第62話 世界が生まれる前に失われた子
第62話 世界が生まれる前に失われた子
《第三の約束の本来の継承者――消失済み》
黒い花弁に刻まれた文字を見た瞬間、アステリアの顔から血の気が引いた。
「……どうして、これが残っているの」
彼女の声は、今まで聞いたどんな声よりも弱かった。
怒りでも、悲しみでもない。
ずっと胸の奥に封じ込めてきたものが、ようやく出口を見つけたような声だった。
私は花弁から目を離さずに尋ねた。
「アステリア。その子は誰なの?」
返事はなかった。
銀髪のレオンが一歩前に出る。
「知っているんだな。世界が生まれる前に失われた子を」
「ええ……知っているわ」
アステリアは目を伏せた。
「でも、私が話せば、それは私の記憶を通した真実になる。あの子が何を望み、何を恐れ、最後に何を選んだのか。それを私の言葉だけで決めてしまうことはできない」
「なら、どうすれば知ることができるの?」
私が問いかけると、保管庫の奥で小さな音が鳴った。
ちりん。
まるで、遠い場所で鈴が揺れたような音だった。
それと同時に、三つの約束が刻まれた水晶の下から、見覚えのない小さな箱が浮かび上がった。
箱には鍵穴がない。
蓋の中央に、白い花が一輪だけ描かれていた。
そして、その花の下には、たった一行の文字が刻まれている。
《名を失った子の記憶》
「……あの子の記憶なの?」
セフィルが小さく息をのんだ。
「おそらく。けれど、これは第三の約束の保管庫にあるべき記録ではない」
「どういうこと?」
「約束は、交わした者の意思によって残される。だが、これは違う。誰かが、忘れられた者のために残したものだ」
私はそっと箱に手を伸ばした。
触れる直前、アステリアが私の手首をつかんだ。
「リリア、待って」
彼女の指は震えていた。
「その記憶を見れば、あなたは知ることになる。エリシアが世界を創る前に何を失ったのか。そして、なぜ彼女が世界を創ると決めたのかも」
「それを知ってはいけない理由があるの?」
「あるわ」
アステリアは、私の目をまっすぐ見つめた。
「あなたが、エリシアと同じ選択をしてしまうかもしれないから」
私はしばらく彼女を見つめ返した。
エリシアの記憶に触れるたび、私は彼女の悲しみを知ってきた。
誰かを失った痛み。
取り戻したいと願う心。
そして、愛する者を救うためなら、世界さえ変えてしまいたいという衝動。
けれど、私はエリシアではない。
彼女と同じ痛みを知ったとしても、同じ答えを選ぶとは限らない。
「それでも、知りたい」
私はアステリアの手に、自分の手を重ねた。
「知らないまま誰かの選択を決めることは、したくないから」
アステリアは目を閉じた。
やがて、ゆっくりと私の手を離した。
「……そうね。あなたは、そういう子だったわ」
箱が開いた。
中からあふれ出したのは、光ではなかった。
夜明け前の空のような、淡い灰色の霧だった。
霧の向こうに、ひとつの場所が浮かび上がる。
世界が生まれる前。
空も大地も、時間さえも存在しなかった場所。
そこには、三人の子供がいた。
ひとりは、黒髪に青い瞳を持つ少女。
エリシアだった。
もうひとりは、銀髪に紫の瞳を持つ少年。
原初の観測者。
そして、最後のひとりは――。
「……女の子?」
ミラが思わずつぶやいた。
その子は、二人よりも少し幼く見えた。
髪は淡い金色。
瞳は、朝焼けのような薄い橙色。
白い花を模した飾りを胸につけ、エリシアの手を握っている。
その表情には、何の恐れもなかった。
まるで、世界のすべてが自分を受け入れてくれると信じているような、無邪気な笑顔だった。
『ねえ、エリシア』
少女が言った。
『世界って、どんなところになるの?』
『まだ決めていないわ』
幼いエリシアが答える。
『空があって、花が咲いて、いろんな人が生まれる場所にしたいと思っているの』
『じゃあ、悲しいこともある?』
その問いに、エリシアは少しだけ黙った。
『……あると思う』
『そっか』
少女はうなずいた。
そして、握っていた手に、きゅっと力を込めた。
『でも、悲しいことがあっても、みんなが自分で決められる世界がいいな』
私は息を止めた。
その言葉は、まるで今の私が胸に抱いている願いと同じだった。
『誰かが悲しいからって、その人の代わりに全部決めちゃったら、きっともっと悲しくなるもの』
少女は笑った。
『だから、エリシアが世界を創るなら、みんなに選ばせてあげてね』
エリシアは、何度もうなずいた。
『約束する』
その隣で、観測者も静かに微笑んでいた。
『僕も約束する。誰かが自分の選択を失いそうになったら、その声を聞く』
『じゃあ、わたしも!』
少女が元気よく手を挙げた。
『二人が迷ったら、わたしが一緒に考える!』
その瞬間、三人の足元に、三つの小さな光が灯った。
世界がまだ存在しない場所で、最初の約束が生まれたのだ。
けれど。
記憶の景色が、突然揺らいだ。
遠くから、黒い亀裂が走ってくる。
少女の笑顔が消えた。
『……あれ?』
彼女が自分の胸を押さえる。
『なんだか、寒い』
「何が起きているの……?」
ミラが私の腕を握った。
アレンは剣の柄に手をかけていた。記憶の中の出来事だとわかっていても、目の前の異変に備えているのだ。
亀裂は広がっていく。
少女の輪郭が、少しずつ薄れていった。
『エリシア……?』
少女が不安そうに手を伸ばす。
エリシアは、その手をつかもうとした。
しかし、指先が触れる直前、見えない壁が二人の間に生まれた。
『待って!』
幼いエリシアが叫ぶ。
『どうして? どうして、あの子が消えていくの!?』
観測者は、少女を覆う亀裂に手を伸ばした。
だが、彼の指先も弾かれた。
『これは……世界の外から来ている』
彼の表情が変わった。
『まだ世界が生まれていないのに、世界の外があるはずがない!』
その言葉を聞いた瞬間、私は背筋が凍るのを感じた。
世界の外。
それは、今も私たちを脅かしている黒い糸の力と、同じものなのだろうか。
少女は、泣きそうな顔で二人を見た。
『ごめんね……』
『謝らないで!』
エリシアが叫んだ。
『あなたは何も悪くない!』
『でも、わたし……』
少女の身体が、さらに薄くなる。
『二人と約束したのに……一緒に考えるって、言ったのに……』
エリシアは、壁を何度も叩いた。
観測者も、ありとあらゆる法則を変えようとした。
けれど、二人の力は少女に届かなかった。
最後に少女は、胸元の白い花を外した。
それをエリシアに向かって差し出す。
『これ、持っていて』
『いや……いやよ!』
『エリシア』
少女は、泣きながらも笑おうとした。
『わたしがいなくなっても、世界を創るのをやめないで』
エリシアの瞳から、涙がこぼれた。
『そんな約束、できない……!』
『じゃあ……』
少女は、最後の力を振り絞るように言った。
『いつか、誰かがわたしの代わりに選べるようにして』
その言葉を残し、少女の姿は消えた。
残されたのは、白い花だけ。
そして、誰にも届かなかったエリシアの叫びだった。
記憶が途切れる。
私は、気づけば頬を濡らしていた。
あの子は誰だったのだろう。
なぜ、世界が生まれる前に消えなければならなかったのだろう。
そして――。
「……アステリア」
私は振り返った。
彼女は、うつむいたまま動かなかった。
「あなたは、あの子のことを知っていたのね」
「ええ」
かすれた声が返ってきた。
「私は、あの子が消えたあとに生まれた記録を管理していた。だから、あの子の存在が消えていく過程も、エリシアが何を失ったのかも、知っていた」
「なら、どうして名前を教えてくれないの?」
「……名前が、残っていないのよ」
私は言葉を失った。
「存在だけではない。あの子が持っていた名前も、記憶も、世界の記録から消されている。私が知っているのは、あの子がエリシアにとって大切な存在だったということだけ」
「そんなことができるのか?」
レオンが低く問いかけた。
アステリアは、ゆっくりとうなずいた。
「世界の法則が生まれる前なら、可能だったのかもしれない。でも、誰が何のためにあの子を消したのか……それだけは、私にもわからない」
セフィルが、箱の底を見つめた。
「待ってください。記録が完全に消されているのなら、どうしてこの箱だけが残っているのでしょう?」
その問いに、私ははっとした。
箱の底には、もうひとつ小さな文字が浮かび上がっていた。
《記録保存者――原初の観測者》
観測者が、残したのだ。
誰も覚えていられなくなった少女を。
世界そのものから存在を消されても、いつか誰かが彼女を知ることができるように。
そのとき、保管庫全体が大きく震えた。
黒い糸が壁を突き破り、三つの約束が刻まれた水晶へと伸びていく。
《第三の約束――強制継承処理、再開》
「まずい!」
アレンが私をかばうように前へ出た。
しかし、黒い糸は彼を避け、まっすぐ私の胸元へと向かってくる。
頭の中に、あの声が響いた。
『本来の継承者は消失した』
『代替者を確保する』
『未登録の魂を、第三の約束へ接続する』
身体が動かなくなった。
創世の理が、私の意思とは無関係に反応している。
世界そのものが、私を誰かの代わりにしようとしている。
――また、誰かの役割を押しつけられるの?
私は歯を食いしばった。
違う。
あの子の願いは、誰かに代わりを強いることではなかったはずだ。
みんなが自分で選べる世界。
それこそが、あの子が望んだ未来だった。
「私は……代わりにならない」
胸の奥が焼けるように痛んだ。
「でも、あの子の願いを受け継ぐかどうかは、私が決める!」
創世の理が、白い花の形をした光を生み出した。
黒い糸が一瞬だけ止まる。
そして、今まで誰も反応しなかった箱の底に、新たな文字が刻まれた。
《消失した子の記録――再接続を確認》
《名前の復元条件:第三の約束の真意》
私は、息をのんだ。
あの子の名前は、まだ失われたままだ。
けれど、名前を取り戻すための道が、初めて開いたのだ。
その直後、保管庫の奥から、聞き覚えのある声がした。
『……そこまで辿り着いたんだね』
銀髪に紫の瞳を持つ、原初の観測者の声。
しかし、いつもの静かな響きとは違っていた。
まるで、ずっと言えなかった後悔を抱えているような声だった。
『リリア。君が知るべきことは、まだある』
私は暗闇を見つめた。
『あの子が消えたとき、僕は……彼女を救うために、ひとつの選択をした』
声が途切れる。
そして、最後に告げられた言葉は、私の心を凍りつかせた。
『その選択こそが、僕が世界の外へ追放された本当の理由なんだ』
保管庫の壁に、新しい記録が浮かび上がった。
《原初の観測者――罪の記録》
《閲覧条件:失われた子の名を知る者》
その下には、残り時間が表示されていた。
十七時間。
世界が壊れるまでの時間は、確実に短くなっている。
それでも私は、目をそらさなかった。
あの子が何者だったのか。
観測者が何を選んだのか。
そして、誰が彼女の存在を消したのか。
すべてを知るまで、私は進む。
たとえその真実が、神々の歴史を根底から覆すものだったとしても。
第62話・終
次回、第63話「観測者が犯した罪」
世界が生まれる前、観測者は何を選んだのか。そして、彼が守ろうとした少女を失ったあと、なぜ自ら世界の外へ去ることになったのか。リリアは、封じられた罪の記録へと手を伸ばす。




