第58話 名を持たない少女の願い
第58話 名を持たない少女の願い
世界の外側には、風がなかった。
空も、大地も、太陽さえもない。
それでも、リリアたちの足元には白い道が続いていた。道の両側には無数の扉が浮かび、その一つひとつに、誰かの記憶や、選ばれなかった未来が封じられている。
そして、道の先に立つ巨大な扉には、銀髪の青年の姿が刻まれていた。
紫色の瞳。
どこか懐かしく、それでいて、まだ誰も本当には知らない人。
扉の中央には、名前を封じるように黒い文字が幾重にも重なっていた。
「その名前を呼べば、世界は彼を失った本当の理由を思い出す……」
リリアは、先ほど聞いた声を思い返した。
思い出すことが、必ずしも救いになるとは限らない。
それでも、知らないままでいることが誰かを苦しめ続けるのなら。
「私は、知りたい」
小さくつぶやいたリリアの手を、アレンがそっと握った。
「知ることと、今すぐ答えを出すことは違う。焦らなくていい」
「……うん」
リリアはうなずいた。
そのときだった。
「……あの」
背後から、かすかな声が聞こえた。
振り返ると、白い衣をまとった少女が立っていた。
黒い髪。青い瞳。
リリアと同じ顔をしているのに、その表情はまるで違っていた。
彼女はもう、リリアを消そうとはしていない。
けれど、自分がここにいてもいいのか、まだ確信を持てずにいるようだった。
「どうしたの?」
リリアが尋ねると、少女は胸元をぎゅっと握った。
「私……名前を、考えてみようと思うの」
その言葉に、セフィルが静かに顔を上げた。
「名前を?」
「うん。ずっと、名前なんて必要ないと思っていた。私は誰かのために作られた存在で、役目が終われば消える。それなら、名前があってもなくても同じだって」
少女は自分の手を見つめた。
「でも……あなたは、私に生きてほしいと言った」
「うん」
「エリシア様が私を必要としなくても、生きていていいって」
「そうだよ」
リリアは、迷わず答えた。
「あなたが誰かに必要とされるかどうかと、あなたが生きていていいかどうかは、別のことだから」
少女の唇が震えた。
「……それでも、怖いの」
初めて聞く、彼女の本音だった。
「名前を持ったら、本当に私自身になってしまう気がする。そうしたら、もう役目のせいにはできない。何をしたいのかも、誰といたいのかも、自分で決めなきゃいけない」
「そうだね」
リリアは否定しなかった。
「でも、決められない日は、決めなくてもいいんだよ」
「え……?」
「名前を考えるのに一日かかっても、一年かかってもいい。途中で変えたくなってもいい。あなたの人生なんだから、あなたが決めていい」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ顔を上げる。
「……もし、名前をつけてもらうんじゃなくて、自分で選んだら」
「うん」
「その名前は、本当に私のものになるのかな」
「なるよ。少なくとも、私はそう思う」
リリアは少女の手を取ろうとした。
しかし、触れる直前で、少女がためらった。
その動きを見て、リリアは手を止めた。
「……触れてもいい?」
少女は驚いたように目を見開いた。
これまで彼女に向けられてきた言葉は、命令か、役割を説明するものばかりだった。
触れてもいいか。
そんなことを尋ねられたのは、初めてだった。
「……うん」
少女がうなずく。
リリアは、そっとその手を握った。
温かかった。
作られた存在だからといって、そこに流れるものまで偽物ではない。
恐怖も、悲しみも、消えたくないという願いも。
彼女が感じているものは、間違いなく彼女自身のものだった。
その瞬間、リリアの視界に淡い文字が浮かび上がった。
《未完の魂――命名権、解放準備》
《最終条件:本人の意思による名前の選択》
さらに、その下に新しい一文が刻まれた。
《補足:名前は、存在の完成を意味しない》
「……え?」
リリアは思わず目を凝らした。
これまでの記録は、彼女の存在を完成させることが、何かの終わりにつながるように記されていた。
しかし、今の記録は違う。
名前を選んでも、彼女が完成した存在になるとは限らない。
ただ、自分の人生を選ぶための最初の一歩になる。
「よかった……」
リリアがつぶやくと、少女は不思議そうに首をかしげた。
「何が?」
「あなたが、何かを完成させるためだけの存在じゃないって、記録にも書いてあったから」
少女は、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
「……私は、何になればいいのかな」
「なりたいものになればいいんだよ」
「でも、そんなの……今まで考えたこともない」
「だったら、これから考えよう」
リリアは微笑んだ。
「あなたが好きなもの。嫌いなもの。行ってみたい場所。会いたい人。そういうものを、一つずつ見つけていけばいい」
少女の瞳に、かすかな光が宿った。
「……私、花を見てみたい」
「花?」
「うん。記憶の中に、白い花があるの。誰かが大切そうに持っていて……でも、それが誰だったのか、思い出せない」
白い花。
リリアの胸が、かすかに痛んだ。
エリシアと、アステリア。
セフィルと、名を失った誰か。
いくつもの記憶に、白い花が咲いていた。
「いつか、一緒に見に行こう」
リリアがそう言うと、少女は少しだけ笑った。
「……約束?」
「約束」
その返事を聞いた少女の足元で、黒い糸が一本、音もなくほどけた。
誰かに与えられた役目が、ほんの少しだけ彼女から離れていく。
しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
*
「――接続期限が、さらに短縮されています」
セフィルの声が鋭く響いた。
彼の手元に浮かんだ契約記録は、赤黒い光を放っていた。
《世界外縁接続――残存猶予、再計算中》
《世界基盤の再評価まで、残り二十三時間》
「二十三時間……」
ミラが息をのんだ。
「一日もないじゃない!」
「外側の存在が、時間の定義そのものに干渉している可能性があります」
セフィルは記録を見つめた。
「期限を守らせること自体が、あちらの目的なのかもしれません。こちらが焦り、十分に理解しないまま何かを選ぶように」
「選ばせることが目的なのに、選ぶ時間を奪う……」
リリアは、顔のない存在を思い出した。
白い衣。
黒い糸。
そして、誰にも選ぶ権利はないと告げた声。
「そんなの、選択じゃない」
「ええ。ですが、期限が迫っていることも事実です」
アステリアが静かに告げた。
「外側の存在は、世界の基盤を再評価すると言った。それが何を意味するのか、まだ完全にはわからない。世界を壊すのか、書き換えるのか、それとも……世界そのものを、別の仕組みに置き換えるのか」
「どれも、止めなきゃいけないんですか?」
ミラの問いに、アステリアはすぐには答えなかった。
「止めるべきなのは、誰かの意思を無視して未来を決めることよ。けれど、何をすればそれを止められるのか……私は、まだ知らない」
かつて、彼女は知っているつもりだった。
未来を制限すれば、悲劇を防げる。
選択肢を減らせば、大切な人を失わずに済む。
その考えが、どれほど多くの可能性を奪ったのか。
今のアステリアには、痛いほどわかっていた。
「だからこそ、今度は決めつけない」
彼女はリリアを見た。
「あなたが何を選ぶのか、私にもわからない。けれど、あなたの選択を奪うことだけは、もうしない」
リリアはうなずいた。
そして、隣に立つ少女へ視線を向けた。
「あなたは、どうしたい?」
突然尋ねられた少女は、戸惑った。
「私……?」
「うん。残り時間が少なくても、あなたの気持ちを置き去りにはしたくない」
少女は、長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「……私は、まだ名前を決められない」
「うん」
「でも、決めたい。いつか、自分の名前を自分で呼べるようになりたい」
少女は自分の手を握りしめた。
「それから……あの扉の向こうにいる人のことも、知りたい」
全員の視線が、巨大な扉へと向いた。
「どうして?」
レオンが静かに尋ねる。
少女は、困ったように微笑んだ。
「わからない。でも、あの人のことを考えると、胸が苦しくなるの。私が生まれる前から、ずっと誰かを待っていたような気がする」
リリアの心臓が、大きく跳ねた。
彼女の中に残るエリシアの記憶が、かすかに反応した。
白い花。
銀色の髪。
誰かの名前を呼ぼうとして、声を失った少女。
そして、扉の向こうに封じられた真実。
「……もしかしたら、あなたが覚えているのは、エリシアの記憶だけじゃないのかもしれない」
リリアがつぶやくと、セフィルが顔を上げた。
「どういう意味です?」
「まだわからない。でも……この子の中にあるものを、エリシアの残響だけだと決めつけたら、また何かを見落とす気がする」
アステリアの表情が強張った。
「まさか……」
「アステリア?」
「いいえ。まだ、確証はないわ」
彼女は扉を見つめた。
その瞳に浮かんでいたのは、恐怖だけではなかった。
懐かしさ。
後悔。
そして、長い間、認めることを避けてきた可能性。
「その扉に封じられた名前を呼ぶ前に、確かめなければならないことがある」
アステリアは、ゆっくりと息を吐いた。
「エリシアが彼を失った理由と、あの子が生まれた理由。その二つが、本当に同じ出来事から始まったのなら……私たちは、まだ一番大切なことを知らない」
そのとき。
巨大な扉の表面に、一本の亀裂が走った。
誰も触れていない。
誰も、名前を呼んでいない。
それなのに、扉の奥から声が聞こえた。
『――まだ、呼ばないで』
銀髪の青年の声だった。
しかし、その声はリリアたちに向けられたものではなかった。
扉の前に立つ、名を持たない少女へ。
『君がその名を思い出したとき、私はもう一度、君を失うことになる』
少女の顔から、血の気が引いた。
「……私を、知っているの?」
扉は答えなかった。
ただ、刻まれた青年の紫色の瞳が、一瞬だけ少女を見つめたように見えた。
次の瞬間、黒い文字が扉全体に広がる。
そして、これまで誰にも読めなかった封印記録の一部が、初めて姿を現した。
《原初の観測者――世界外退去理由》
《記録者:第三創造者アステリア》
《最終記録の閲覧条件――未完の魂による、最初の選択》
リリアは息を止めた。
名前を選ぶことだけではない。
この少女が自分の意思で選んだ最初の一歩こそが、世界から失われた存在の真実へつながっている。
けれど、その選択が何を呼び起こすのか、誰にもわからなかった。
少女は震える手で、自分の胸を押さえた。
「……私が選んだら、誰かがいなくなるの?」
「わからない」
リリアは、正直に答えた。
「でも、あなたが怖いと思うなら、今すぐ選ばなくてもいい。誰かを救うために、あなたが自分を犠牲にする必要はないから」
少女は目を閉じた。
そして、ゆっくりと開いた瞳で、扉を見つめる。
「……考える時間がほしい」
「もちろん」
リリアは彼女の隣に立った。
「一緒に考えよう」
世界の外側に、風が吹いた。
ありえないはずの風が、白い道を渡り、二人の髪を揺らした。
それは、まだ誰にも選ばれていない未来が、初めて息をしたような風だった。
しかし、遠い闇の中では、顔のない存在が静かに目を開けていた。
『名前を持たせるつもりか』
黒い糸が、闇の中でうごめく。
『ならば、その名を選ぶ前に思い出させてやろう』
闇の奥に、もう一つの記憶が浮かび上がった。
世界が生まれるよりも前。
白い花の咲く場所で、銀髪の少年が誰かに手を差し伸べている。
その手を取ろうとしていたのは――名を持たない少女だった。
そして、二人の背後には、まだ幼いエリシアが立っていた。
彼女は泣いていた。
誰かを失うことを、すでに知っているかのように。
闇の中の声が、囁いた。
『思い出せ。お前が、誰の未来を奪ったのかを』
第五十八話・終
次回予告 第五十九話「白い花の記憶」
名を選ぶ前に、少女の中に眠っていた記憶が動き始める。
そこに映し出されたのは、世界が生まれる前の三人――エリシア、原初の観測者、そして名を持たなかった少女。
なぜ彼女は生まれたのか。
なぜ観測者は、彼女を失うことを恐れているのか。
そして、アステリアが記録に残した「最初の選択」とは何だったのか。
残された時間は、二十三時間を切ろうとしていた。




