第60話 創造主が最後に呼んだ名前
第60話 創造主が最後に呼んだ名前
「――その文字を、読んではだめ!」
アステリアの叫びが、白い道に響き渡った。
リリアの指先には、一枚の白い花びらがあった。
その裏側に刻まれているのは、見たこともない文字。
けれど、不思議だった。
読めないはずなのに、リリアにはその文字が何を意味するのか、わかりかけていた。
まるで、ずっと昔から知っていた名前を、心の奥底で思い出しかけているように。
「アステリア。これは、誰の名前なの?」
リリアが尋ねると、アステリアは答えなかった。
ただ、花びらを見つめたまま、震えていた。
「……あなたは、知っているんでしょう?」
「知っているわ」
ようやく返ってきた声は、ひどくかすれていた。
「でも、思い出したくない」
「どうして?」
「その名前を思い出せば、私は……自分が何をしたのか、もう一度、認めなければならなくなるから」
アレンが一歩前へ出た。
「また、記憶を封じたのか?」
「違うわ。少なくとも、私が自分の意思で封じたものではない」
アステリアは首を振った。
「私の記憶にも、触れられない領域がある。あの名前に近づくたび、何かが私を拒むの」
「世界の外側にいる存在の仕業かもしれない、ということですか?」
セフィルの問いに、アステリアはうなずいた。
「可能性は高いわ。でも、それだけでは説明できない」
彼女は花びらから目を離し、リリアを見た。
「この名前は、観測者の名前ではない。エリシアが最後に呼んだのは、彼とは別の誰かだった」
「……別の誰か」
リリアは、花びらを握りしめた。
エリシアが取り戻そうとしていた人。
世界の外側にいる、銀髪の観測者。
そして、エリシアが最後に呼んだ、もう一つの名前。
すべてが同じ出来事から始まったのだとすれば、彼女はまだ、物語の一部しか知らない。
「その人は、今も生きているの?」
リリアの問いに、アステリアは答えられなかった。
その沈黙こそが、何よりも不穏だった。
*
「調べる方法はあるはずです」
セフィルは、花びらの周囲に銀色の魔法陣を展開した。
しかし、文字を読み取ろうとした瞬間、魔法陣が大きく揺らいだ。
「これは……」
銀色の光が黒く染まり、文字の輪郭が消えていく。
セフィルは即座に術式を解除した。
「無理に読み取ろうとすると、記録そのものが消去されます」
「記録を守るために隠されているのではなく、読ませないために存在しているのか」
レオンが低くつぶやいた。
「そう考えられます」
セフィルは花びらを見つめた。
「この文字は、単なる名前ではありません。名前に触れることそのものが、何らかの封印を刺激している」
「なら、読まなければいいんじゃない?」
ミラが慎重に言った。
「少なくとも、今は無理に読む必要はないわ。アステリアも危険だって言っているし」
「そうだな」
アレンもうなずいた。
「わからないものに、無防備に触れる必要はない」
リリアは花びらを見つめた。
知りたい。
けれど、知りたいからといって、何も考えずに扉を開いていいわけではない。
それは、これまで彼女が何度も学んできたことだった。
「……この花びらが、私たちに何かを伝えようとしている可能性は?」
「否定できないわ」
アステリアが答えた。
「でも、誰が伝えようとしているのかはわからない。エリシアなのか、観測者なのか。それとも、二人とは別の存在なのか」
その瞬間。
リリアの手の中で、花びらが淡く光った。
文字の周囲に、細い銀色の線が浮かび上がる。
線は空中へ伸び、一本の道を描いた。
その先に現れたのは、小さな扉だった。
巨大な観測者の扉とは違う。
白い花で飾られた、誰かの部屋の入口のような扉。
扉の中央には、文字が刻まれていた。
《エリシアの私室――記憶保管領域》
「エリシアの……部屋?」
リリアは息をのんだ。
世界を創ったエリシアに、私室があった。
そんなことは、当たり前なのかもしれない。
けれど、これまでの記憶の中で、エリシアはいつも創造主として描かれていた。
世界を作る者。
未来を選ぶ者。
誰かを失い、世界を壊しかけた者。
彼女が一人の少女として過ごした場所を、リリアは知らなかった。
「……行ってみたい」
そう告げたリリアに、アステリアが顔を上げた。
「待って。そこは、私も長い間、入ることができなかった場所よ」
「だからこそ、確かめたいんです」
「リリア……」
「エリシアの記憶を、全部知りたいわけじゃない。彼女の代わりになるためでもない」
リリアは、花びらをそっと胸元にしまった。
「ただ、彼女が何を大切にしていたのか、知りたいんです。創造主としてではなく、一人の人として」
アステリアは、しばらくリリアを見つめていた。
やがて、目を伏せる。
「……そうね。私たちは、あの子を創造主として扱いすぎたのかもしれない」
その声には、深い後悔が滲んでいた。
「彼女が何を望み、何を恐れ、誰を愛していたのか。私はそれを知っているつもりでいた。でも、本当に知ろうとしていたのかは……わからない」
アステリアは、扉へ歩み寄った。
「一緒に行きましょう。今度こそ、目を背けずに」
*
扉を開いた先には、静かな部屋が広がっていた。
白いカーテン。
小さな机。
窓辺に置かれた花瓶。
そこには、一輪の白い花が生けられていた。
豪華な調度品も、創造主を称える装飾もない。
ただ、誰かが毎日を過ごしていた痕跡があった。
「……普通の部屋だ」
ミラが小さくつぶやいた。
「そうね」
アステリアは、窓辺を見つめた。
「エリシアは、こういう場所が好きだった。誰にも見られず、何の役目も負わず、ただ一人で過ごせる場所が」
リリアは机に近づいた。
そこには、一冊の薄い本が置かれていた。
表紙には何も書かれていない。
ページを開くと、最初の一文が目に入った。
『今日は、名前のない子と花を見た』
リリアは、息を止めた。
続く文章は、短いものだった。
『あの子は、名前がないことを不思議に思っていた。でも、名前がないからといって、あの子がいないことにはならない。そう教えてくれたのは、彼だった』
ページの端に、小さな花の絵が描かれている。
『彼は、いつも私より先に、大切なことに気づく』
その下には、少し震えた文字で続きが書かれていた。
『だから、私は時々、彼が怖い』
「……怖い?」
リリアは思わず声に出した。
エリシアが、観測者を恐れていた?
アステリアも、驚いたようにページを見つめていた。
次のページには、こう記されていた。
『彼は、私が世界を作る前から、私の選択を見ていた。私が何を選んでも、彼はそれを否定しない。でも、私が間違えたとき、彼はきっと、私を止める』
『私は、それが怖い』
『彼にだけは、私の間違いを知られたくない』
リリアは、ページをめくる手を止めた。
それは、創造主の記録ではなかった。
誰かに嫌われることを恐れ、間違いを知られることを怖がる、一人の少女の言葉だった。
前世の自分を思い出した。
誰かに失望されたくなくて、本当の気持ちを隠していた自分。
間違いを認めたら、もう必要とされなくなるのではないかと怯えていた自分。
エリシアもまた、同じように恐れていたのだろうか。
「……私と、似ている」
リリアがつぶやくと、アレンが隣に立った。
「似ている部分があっても、同じ人間になる必要はない」
「うん。わかってる」
リリアは本を閉じなかった。
「だから、続きを読みたい」
*
次のページには、日付の代わりに白い花の絵が描かれていた。
『今日は、彼と喧嘩をした』
『私は、世界を作ると言った。彼は、世界を作ることと、誰かを救うことは同じではないと言った』
『私は怒った。彼に、何も知らないくせにと言ってしまった』
その下には、何度も書き直した跡があった。
『本当は、彼が何も知らないはずがないと、私はわかっていた』
『彼は、私が世界を作ることを止めなかった。ただ、私が何を犠牲にするつもりなのか、尋ねただけだった』
リリアの胸が、重くなった。
観測者は、エリシアの夢を否定したわけではない。
彼女が世界を作ることを止めたかったわけでもない。
ただ、その未来の中で何を失うことになるのか、彼女自身に考えてほしかったのだ。
次のページには、短い一文だけが書かれていた。
『私は、彼に約束した』
その先は、破り取られていた。
「……約束?」
リリアはページをめくった。
しかし、次のページも、その次のページも、同じ場所が破り取られている。
誰かが意図的に切り取ったようだった。
「これは、誰が……」
ミラが尋ねる。
アステリアは、青ざめた顔で首を振った。
「私ではないわ。私はこの部屋に入ることさえできなかった」
「では、エリシア自身が破ったのか?」
レオンの問いに、セフィルが本の綴じ目を調べた。
「破られた時期は特定できません。ただし、紙の繊維が通常の時間経過とは異なる状態になっています。記憶そのものが、ページの一部を失わせた可能性があります」
「記憶が、自分で消えた……?」
リリアは本を見つめた。
そのとき、最後のページに、小さな文字が浮かび上がった。
『もし、いつか私が彼を取り戻すために世界を壊そうとしたら』
リリアは、息を止めた。
『どうか、私を止めてほしい』
その文字の下には、別の筆跡があった。
『ただし、彼を諦めさせるためではない』
『私が、彼を失った悲しみだけで、彼の意思を塗りつぶそうとしたときに』
リリアは目を見開いた。
これは、エリシア自身が残した言葉だった。
彼女は、未来の自分が何をするか、恐れていた。
誰かを失った悲しみが、自分の大切にしていたものを壊してしまうことを。
だから、誰かに自分を止めてほしいと願った。
けれど、それは彼を取り戻すことを諦めさせるためではなかった。
彼の意思を無視して、彼を自分のもとへ連れ戻すことを止めてほしかったのだ。
「……エリシアは、最初からわかっていたんだ」
リリアの声が震えた。
「自分が間違える可能性も、誰かの意思を奪ってしまう可能性も……わかっていた」
「それでも、彼を失った悲しみに耐えられなかったのね」
アステリアが言った。
「知っていることと、そのときに正しく選べることは違う。私は、それを理解していたはずなのに……」
彼女は唇を噛んだ。
「私は、エリシアが間違えないように、未来そのものを封じてしまった」
「でも、それではエリシアが自分で選ぶ機会まで奪ってしまった」
リリアが告げると、アステリアはうなずいた。
「ええ。あなたの言うとおりよ」
彼女は逃げなかった。
自分の罪を、今度こそ言葉にした。
「私は、彼女を救いたいと思いながら、彼女を信じることができなかった」
その瞬間、部屋の窓辺に置かれた白い花が、淡い光を放った。
花弁が一枚、静かに開く。
その中央に、小さな銀色の鍵が現れた。
セフィルが近づき、慎重に鍵を調べる。
「これは……記憶保管領域の鍵ではありません」
「では、何の鍵なの?」
ミラが尋ねた。
セフィルは、花びらの裏側に刻まれた文字を読み取った。
「《約束の保管庫》……」
その言葉を聞いた瞬間、アステリアが顔を上げた。
「そんな場所が、まだ残っていたなんて」
「知っているんですか?」
「ええ。でも、そこに何が保管されているのかは知らない。エリシアが、誰にも見せないと決めた場所よ」
リリアは、銀色の鍵を見つめた。
エリシアが残した約束。
破り取られた日記のページ。
そして、観測者とは別に、最後に呼んだ名前。
それらは、まだ一本の線にはつながらない。
けれど、確実に同じ場所へ向かっていた。
そのとき、部屋の外から、低い警告音が響いた。
セフィルの記録が赤く染まる。
「世界外縁接続の期限が、さらに短縮されました!」
「どれくらい残っているの?」
ミラが叫ぶ。
「……残り、十九時間です」
空気が凍りついた。
残された時間は、二十時間を切っていた。
しかも、世界の外側にいる何者かが、記録の開示に反応している。
リリアは銀色の鍵を手に取った。
今すぐ約束の保管庫を開くべきなのか。
それとも、先に観測者本人の意思を確かめるべきなのか。
どちらを選んでも、何かが動き出す。
けれど、選ばなければ、残された時間だけが失われていく。
「……行こう」
リリアは顔を上げた。
「約束の保管庫へ」
アレンがうなずく。
「わかった。だが、危険を感じたらすぐに退く」
「うん」
セフィルは鍵を受け取り、空間に新たな道を開いた。
白い部屋の奥に、これまで見えなかった扉が現れる。
その扉には、二つの名前が刻まれていた。
一つは、エリシア。
もう一つは――黒く塗りつぶされ、読むことのできない名前。
扉の前に立ったリリアの耳元で、かすかな声がした。
『……約束を、覚えている?』
女性の声だった。
エリシアの声に似ている。
けれど、同じではない。
『あなたが、私にくれた約束を』
リリアが返事をする前に、扉の向こうから、もう一つの声が響いた。
『開けないで』
今度は、銀髪の観測者の声だった。
『その中にあるものは、君が知るべき真実であると同時に――』
声が途切れる。
そして、最後の一言だけが、はっきりと響いた。
『私が、彼女に隠し続けた罪でもある』
リリアは、鍵を握りしめた。
エリシアが隠した約束。
観測者が隠した罪。
そして、二つの名前が刻まれた扉。
その先にあるものは、いったい誰の未来を変えるのだろうか。
第六十話・終
次回予告 第六十一話「約束の保管庫」
エリシアが誰にも見せなかった、約束の保管庫。
そこには、彼女が観測者と交わした約束だけでなく、もう一人の誰かとの約束も眠っていた。
扉を開けることを拒む観測者。
真実を知ることを恐れるアステリア。
そして、まだ名前を持たない少女が選ぶ、次の一歩。
残された時間は十九時間。リリアたちは、ついに世界の始まりに隠された約束へと踏み込む。




