第61話 約束の保管庫
第61話 約束の保管庫
『開けないで』
扉の向こうから聞こえた観測者の声は、今までになく切実だった。
『リリア。君が真実を知れば、もう以前と同じようには戻れない』
リリアは、銀色の鍵を握りしめた。
目の前には、二つの名前が刻まれた扉がある。
一つは、創造主エリシア。
もう一つは、黒く塗りつぶされた名前。
そして、その扉の向こうには、観測者が隠し続けた罪が眠っている。
「……戻れなくなることが、そんなに怖いんですか?」
リリアは、扉に向かって問いかけた。
『怖いのは、君が真実を知ることではない』
「では、何が怖いんですか?」
返事はなかった。
リリアは、静かに目を閉じた。
以前の自分なら、ここで引き下がっていたかもしれない。
誰かが隠しているのなら、知らないほうがいい。
真実を知って嫌われるくらいなら、何も聞かないほうがいい。
そう考えて、自分の気持ちを押し殺していた。
けれど、今は違う。
知らないまま誰かを救おうとすれば、知らず知らずのうちに、その人の意思を踏みにじってしまうかもしれない。
それなら、怖くても知りたい。
そのうえで、自分がどうするかを選びたい。
「私は、あなたの罪を知ったからといって、すぐにあなたを責めるつもりはありません」
リリアは言った。
「でも、あなたが何をしたのかを知らないまま、あなたを許すこともできません」
扉の向こうで、微かな気配が揺れた。
「それに、私はあなたを連れ戻すと約束したわけではありません。あなたが何を望んでいるのか、まだ聞いていないからです」
『……君は、本当にエリシアとは違うんだね』
観測者の声に、かすかな笑みが混じった。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
『だからこそ、私は君に知られたくなかった』
「どうして?」
『君まで、彼女と同じ痛みを背負う必要はないからだ』
リリアは、ゆっくりと首を振った。
「私が何を背負うかは、私が決めます」
そして、鍵を扉の鍵穴へ差し込んだ。
銀色の光が走った。
扉に刻まれた二つの名前が、一瞬だけ輝く。
次の瞬間、黒く塗りつぶされていた文字が、わずかに形を変えた。
だが、名前を読み取ることはできない。
扉は、静かに開き始めた。
*
約束の保管庫は、想像していたよりも小さな場所だった。
円形の部屋。
壁一面に並ぶ、透明な結晶。
その一つひとつに、白い花びらが封じられている。
結晶の下には、短い文章が刻まれていた。
誰かと交わした約束。
果たせなかった約束。
そして、果たされることのなかった願い。
「……ここにあるものは、すべてエリシアの記憶なの?」
ミラが尋ねた。
「いいえ」
答えたのはアステリアだった。
「約束そのものが保管されているのよ。言葉だけではない。交わした者たちの意思と、約束が結ばれた瞬間の記憶も」
彼女は壁の結晶を見つめた。
「世界が生まれる前、約束には今よりも強い力があった。名前も、契約も、役割も、まだ決められていなかったから。誰かと交わした言葉だけが、その人と他者を結びつけるものだったの」
「それなら、どうしてこんな場所に隠したんですか?」
リリアが尋ねる。
アステリアは、視線を落とした。
「約束は、人を縛ることもできるからよ」
静かな声だった。
「守りたいと思って交わした約束が、いつの間にか相手を縛る鎖になることがある。誰かを救うための誓いが、その人の選択を奪うこともある」
セフィルが、壁に刻まれた記録を読み取った。
「この保管庫には、契約によって強制される約束と、本人の意思によって結ばれた約束を区別する仕組みがあるようです」
「どう違うの?」
ミラが尋ねた。
「前者は、破れば罰が与えられる。後者は、破ったとしても、その人の意思そのものが否定されることはありません」
セフィルは、わずかに微笑んだ。
「かつての私には、その違いがわかりませんでした」
彼は自分の手を見つめた。
「命令を守ることと、約束を守ることを同じだと思っていた。けれど、本当は違った。命令は、従うことを求める。約束は、守りたいと思う気持ちがあって初めて意味を持つ」
リリアはうなずいた。
「……私も、そう思う」
そのとき、部屋の中央に、一つの結晶が浮かび上がった。
ほかのものとは違い、その結晶には白い花びらが三枚封じられていた。
花びらの下には、三つの名前が刻まれている。
エリシア。
原初の観測者。
そして、読めない名前。
リリアが近づくと、結晶が淡く光った。
《三者間の約束――記録保管》
《第一の約束:世界を創ること》
《第二の約束:選択を奪わないこと》
《第三の約束:誰かを失ったとき、残された者の意思を守ること》
リリアは、その文字を見つめた。
「……三者間?」
アステリアの顔が強張った。
「そんなはずは……」
「アステリア?」
「エリシアと観測者の約束なら、知っている。でも、三人目がいたなんて、私は聞かされていない」
「記憶が封じられている可能性は?」
アレンが尋ねた。
「あるわ。でも、それだけではない気がする」
アステリアは結晶へ近づいた。
「この記録は、私が知っている約束よりも古い。世界が創られる前……それどころか、エリシアが創造主としての力を得る前から存在していた可能性がある」
セフィルが、結晶の周囲を調べた。
「記録の保存者は、エリシアではありません」
「では、誰が?」
「……判別できません。ただ、記録の構造が、現在の世界の法則とは異なっています」
リリアの胸の奥で、《創世の理》がかすかに反応した。
それは、エリシアの記憶に触れたときとは違う感覚だった。
懐かしさではない。
恐怖でもない。
もっと深い場所から、自分自身に関係するものだと告げられているような感覚。
「この三つの約束が、今の私たちにつながっているんだと思う」
リリアが言った。
「でも、三つ目の約束は……誰を守るためのものだったんだろう」
その瞬間、結晶が震えた。
中に封じられた白い花びらが、一枚だけ外へ飛び出す。
花びらはリリアの目の前で光となり、映像を映し出した。
*
世界が生まれる前の、白い庭。
エリシアが、膝を抱えて座っていた。
その隣には、銀髪の少年がいる。
少し離れた場所に、もう一人の人物が立っていた。
顔は見えない。
ただ、黒い髪と、金色の瞳だけがわかった。
アステリアが息をのんだ。
「……私?」
映像の人物は、確かにアステリアによく似ていた。
けれど、今よりも幼く、まだ創造者としての力を持っていないように見える。
『私、世界を創りたい』
エリシアが言った。
『誰もが、自分で生き方を選べる世界を』
少年は微笑んだ。
『君なら、きっとできる』
『でも、怖いの』
エリシアは、膝に顔を埋めた。
『世界を創ったら、私は今までと同じではいられなくなる。誰かの願いを聞きながら、誰かの願いを叶えられないこともあるかもしれない』
『そうだね』
『それでも、創っていいのかな』
少年は、すぐには答えなかった。
やがて、彼はエリシアの前にしゃがみ込んだ。
『君が創りたいと思うなら、創ればいい。でも、世界を創ったからといって、君がすべての責任を一人で背負う必要はない』
エリシアは顔を上げた。
『……本当に?』
『本当だよ』
少年は、彼女の手を取った。
『君が間違えたら、私はそれを伝える。君が苦しんだら、私は話を聞く。君が誰かを失っても、君が自分自身を失わないように、私はそばにいる』
エリシアの瞳に、涙が浮かんだ。
『約束してくれる?』
『約束する』
少年は答えた。
そのとき、映像の中のアステリアが、二人へ歩み寄った。
『……私も、約束する』
幼いアステリアの声は、少し震えていた。
『エリシアが一人で全部を背負わなくていいように、私もそばにいる。もし、あなたが世界を創ることで誰かを失っても、あなたが一人にならないようにする』
エリシアは、驚いたようにアステリアを見た。
『ありがとう』
その言葉に、幼いアステリアは笑った。
けれど、その笑顔は、どこか寂しそうだった。
まるで、すでに何かを失うことを知っているかのように。
映像が切り替わった。
今度は、世界が創られた後の白い庭だった。
エリシアは、銀髪の少年と向かい合っていた。
『……約束を、覚えている?』
『もちろん』
少年は答えた。
『君が世界を創ったあとも、私は君のそばにいる』
『違うの』
エリシアは首を振った。
『その約束ではなくて……』
彼女は、震える手で少年の袖をつかんだ。
『私が、もしあなたを失ったら』
少年の表情が変わった。
『エリシア……』
『もし、あなたがいなくなって、私がその悲しみで世界を壊そうとしたら……そのときは、私を止めて』
『……わかった』
少年は答えた。
けれど、その瞳には深い悲しみが浮かんでいた。
『ただし、君を止めるために、君の意思を奪うことはしない』
エリシアは、静かにうなずいた。
『うん。それでいい』
映像の最後に、エリシアが少年の手を握った。
『あなたがいなくなっても、あなたが私に教えてくれたことだけは、忘れないようにする』
その言葉を聞いた瞬間、映像は黒く染まった。
そして、最後に一つの声が響いた。
『――それでも、私は約束を破った』
*
「……今の声は、誰?」
ミラが尋ねた。
リリアは答えられなかった。
声は、エリシアのものに似ていた。
けれど、最後の一言には、別の誰かの記憶が混ざっているようにも感じられた。
アステリアは、顔を覆っていた。
「……私は、あの約束を覚えている」
「三つ目の約束を?」
リリアが尋ねる。
「ええ。エリシアが一人で責任を背負わないように、私もそばにいると誓った」
アステリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、彼女が本当に苦しんでいたとき、私はそばにいなかった」
「どうして?」
「怖かったのよ」
アステリアの声は、震えていた。
「エリシアが世界を壊すかもしれないことが。彼女が観測者を取り戻すために、すべてを捨てるかもしれないことが。そして……彼女が私ではなく、彼を選ぶかもしれないことが」
リリアは、何も言わなかった。
アステリアは、続けた。
「私は彼女を救いたかった。でも、彼女が何を選ぶのかを見ることができなかった。だから、未来を封じた。彼女が間違った選択をする可能性を消せば、彼女を失わずに済むと思ったの」
「……でも、未来を封じても、悲しみは消えなかった」
「ええ。むしろ、彼女から選ぶ力を奪ったことで、私は彼女を追い詰めた」
アステリアは、結晶を見つめた。
「私は約束を守ろうとしながら、約束の意味を壊してしまった」
そのとき、結晶の表面に、新たな文字が浮かび上がった。
《第三の約束――未完》
《約束の継承者:未登録》
《継承条件:残された者の意思による選択》
セフィルが、息をのんだ。
「継承者が……未登録?」
「どういうこと?」
ミラが尋ねる。
「この約束は、まだ誰にも引き継がれていないということです」
セフィルは記録を見つめた。
「エリシアと観測者が交わした約束。そして、アステリアが交わした約束。そのどちらも、最後まで完了していない」
「なら、誰が引き継ぐの?」
リリアが尋ねた瞬間、結晶が強く輝いた。
文字が一度消え、別の記録が浮かび上がる。
《継承候補――リリア・エヴァンジェル》
《適合理由:創造主とは異なる魂》
《継承判定:保留》
「……私?」
リリアは、目を見開いた。
なぜ、自分なのか。
エリシアの記憶と力を受け継いでいるから?
それとも、エリシアとは違う魂を持っているから?
その答えを考える間もなく、結晶の奥から、黒い糸が伸びてきた。
糸は空中を走り、リリアの手首に巻きつこうとする。
「リリア!」
アレンが腕を伸ばした。
だが、その前にセフィルが銀色の光を放ち、黒い糸を弾き飛ばした。
「これは、契約の強制接続です!」
セフィルが叫ぶ。
「第三の約束を、リリアに無理やり継承させようとしている!」
黒い糸が、部屋の壁を覆い始めた。
結晶の一つひとつが黒く染まり、白い花びらが枯れていく。
そして、部屋の中央に、顔のない存在が現れた。
白い衣。
黒い糸。
その姿を見た瞬間、名を持たない少女が震えた。
「……あれは」
顔のない存在は、少女を見た。
『未完の魂。お前は、まだ役目を果たしていない』
「……私は、私の人生を生きたい」
少女は震えながらも、はっきりと答えた。
『お前に選択権はない』
「ある!」
少女の声が響いた。
「私は、まだ名前も決めていない。でも、だからといって、私に何も決める権利がないわけじゃない!」
黒い糸が、彼女へ向かって伸びた。
リリアは、すぐに少女の前へ立った。
「この子に触れないで!」
『ならば、お前が第三の約束を継承しろ』
顔のない存在の声が、保管庫全体を震わせた。
『創造主の過ちを正し、観測者を取り戻し、未完の魂を完成させよ。それが、お前に与えられた役割だ』
「……違う」
リリアは、黒い糸を見据えた。
「私は、誰かに与えられた役割のために生きているんじゃない」
『ならば、何を選ぶ?』
「私は――」
言葉が、喉につかえた。
観測者を救いたい。
名を持たない少女を救いたい。
エリシアの後悔も、アステリアの罪も、すべて理解したい。
けれど、そのために何を選ぶべきなのか、まだ答えは見つかっていなかった。
黒い糸が、リリアの足元へ広がる。
《創世の理》が反応し、身体の奥に激しい痛みが走った。
鼻先に、温かいものが伝う。
それでも、リリアは倒れなかった。
「……私は、まだ答えを持っていない」
リリアは、顔のない存在へ告げた。
「だから、今ここで約束を継承するとは言わない。あなたが望む答えを出すために、私の意思を差し出すつもりもない」
『時間は残されていない』
「それでも!」
リリアは、一歩前へ出た。
「時間がないことと、誰かに選択を奪われていいことは違う!」
その瞬間、銀色の鍵が強く輝いた。
結晶の中央に、三つの白い花が現れる。
そして、そのうちの一輪が、顔のない存在の前で静かに開いた。
花の中心から、幼い少女の声が聞こえた。
『……その子に、選ばせてあげて』
顔のない存在が、初めて動きを止めた。
アステリアが、震える声でつぶやいた。
「……エリシア?」
花の光が広がった。
その中に、一瞬だけ銀髪の少年の姿が映る。
彼は、こちらを見ていた。
紫色の瞳に、悲しみと、かすかな希望を宿して。
『約束は、誰かを縛るためにあるんじゃない』
少年の声が響いた。
『それを忘れたとき、私たちは……』
光が砕けた。
顔のない存在は、黒い糸を引き戻しながら、低く告げた。
『残り時間は十八時間。次に会うとき、お前たちは必ず選ぶことになる』
姿が消える。
保管庫には、再び静寂が戻った。
しかし、結晶の中央には、新しい記録が刻まれていた。
《第三の約束――継承判定を一時停止》
《理由:継承候補の意思、未確定》
リリアは、深く息を吐いた。
まだ、何も解決していない。
けれど、誰かの意思を無視して未来を決めることだけは、止められた。
その小さな一歩を、リリアは確かに感じていた。
名を持たない少女が、そっとリリアの袖をつかんだ。
「……ねえ」
「どうしたの?」
「私、少しだけ……わかった気がする」
少女は、白い花びらを見つめた。
「名前って、誰かが私を呼ぶためだけのものじゃないんだね」
「うん」
「私が、誰かを呼ぶためにもあるんだ」
リリアは、微笑んだ。
「そうだね」
少女は、初めて自分の意思で、花びらを手に取った。
「……私、いつか自分の名前を決めたら、あの人の名前も、自分の意思で呼びたい」
リリアは、彼女の隣に立った。
「その日まで、一緒に考えよう」
少女はうなずいた。
だが、そのとき。
保管庫の一番奥にある結晶が、音もなく割れた。
中から現れたのは、一枚の黒い花びら。
そこには、誰にも読めない文字とともに、短い文章が刻まれていた。
《第三の約束の本来の継承者――消失済み》
リリアの背筋に、冷たいものが走った。
継承者は、未登録なのではない。
かつて、存在していた。
そして、何者かによって、記録から消されたのだ。
アステリアが、震える声でつぶやいた。
「……そんな。まさか、あの子が……」
リリアは、彼女を見つめた。
「アステリア。誰のことを言っているの?」
アステリアは答えなかった。
ただ、黒い花びらを見つめ、唇を震わせていた。
そして、ようやく声を絞り出した。
「第三の約束を、本当に引き継ぐはずだったのは……」
彼女の瞳から、一筋の涙が落ちた。
「エリシアが、世界を創る前に失った……もう一人の子よ」
第六十一話・終
次回予告 第六十二話「世界が生まれる前に失われた子」
第三の約束を本来引き継ぐはずだった、もう一人の子。
その存在は、なぜ記録から消されたのか。
エリシアと観測者、そしてアステリアが交わした約束の奥に、まだ語られていない悲劇が眠っていた。
残された時間は十八時間。
リリアたちは、世界の始まりよりもさらに前に隠された記憶へと向かう。




