび上がる。
少女の声の残響。
彼女が最後に抱いた願い。
そして、消される直前まで握りしめていた、誰かを信じる心。
観測者は、それを両手で包み込んだ。
『君の存在を、なかったことにはさせない』
黒い亀裂が激しく震えた。
『禁じられた記録への干渉を確認』
『観測者の権限を停止する』
『対象を世界外へ移送する』
「……っ!」
ミラが息をのんだ。
黒い糸が観測者の腕に絡みつく。
彼は抵抗しなかった。
ただ、両手の中の小さな光だけは、決して離さなかった。
『君たちが僕を追い出すなら、それでもいい』
観測者は、亀裂の向こうを見つめた。
『でも、この子の願いだけは、僕が守る』
その瞬間、エリシアが駆け寄った。
『待って! あなたまでいなくならないで!』
観測者は振り返った。
その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
『エリシア。世界を創るんだ』
『嫌よ!』
『あの子が望んだ未来を、君自身の手で選ぶんだ』
『そんなの……あなたがいなければ、意味がない!』
『意味があるかどうかも、君が決めていい』
観測者は、少しだけ目を細めた。
『ただし、ひとつだけ約束してほしい』
エリシアは、涙をこらえながら彼を見た。
『……何?』
『僕を取り戻すために、君自身の選択を失わないで』
エリシアの唇が震えた。
『もし、いつか僕を取り戻したいという願いが、世界を壊すほど大きくなってしまったら……』
観測者は、最後に告げた。
『そのときは、誰かに君を止めてもらってほしい。君の意志を奪うためじゃない。君が、本当に望む未来を選べるようにするために』
そして、彼は世界の外へ消えた。
エリシアの叫びが、何もない空間に響き渡る。
彼女の手には、白い花だけが残されていた。
*
記憶が終わった。
私たちは再び、約束の保管庫に立っていた。
誰も口を開かなかった。
観測者が世界の外へ去った理由。
それは、単に神々に反逆したからではなかった。
彼は、世界から消された少女の存在を守ろうとした。
少女の願いを、誰にも奪わせないために。
「……それが、あなたの罪なの?」
私の問いに、観測者の声が答えた。
『そうだよ』
「でも、あなたは何も悪いことをしていない。あの子を守ろうとしただけでしょう?」
『結果として、僕はエリシアをひとり残した。彼女が世界を創ると決めたとき、そばにいることができなかった』
「それは、あなたのせいじゃない!」
『そう思ってくれるんだね』
観測者は、静かに笑った。
『でも、僕はあのとき、ひとつだけ選ばなかったことがある』
「選ばなかったこと?」
『あの子の願いを守ることだけに集中して、エリシアに別れを告げる時間さえ、自分から捨ててしまったんだ』
私は息を止めた。
『僕は、彼女を悲しませたくなかった。だから、最後まで大丈夫だと伝えた。でも、本当は……怖かったんだ』
初めて聞く、観測者の弱音だった。
『エリシアに、僕を追いかけてきてほしくなかった。彼女には世界を創ってほしかった。だから、僕自身の恐れを隠して、彼女のためになると思う選択をした』
「……それは」
私は言葉を探した。
彼はエリシアの意思を奪おうとしたわけではない。
けれど、彼女が何を選ぶかを恐れ、別れ方を自分ひとりで決めてしまった。
それもまた、選択を奪うことだったのかもしれない。
『僕は、あの子を守るために世界の外へ行った。そして、エリシアを守るために、本当の気持ちを伝えなかった』
声が、かすかに震えた。
『どちらも、僕自身が選んだことだ。だから、その結果から逃げるつもりはない』
私は目を閉じた。
完璧な人なんて、いない。
神々を超える力を持つ者でも、世界を観測する者でも、誰かを大切に思うあまり、間違った選択をしてしまうことがある。
それでも。
「あなたは、まだ選べるよ」
『……何を?』
「もう一度、エリシアと向き合うこと。自分の気持ちを伝えること。そして、帰ってくるかどうかも、自分で決めること」
長い沈黙があった。
やがて、観測者は小さく答えた。
『……ありがとう、リリア』
そのとき、白い花が強く輝いた。
箱の底に、新しい文字が浮かび上がる。
《原初の観測者――罪の記録、開示完了》
《第三の約束――本来の意味を確認》
《約束の内容:失われた者の意思を、残された者が勝手に決めてはならない》
私は、その文字をじっと見つめた。
失われた者の意思を、勝手に決めてはならない。
それは、エリシアが観測者を取り戻そうとすることを禁じる約束ではない。
ただ、彼が何を望んでいるのかを知らないまま、彼を取り戻すことだけを正しいと決めつけてはいけないのだ。
そして、名前を失った少女についても同じだった。
彼女が誰かの代わりになることを望んでいるのか。
誰かを救うために消えることを望んでいるのか。
それを、彼女自身が選ぶ前に決めてはならない。
「……アステリア」
私は振り返った。
「第三の約束は、誰かを犠牲にするためのものじゃなかったんだね」
「ええ」
アステリアは涙を浮かべながらうなずいた。
「私たちは、いつの間にか約束を守ることばかり考えて、その意味を忘れてしまったの」
「なら、今からでも取り戻せる」
私は箱の中の白い花を手に取った。
花弁の中央に、小さな光が灯っている。
そこから、かすかな声が聞こえた。
『……わたし、まだ……』
名前を失った少女の声だった。
『まだ、消えたくない』
私は花を胸元に抱いた。
「消えなくていいよ」
涙が頬を伝う。
「誰かの代わりにならなくてもいい。誰かを救うために生まれたんだとしても、あなたの人生まで誰かに決めさせたりしない」
花が震えた。
その光は、少しだけ強くなった。
そして、保管庫の壁に最後の記録が浮かび上がる。
《第三の約束――継承候補者、再評価》
《未登録の魂:継承資格あり》
《未完の魂:選択権、維持》
《消失した子の記録:復元率、一パーセント》
たった一パーセント。
それでも、ゼロではなくなった。
しかし、その直後。
保管庫全体が激しく揺れた。
天井に亀裂が走り、黒い糸が一斉に降り注いでくる。
『不正な記録復元を検知』
『第三の約束の再構築を中止する』
『対象の魂を回収する』
黒い糸が、私の手の中の白い花に向かって伸びた。
「させない!」
私は創世の理を解放した。
白い光が広がり、黒い糸を押し返す。
けれど、今回は違った。
糸は私の力に抵抗するのではなく、私の力そのものを利用しようとしていた。
創世の理が、私の意思から離れかける。
「リリア!」
アレンが私の肩を支えた。
鼻の奥に、熱いものが流れる感覚がした。
それでも、私は手を離さなかった。
ここで花を失えば、またあの子の存在は消されてしまう。
そのとき、花の中から声が響いた。
『リリア……わたし、自分で決めたい』
「……うん」
『でも、まだ……何を選べばいいのか、わからないの』
「わからなくてもいいよ」
私は、震える声で答えた。
「今すぐ決めなくてもいい。迷ってもいい。間違えてもいい。あなたの時間は、あなたのものだから」
白い花が、まばゆい光を放った。
黒い糸が弾き飛ばされ、保管庫の奥に新しい扉が現れる。
扉には、今までとは違う文字が刻まれていた。
《消失した子――最後の選択》
そして、その下に小さな一文が浮かび上がる。
《記録の復元には、本人の意思による呼びかけが必要です》
私は扉を見つめた。
あの子の名前を取り戻すには、彼女自身の意思が必要なのだ。
誰かが名前を決めることはできない。
誰かが、彼女の代わりに未来を選ぶこともできない。
だからこそ、私は彼女が自分で選べるようになるまで、ここにいる。
残り時間は、十六時間。
世界の外から伸びる黒い糸は、まだ止まっていない。
そして、あの扉の向こうには、観測者でさえ語りきれなかった最後の真実が待っている。
私は白い花を握りしめ、一歩前へ進んだ。
「行こう。あの子が、自分の名前を選べる未来を取り戻すために」
第63話・終
次回、第64話「名を呼ぶ資格」
消失した少女の記録を復元するため、リリアたちは最後の扉へ向かう。しかし、そこに記されていたのは、名前を取り戻すための条件だけではなかった。誰かに名前を与えることと、誰かの存在を認めること。その違いを突きつけられたリリアは、ある決断を迫られる。




