第59話 白い花の記憶
第59話 白い花の記憶
世界が生まれるよりも前。
そこには、まだ名前のない場所があった。
空も、大地も、時間さえも存在しない。
ただ、果てしない白の中に、一輪の花が咲いていた。
白い花弁の中央には、小さな銀色の光が宿っている。
その花のそばに、銀髪の少年が座っていた。
紫色の瞳は、何もない世界を静かに見つめている。
「ねえ」
少年の隣から、幼い少女の声がした。
「この花に、名前をつけてもいい?」
白い衣をまとった少女だった。
黒い髪。青い瞳。
今のリリアによく似た顔立ちをしている。
けれど、その少女の姿は、リリアが知る《未完の魂》とは少し違っていた。
彼女の瞳には、まだ何かを恐れる色がなかった。
ただ、世界のすべてを知りたいという好奇心と、誰かに認められたいという小さな願いがあった。
「もちろん」
少年は微笑んだ。
「君が名前をつけたなら、この花は君にとって特別なものになる」
「でも、名前をつけたら、私のものになっちゃうんじゃない?」
「名前をつけることと、所有することは違うよ」
少年は花に触れず、その隣に手を置いた。
「名前は、相手を自分のものにするためのものじゃない。その存在を、その存在として呼ぶためのものだ」
「……よくわからない」
「いつかわかるよ」
少年は笑った。
「君が、自分の名前を選ぶ日が来たらね」
少女は首をかしげた。
「私には、名前がないの?」
「今はね」
「じゃあ、どうしてあなたにはあるの?」
「私の名前は、誰かがつけてくれたものだから」
「誰が?」
少年は、答えなかった。
ただ、遠くを見つめた。
その視線の先に、一人の少女が立っていた。
銀色の髪。
白い衣。
そして、世界の始まりを見つめるような、深い瞳。
エリシアだった。
彼女は二人を見て、寂しそうに微笑んでいた。
その表情が、なぜかリリアの胸を締めつけた。
*
「――っ!」
リリアは目を開けた。
目の前には、白い道と巨大な扉。
そして、自分の手を握りしめている少女がいた。
「大丈夫?」
アレンが、すぐにリリアの肩を支えた。
「今、一瞬だけ……記憶が見えたの」
「エリシアの記憶か?」
「わからない。でも、あの子がいた。名を持たない少女が、銀髪の少年と一緒に……」
リリアは、少女を見た。
彼女は真っ青な顔で立ち尽くしていた。
「あなたも、見たの?」
リリアが尋ねると、少女はゆっくりとうなずいた。
「……うん」
「何を見たの?」
「花があった。白い花。それから……男の人がいた」
少女は、自分の胸に手を当てた。
「私、その人のことを知っている気がする。でも、思い出そうとすると、頭の中に黒い糸が絡まって……何も見えなくなる」
セフィルが、少女の前に歩み寄った。
「無理に思い出す必要はありません。記憶を封じるものがあるなら、そこには理由がある可能性もある」
「でも、知りたいの」
少女は、初めてセフィルの目をまっすぐ見た。
「私は、ずっと誰かのために生きるように作られたんでしょう? だったら、せめて……私が何を忘れているのかくらい、知りたい」
セフィルは一瞬、言葉を失った。
彼自身もまた、かつて誰かに与えられた役割に従い、自分の記憶を失った存在だった。
だからこそ、少女の言葉を軽く扱うことはできなかった。
「……わかりました」
セフィルは静かに答えた。
「ただし、あなたの意思を無視して記憶を開くことはしません。あなたが望む範囲で、一緒に調べます」
「ありがとう」
少女は、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、リリアは思った。
彼女はもう、ただの《未完の魂》ではない。
自分が何者なのかを知りたいと願い、何を選ぶかを考え始めた、一人の存在なのだ。
名前はまだない。
けれど、名前がないことと、存在しないことは違う。
「まずは、さっきの記憶を調べよう」
リリアは巨大な扉に目を向けた。
「記録には、あなたの最初の選択が、観測者の真実につながるって書いてあった」
「最初の選択……」
少女は、その言葉を繰り返した。
「名前を選ぶことじゃないの?」
「それも一つの選択だと思う。でも、記録はそれだけとは言っていない」
リリアは、扉の中央に刻まれた文字を見つめた。
《未完の魂による、最初の選択》
名前を選ぶこと。
誰かの記憶を受け入れること。
あるいは、誰かの願いを拒むこと。
どれが最初なのかは、まだわからない。
「……もしかしたら」
アステリアが、慎重に口を開いた。
「最初の選択とは、誰かに与えられた役割を受け入れるかどうか、ということなのかもしれない」
「役割を……」
「ええ。あの子は長い間、エリシアの魂を完成させるための存在として扱われてきた。けれど、もし彼女がその役割を拒んだなら――」
「記録そのものが、変わる可能性がある?」
リリアが尋ねた。
アステリアはうなずいた。
「そう考えるのが自然でしょうね」
その瞬間、扉の表面に文字が浮かび上がった。
《第一記録――白い花の庭》
《閲覧者:未完の魂》
《記憶の開示には、本人の同意が必要です》
少女は息をのんだ。
目の前に、自分の意思を尋ねる記録がある。
これまで彼女が見てきた記録には、命令や条件ばかりが刻まれていた。
けれど、今度は違う。
誰かが、彼女に尋ねている。
見たいのか。
知りたいのか。
自分で決めていいのだと。
「……見たい」
少女は、はっきりと言った。
「怖いけど、知りたい。私が誰かのために作られたとしても、そこにあった気持ちまで、全部偽物だったとは思いたくない」
扉が、淡い光を放った。
《本人の意思を確認》
《第一記録、開示》
白い光が、全員を包み込んだ。
*
再び、白い花の庭。
今度は、リリアたちも記憶の中に立っていた。
幼いエリシアが、白い花を見つめている。
その隣には、銀髪の少年。
そして、少し離れた場所に、名を持たない少女がいた。
「この子にも、名前が必要だと思う」
エリシアが言った。
少年は、少女のほうを見た。
「本人が望むならね」
「でも、名前がなければ、誰もこの子を覚えていられないかもしれない」
「名前がなくても、覚えていることはできるよ」
少年は穏やかに答えた。
「だけど……名前があれば、いつか自分で帰る場所を選べる」
エリシアは、しばらく黙っていた。
やがて、少女の前にしゃがみ込んだ。
「あなたは、どうしたい?」
名を持たない少女は、驚いたように目を見開いた。
「……私が、決めていいの?」
「もちろん」
エリシアは微笑んだ。
「あなたのことだから」
少女は、何かを言おうとした。
しかし、その瞬間だった。
空間に黒い亀裂が走った。
白い庭の向こうから、無数の黒い糸が伸びてくる。
それらは少女の身体に絡みつき、彼女をエリシアから引き離そうとした。
『未登録の存在に、選択権はない』
冷たい声が響いた。
少年が立ち上がった。
「やめろ」
『役割の逸脱を確認。未完の魂を回収する』
「この子は、誰かの道具じゃない!」
少年は少女をかばうように両腕を広げた。
その瞬間、彼の紫色の瞳が強く輝いた。
世界の外側から、何かが応答する。
黒い糸が一瞬だけ止まった。
だが、次の瞬間、少年の身体に亀裂のような光が走った。
「……っ!」
エリシアが駆け寄ろうとする。
しかし、少年は振り返らずに叫んだ。
「来ないで!」
「どうして!」
「君まで巻き込まれる!」
彼は少女の手を握った。
「聞いて。君は、何かを完成させるためだけに生まれたんじゃない」
少女は震えていた。
「でも、私がいなくなったら……」
「君がいなくなる必要なんてない!」
少年の声が、白い庭に響いた。
「誰かを救うために、君自身が消えなければならないなんて、そんな決まりはない!」
その言葉を聞いた瞬間、少女の瞳から涙がこぼれた。
彼女は、初めて泣いていた。
役割を失うことが怖いからではない。
消えることが怖いからでもない。
自分が生きていていいのだと、誰かが本気で告げてくれたからだった。
しかし、黒い糸は再び動き始めた。
『観測者による介入を確認』
『世界基盤への影響を検出』
『原初の観測者――外部退去処理を開始』
「やめろ!」
少年が叫ぶ。
その声と同時に、白い花が一斉に散った。
エリシアは、少年へ手を伸ばした。
名を持たない少女もまた、彼の手を離すまいと必死に握りしめた。
けれど、世界そのものが二人を引き裂こうとしていた。
「待って!」
エリシアの叫びが響く。
「私が世界を作る! この子も、あなたも、誰も失わない世界を作るから!」
少年は、ほんの一瞬だけ振り返った。
その瞳には、悲しみと、安堵と、言葉にできない願いが浮かんでいた。
「……エリシア」
彼は微笑んだ。
「君は、世界を作ることができる。でも、すべての人の選択を、君一人で守ることはできない」
「そんなの、わかってる!」
「ううん。まだ、わかっていない」
少年は、名を持たない少女の手をそっと離した。
「だから、いつか……君が本当に選べる世界を作って」
光が、彼を包み込んだ。
少女は叫んだ。
「いや! 行かないで!」
少年は最後に、少女へ向かって言った。
「君が自分の名前を選ぶ日まで、どうか――」
声が途切れた。
少年の姿が消えた。
残されたのは、白い花と、彼がいた場所に落ちた一片の銀色の光だけだった。
そして、エリシアの表情が変わった。
悲しみが、絶望へ。
絶望が、決意へ。
彼女は銀色の光を拾い上げた。
「……取り戻す」
その声を聞いた瞬間、記憶の庭に再び黒い亀裂が走った。
白い光が砕け散る。
記憶の開示は、そこで強制的に遮断された。
*
「はあっ……!」
リリアは膝をついた。
頭が割れるように痛い。
アレンがすぐに身体を支え、ミラが水を差し出した。
「リリア、大丈夫!?」
「……うん。大丈夫」
そう答えたものの、リリアの指先は震えていた。
今の記憶が示したものは、あまりにも重かった。
原初の観測者は、未完の魂を守ろうとした。
その結果、世界の外側へ退去させられた。
そして、彼を失ったエリシアは、取り戻すことを決意した。
では、未完の魂は何のために生まれたのか。
エリシアが彼を取り戻すためだけに作ったのか。
それとも、彼自身が彼女に未来を残すために、何かを託したのか。
「……あの人は」
少女の声がした。
リリアが振り向くと、彼女は両手で顔を覆っていた。
「私に、消えないでほしいって……言ってくれた」
涙が、指の隙間からこぼれていた。
「私の役目が何だったとしても、私が生きていていいって……」
少女は、震える声で続けた。
「なのに、私は……あの人がいなくなったあと、エリシア様の願いを叶えるためだけに生きようとした」
「あなたは、何も悪くない」
リリアは言った。
「あなたは、そうするように教えられてきたんでしょう?」
「でも……」
「今、違うことを選ぼうとしている。それでいいんだよ」
少女は顔を上げた。
その瞳には、まだ涙が残っていた。
「……私、あの人を助けたい」
リリアは、静かにうなずいた。
「うん」
「でも、エリシア様のためだけじゃない。私が、あの人にもう一度会いたいの」
少女は、胸元を強く握った。
「それが誰かの役目じゃなくて、私自身の願いなら……私は、それを選んでもいいのかな」
「もちろん」
リリアは迷わず答えた。
「誰かを助けたいと思うことも、誰かに会いたいと思うことも、あなた自身が選んだのなら、あなたの願いだよ」
少女は涙をぬぐった。
それから、巨大な扉を見つめた。
「……私、まだ名前は決められない」
「うん」
「でも、決めるのが怖いからって、ずっと逃げるのはやめる。ちゃんと考えて、自分で選ぶ」
その言葉に呼応するように、扉の記録が更新された。
《未完の魂――第一選択、確認》
《選択内容:自己の願いを認める》
《命名権――解放進行》
少女の足元から、黒い糸がさらに数本ほどけ落ちた。
だが、すべてが消えたわけではない。
彼女の背中には、まだ一本だけ、太い黒い糸が残っていた。
その糸は、扉の奥へと伸びていた。
まるで、彼女と原初の観測者をつなぐ、最後の約束のように。
「……一つ、わかったことがある」
セフィルが記録を見つめながら言った。
「観測者は、世界を守るためだけに外へ出たのではありません。あの少女を、役割から解放する可能性を残そうとしていた」
「可能性を残すために、自分がいなくなることを選んだ……?」
ミラがつぶやいた。
「そうかもしれません。ただし、あの選択が本当に自由だったのかは、まだわかりません」
セフィルは、扉を見上げた。
「外部の存在が彼を排除したのか。それとも、彼自身が何かを守るために、退去を受け入れたのか。その真実は、まだ封じられています」
アステリアは、目を伏せた。
「……私は、知っていたはずなのに」
その声は、ひどく小さかった。
「彼が何を守ろうとしたのか。エリシアが、なぜ世界を壊してでも彼を取り戻そうとしたのか……私は、知っていたはずだった」
「アステリア」
リリアが呼びかける。
アステリアは顔を上げた。
「でも、思い出せないの。いえ……思い出そうとすると、何かが私の記憶を押し戻す」
彼女は、自分の手を見つめた。
「私が未来を封じたのは、エリシアを失いたくなかったから。それは間違いない。でも、それだけではなかったのかもしれない」
「どういうこと?」
「私自身も、彼がいなくなった理由を知らないのかもしれない」
その言葉に、全員が沈黙した。
第三創造者であるアステリアでさえ、すべてを知っているわけではない。
世界の外側には、創造者たちの記憶すら制御する何かが存在する。
そして、その何かは今も、世界の基盤を再評価しようとしている。
残された時間は、刻一刻と減っていた。
そのとき。
巨大な扉の中央に、銀色の文字が浮かび上がった。
《第二記録――観測者の最後の願い》
《開示条件:本人の意思による解放》
リリアは、息をのんだ。
「本人の意思……」
扉の向こうにいる観測者自身が、記憶を開くことを選ばなければならない。
つまり、彼が自分から真実を明かさない限り、誰もその理由を知ることはできない。
そして、彼は先ほど言った。
次に会うときは、君に選んでほしい、と。
何を選ぶのか。
彼を連れ戻すことか。
彼の選択を尊重することか。
それとも、これまで誰も考えなかった第三の未来か。
リリアは、答えを急がなかった。
「……会いに行こう」
静かに、そう告げた。
「でも、無理やり連れ戻すためじゃない。あの人が何を望んでいるのか、本人の言葉で聞くために」
扉の向こうで、何かが動いた。
ほんの一瞬、紫色の光が差し込む。
そして、聞こえるはずのない声が、リリアの耳元でささやいた。
『ありがとう』
それは、観測者の声だった。
だが、その声には、喜びよりも深い悲しみが込められていた。
『けれど……君が真実を知ったとき、それでも同じことを言えるだろうか』
扉が、再び沈黙した。
残された記録には、たった一行だけ、新しい文字が刻まれていた。
《観測者の最終選択――未確定》
《選択者:原初の観測者》
《ただし、選択の代償は――》
最後の一文が、黒い糸に覆われて読めなくなった。
リリアは、その文字を見つめたまま、ゆっくりと拳を握った。
誰かを救うことは、その人の意思を無視して連れ戻すことではない。
けれど、相手が自分のために犠牲になることを選んだのなら、その選択を尊重するだけで本当にいいのだろうか。
答えは、まだ見つからない。
それでも、リリアは決めていた。
誰かの選択を奪わない。
そして、誰かが犠牲になることだけを前提にした未来も、受け入れない。
世界の外側に、再び風が吹いた。
今度の風は、どこか遠くから、誰かの声を運んできた。
『――早く、思い出して』
少女の声だった。
『あなたが、私に約束したことを』
リリアは振り返った。
しかし、そこには誰もいない。
ただ、白い花びらが一枚、足元に落ちていた。
その花びらの裏側には、今まで見たことのない文字が刻まれていた。
それは、誰かの名前の最初の一文字だった。
けれど、その文字を見た瞬間、アステリアが悲鳴にも似た声を上げた。
「――その文字を、読んではだめ!」
彼女の顔は、恐怖に青ざめていた。
「それは……観測者の名前ではない」
アステリアは、震える指で花びらを指した。
「その名前は、彼が世界から失われる前に……エリシアが、最後に呼んだ名前よ」
第五十九話・終
次回予告 第六十話「創造主が最後に呼んだ名前」
白い花びらに刻まれた、観測者とは異なる名前。
その名を知っているはずのアステリアは、なぜ恐怖に震えたのか。
記憶を封じたのは誰なのか。そして、エリシアが最後に呼んだ相手は、本当に観測者だけだったのか。
世界の外側で、未完の魂の過去と、エリシアの最後の選択が、再び交差し始める。




