第55話 封じられた第三創造者の名前
第55話 封じられた第三創造者の名前
「私の名は――」
第三創造者が口を開いた、その瞬間だった。
神殿を満たしていた光が消えた。
壁に浮かび上がっていた古代文字が、一斉に黒く染まっていく。床に刻まれた三つの印も、まるで何者かに塗り潰されるように、その輪郭を失っていった。
そして。
第三創造者の口から、声が出なくなった。
「……っ!」
彼女は喉元を押さえた。
黄金の瞳が見開かれる。
「どうしたんですか!?」
リリアが駆け寄ろうとした瞬間、セフィルが腕を伸ばして彼女を制した。
「待ってください。彼女の周囲に、何かが……!」
第三創造者の身体を、細い黒い糸が取り巻いていた。
糸は空間そのものから伸びているようだった。指輪が砕けた場所から、床の亀裂から、そして彼女の影の中から。
それらが少しずつ彼女の身体へ食い込んでいく。
『保存者による真名の開示を禁止する』
あの声だった。
世界の外側から干渉してくる、感情のない声。
『第三創造者の真名は、封鎖された未来に属する』
『開示された場合、管理構造の根幹に矛盾が発生する』
「黙りなさい……!」
第三創造者は声にならない声で叫んだ。
「もう、あなたたちの言いなりにはならない!」
黒い糸が、彼女の首元に絡みつく。
その身体が大きく揺れた。
「やめて!」
リリアは、考えるより先に手を伸ばしていた。
創世の理が反応する。
指先から白い光が広がり、黒い糸の一本を弾き飛ばした。
しかし、次の瞬間。
激しい痛みが腕を駆け上がった。
「っ……!」
視界が揺れる。
鼻の奥に、鉄の味が広がった。
「リリア!」
アレンが彼女の身体を支える。
「無理をするな! 今のお前が力を使い続けたら、身体がもたない!」
「でも……このままじゃ、彼女が……!」
第三創造者は、苦痛に顔を歪めながらも、リリアを見ていた。
そして、かすかに首を横に振る。
――助けなくていい。
そう言っているように見えた。
けれど、リリアは首を横に振り返した。
「あなたが何をしたとしても、今ここで苦しんでいるあなたを見捨てる理由にはなりません」
第三創造者の目が揺れた。
「私は……あなたに、そんなことを言ってもらえる人間では……」
「許すかどうかは、まだ決めていません」
リリアは、まっすぐ彼女を見つめた。
「でも、あなたが自分の罪を告白することまで、誰かに邪魔させるつもりはありません」
その言葉と同時に、リリアの足元に白い花が一輪咲いた。
誰かの意思に従うためではない。
誰かを救うために、自分自身が選んだ力。
白い花は、黒い糸の一部を包み込んだ。
糸が、音もなくほどけていく。
『不正な干渉を検知』
『第三の役割候補による契約外行為を確認』
「契約外で結構よ」
リリアは痛みに耐えながら、笑った。
「私は、あなたたちの契約に従うために生きているんじゃない」
黒い糸が、一斉に彼女へ向いた。
しかし、その前にセフィルが立ちはだかった。
「彼女への干渉を停止してください」
彼の背後に、銀色の鍵の紋様が浮かぶ。
すでに砕いたはずの第二創造者の印。
それは以前とは違い、誰かに与えられた権限ではなく、セフィル自身の意思によって形作られていた。
「私は第二創造者として命令を受けるのではありません。セフィル・ルシエンとして、ここに立っています」
銀の光が黒い糸を押し返した。
レオンとカイルも、それぞれの武器を構える。
ミラはリリアの肩に手を置き、彼女の呼吸を整えながら炎の魔力を展開した。
誰も、第三創造者を見捨てなかった。
その光景を見て、第三創造者は目を伏せた。
「……どうして」
震える声が、ようやく戻る。
「どうして、あなたたちは……私のために、そこまで……」
「あなたのためだけじゃありません」
リリアは答えた。
「私たち自身が、そうしたいと思ったからです」
第三創造者は、唇を噛んだ。
そして、黒い糸に抗うように、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう」
その言葉は、ひどく小さかった。
けれど、今まで彼女が口にしたどんな告白よりも、確かなものに聞こえた。
黒い糸が消えたあと、神殿には奇妙な静寂が訪れた。
第三創造者は、その場に膝をついていた。
黒い指輪が砕けた場所には、小さな黄金の欠片が残っている。
彼女はそれを拾い上げ、掌の中で握りしめた。
「真名を告げるには、封印だけでは足りないのね……」
「どういうことですか?」
リリアが尋ねると、第三創造者は顔を上げた。
「私の名前は、単に忘れられているのではないの。私自身が、名前を持つことを拒んだのよ」
「自分で……?」
「ええ。名前とは、存在を世界に認めさせるもの。そして、存在するということは、選択の責任を負うということでもある」
彼女は、かつて黒い指輪があった場所を見つめた。
「私は自分の選択が間違っていたと認めるのが怖かった。だから、世界の記録から自分の名前を消し、役割だけを残した」
保存者。
第三創造者。
未来を封鎖する者。
彼女はそれらの役割を名乗ることで、自分自身から逃げ続けてきたのだ。
「名前を捨てれば、罪も消えると思ったんですか?」
カイルの問いに、第三創造者は静かに首を振った。
「いいえ。罪が消えるとは思っていなかった。ただ、誰にも私を呼ばれなければ、私が何をしたのか、もう一度問われずに済むと思ったの」
「……それで、エリシアを守っているつもりだったんですね」
「そうよ」
彼女は苦笑した。
「守るという言葉は、便利ね。自分が恐れていることを隠すのにも、自分の過ちを正当化するのにも使える」
リリアは何も言わなかった。
その言葉を、簡単に否定することはできなかったからだ。
「でも、もう逃げないわ」
第三創造者は立ち上がった。
「あなたが世界の外側へ行くというのなら、私も最後まで責任を負う。あの子を救うために必要なら、私が封じたものをすべて開く」
「それなら、名前を教えてください」
リリアの言葉に、第三創造者は一瞬だけ目を閉じた。
「……名前を告げる前に、知っておいてほしいことがあるの」
彼女が指を動かすと、神殿の中央に新たな光景が現れた。
それは、世界が生まれるよりも前の記憶だった。
白い花も、銀の鍵も、黒い指輪も、まだ存在していない。
そこには、果てしない暗闇だけが広がっていた。
その暗闇の中に、三人の姿があった。
一人は、幼いエリシア。
一人は、銀髪に紫の瞳を持つ青年。
そしてもう一人は、黒髪に黄金の瞳を持つ少女。
第三創造者の姿だった。
「この頃、私たちはまだ創造者ではなかった。世界も、神々も、契約もなかった。ただ、何もない場所で、どうすれば何かを生み出せるのかを考えていた」
幼いエリシアが、両手を広げる。
その指先に、小さな光が灯った。
「エリシアは、何もない場所に世界を創ろうとした。観測者は、その世界がどんなものになるのかを見届けようとした。そして私は……」
第三創造者は、言葉を止めた。
映像の中で、黒髪の少女がエリシアの手を握っていた。
その顔には、今の彼女にはない無邪気な笑みがあった。
「私は、二人が創る世界で、誰もが自分の未来を選べるようにしたかった」
「それなら……あなたも、エリシアと同じ願いを持っていたんですね」
「最初はね」
第三創造者の声が沈む。
映像の中で、銀髪の青年が二人から離れていく。
彼の身体が、少しずつ暗闇へ溶けていった。
幼いエリシアが、彼を追いかける。
黒髪の少女は、その場に立ち尽くしていた。
そして、彼女は――エリシアの手をつかんだ。
『行ってはだめ』
映像の中の少女が言った。
『あの人を追いかけたら、あなたは帰ってこられなくなる』
幼いエリシアは、泣きそうな顔で振り返った。
『でも、あの人がいなくなっちゃう』
『それでも、あなたには世界があるでしょう?』
『……世界と、あの人を一緒に取り戻す方法はないの?』
少女は答えられなかった。
その沈黙が、すべてを物語っていた。
「私は、あの子に選ばせるのが怖かった」
第三創造者は、映像を見つめたまま言った。
「エリシアが観測者を追えば、世界の創造そのものが失敗するかもしれなかった。世界を選べば、あの子は大切な人を失ったまま生きなければならない。そのどちらも、私は受け入れられなかった」
「だから、選択肢を封じた……」
「そう。けれど、それだけではなかった」
映像が切り替わる。
今度は、幼いエリシアが眠っていた。
その傍らで、黒髪の少女が一人、何かを記録している。
記録の最後に、彼女はこう書き残していた。
――《エリシアが世界を選べば、私は彼女の隣にいられる》
――《エリシアが観測者を選べば、私は彼女を失う》
――《ゆえに、私は彼女に選ばせない》
リリアは息を呑んだ。
それは、世界を守るためだけの行動ではなかった。
彼女自身の願いが、そこには刻まれていた。
「あなたは……エリシアに、そばにいてほしかったんですね」
第三創造者は目を伏せた。
「ええ」
黄金の瞳から、涙が落ちた。
「私はあの子の未来を守ろうとした。でも、本当は……あの子に、私を選んでほしかったのよ」
その告白に、誰も言葉を挟めなかった。
彼女はエリシアを愛していた。
けれど、その愛には、失うことへの恐怖が混ざっていた。
エリシアのためだと信じながら、彼女自身の願いを押しつけてしまった。
そして、その過ちは世界の仕組みの中にまで刻み込まれた。
「……それでも、私は選ぶ権利を奪っていい理由にはならないと思います」
リリアは、静かに言った。
「あなたがエリシアにそばにいてほしかったことも、失いたくなかったことも、間違いじゃありません。でも、その気持ちを理由に、エリシアの未来を決めてしまったことは、別の問題です」
第三創造者は、涙を拭わなかった。
「そうね」
「そして、今も同じことが起きています。未完の魂は、誰かに必要とされたいと願っていた。でも、その子が本当に望んでいたのは、役割を果たして消えることじゃなかった」
リリアは、黒い石を握りしめた。
「私は、あの子を助けます。あなたがかつて選べなかった未来を、今度こそ、あの子自身が選べるように」
第三創造者は、深く頭を下げた。
「……お願いするわ」
そして、彼女は顔を上げた。
「私の本当の名前は、アステリア」
その名が告げられた瞬間、神殿全体が白い光に包まれた。
黒く染まっていた壁の文字が、次々と元の姿を取り戻していく。
そして、中央に新たな記録が刻まれた。
《第三創造者――アステリア》
《封鎖者の真名、復元》
《世界外縁接続門――開門条件、達成》
セフィルが息を呑む。
「扉が……!」
神殿の奥で、巨大な扉がゆっくりと姿を現した。
扉の表面には、無数の白い花が刻まれていた。
その中央には、リリアと同じ顔をした少女の姿が浮かんでいる。
扉が開けば、世界の外側へ行ける。
未完の魂を救いに行ける。
しかし、アステリアは扉を見つめながら、表情を曇らせた。
「一つだけ、伝えておかなければならないことがあるわ」
「何ですか?」
「私が封じた未来は、すべて消えたわけではない。消すことのできなかった可能性は、世界の外側に残されている」
「それが……あの子なんですか?」
「いいえ。あの子は、その未来を再び選べるようにするために生まれた存在の一つ。けれど、あの子自身が何者なのか、私にもすべてはわからない」
アステリアは、扉に手を触れた。
「確かなのは、あの子の中に、私が封じた未来へつながる何かがあるということ。そして、その未来を求めている者が、今も世界の外側にいるということよ」
扉の向こうから、低い音が響いた。
まるで、何かがこちらへ近づいてくるようだった。
リリアの黒い石に、最後の文字が浮かび上がる。
《接続期限――残り一日》
《救出対象――未完の魂》
《接触時、第三の役割の再指定が発生する可能性あり》
リリアは、迷わず扉の前へ進んだ。
「行きましょう」
アレンが隣に並ぶ。
「一人では行かせない」
ミラも頷いた。
「当然でしょ。あの子を連れ戻すんだから」
セフィルは銀の光をまとい、レオンとカイルも武器を構える。
アステリアは最後に一度だけ、神殿を振り返った。
長い年月をかけて隠してきた罪。
誰にも呼ばれなくなった自分の名前。
それらをすべて置いていくように、彼女は扉の向こうへ足を踏み出した。
リリアも続く。
扉の向こうに広がっていたのは、空も大地もない、果てしない白い空間だった。
無数の黒い糸が、遠くの一点へ伸びている。
その先に、白い衣の少女が立っていた。
少女は、リリアたちに気づくと、驚いたように顔を上げた。
「……どうして、来たの?」
その声は、震えていた。
「私は、役割を果たさなきゃいけないのに」
リリアは一歩、前へ進んだ。
「違うよ」
少女の瞳が揺れる。
「あなたは、役割を果たすためだけに生まれたんじゃない」
「でも……私は、そうするために作られたの」
「それでも、あなたは生きたいって言ったでしょう?」
少女は唇を震わせた。
そして、泣きそうな顔で頷いた。
「……うん」
その瞬間。
二人をつなぐ空間に、巨大な黒い目が開いた。
『接続を確認』
『第三創造者アステリアの真名復元を確認』
『未完の魂の回収を開始する』
黒い糸が一斉に少女へ巻きついた。
少女の身体が、白い光の中へ引きずられていく。
「リリア……!」
彼女が手を伸ばす。
リリアもまた、手を伸ばした。
指先が、あと少しで触れる。
しかし、黒い目が告げた。
『救出を試みる場合、第三の役割を確定する』
『候補者――リリア・エヴァンジェル』
『選択せよ』
リリアの足元に、黒い円環が再び現れた。
そして、少女の身体に刻まれた紋様が、ゆっくりとリリアと同じ形へ変わっていく。
――救うためには、役割を受け入れなければならない。
その契約が、二人の間に立ちはだかった。
リリアは、黒い円環を見下ろした。
そして、静かに顔を上げた。
「……あなたたちは、まだわかっていないんだね」
彼女の青い瞳に、白い光が宿る。
「私は、誰かを救うために、別の誰かの未来を差し出すつもりはない」
世界の外側に、創世の光が広がった。
第55話・終
次回、第56話「世界の外側に囚われた少女」
未完の魂を取り戻すため、リリアは世界の仕組みそのものを縛る契約と対峙する。第三の役割を受け入れずに、少女を救い出す方法はあるのか。そして、世界の外側からリリアを見つめる存在の正体とは――。




