第53話 世界の外側へ続く扉
第53話 世界の外側へ続く扉
――私は、消えたくない。
その声は、確かに聞こえた。
忘却の塔から戻ったリリアは、神殿の一室で黒く染まった白い花を見つめていた。
花弁の中央に刻まれた紋様は、もう光を放っていない。
けれど、指先で触れるたび、かすかな温もりが伝わってくる。
あの少女は、まだ存在している。
世界の外側に連れ戻されても、完全に消えたわけではない。
「……待っていて」
リリアは、小さく呟いた。
「必ず、あなたを迎えに行くから」
「その約束、簡単には果たせないかもしれないぞ」
背後から、アレンの声がした。
振り返ると、彼は扉のそばに立っていた。
「わかっているわ」
「世界の外側に行く方法も、そこに何があるのかも、まだわからない。それでも行くのか?」
「ええ」
リリアは迷わず答えた。
「彼女は、私を消そうとした。でも、最後には自分の意思で生きたいと言ってくれた。あの言葉を聞いた以上、見捨てたくない」
「……そうか」
アレンは、わずかに表情を和らげた。
「なら、俺も最後まで付き合う」
「危険なのよ?」
「今さらだろう」
あまりにも当然のように言われて、リリアは思わず笑った。
「本当に、あなたって人は……」
「何だ?」
「ううん。ありがとう」
アレンは返事をせず、彼女の隣に腰を下ろした。
その沈黙は、不思議と心地よかった。
けれど、穏やかな時間は長く続かなかった。
部屋の扉が勢いよく開き、ミラが駆け込んできた。
「リリア! 大変!」
「どうしたの?」
「セフィルが……セフィルの様子がおかしいの!」
◇
神殿の記録室。
そこでは、セフィルが古い石板の前に立ち尽くしていた。
彼の周囲には、銀色の文字が無数に浮かんでいる。
どれも、現代の神殿では使われていない古代文字だった。
「セフィル?」
リリアが呼びかける。
しかし、彼は反応しなかった。
その瞳は、目の前の石板に刻まれた一文だけを見つめていた。
「……そんなはずはない」
彼の唇が震える。
「僕は……これを、知っている」
「何を見つけたの?」
セフィルは、ゆっくりとリリアを振り返った。
その顔には、恐怖にも似た困惑が浮かんでいた。
「最初の契約です」
「最初の契約?」
「創造者たちが世界を創る際に交わした契約。これまで僕たちが見てきた記録は、すべてその一部にすぎなかった」
彼は石板を指さした。
「ここには、世界が生まれる前のことが記されています」
リリアは石板に近づいた。
古代文字の中央には、三つの紋章が刻まれていた。
一つ目は、白い花。
二つ目は、銀色の鍵。
三つ目は、黒い円環。
それぞれの紋章の下に、名前が記されている。
エリシア。
セフィル・ルシエン。
そして――。
名前の部分だけが、深く削り取られていた。
「三人……?」
リリアが呟く。
「ええ。僕たちは、これまで創造者を三人と考えてきました。けれど、この契約に記されているのは、三人の名前ではありません」
セフィルは、苦しそうに目を閉じた。
「これは、三つの役割を示しているんです」
「役割?」
「世界を創る者。世界を見届ける者。そして……」
彼は、言葉を切った。
その瞬間、頭を押さえて膝をつく。
「セフィル!」
リリアが駆け寄る。
「大丈夫です……。ただ、記憶が……」
彼の頭の中で、封じられていた何かが動き始めていた。
暗闇。
果てのない空間。
その中で、幼いエリシアが一人の人物に向かって手を伸ばしている。
顔は見えない。
けれど、その人物の声だけは、はっきりと聞こえた。
『世界を創るのは、君だけではない』
幼いエリシアは、首を横に振った。
『でも、私が創りたいの。誰かに命じられた世界じゃなくて、みんなが自分で未来を選べる世界を』
『ならば、君には選ばなければならないことがある』
『何を?』
『世界を創ることと、世界を成立させることは違う』
声は静かに続いた。
『君が世界を創るのなら、誰かがその世界を支えなければならない。そして、誰かが、その世界を終わらせる可能性も受け入れなければならない』
幼いエリシアは、黙り込んだ。
そして、小さな声で答えた。
『……それでも、私は創りたい』
次の瞬間。
記憶が、真っ白な光に包まれた。
◇
「……思い出しました」
セフィルが、震える声で言った。
「世界を創ったのは、エリシアだけではない」
その言葉に、リリアたちは息を呑んだ。
「どういうことだ?」
レオンが尋ねる。
「僕にも、まだすべてはわかりません。ただ、エリシアが世界を創る前から、世界を成立させるための仕組みは存在していた。彼女は、その仕組みを使って世界を形作ったんです」
「つまり、世界そのものを生み出した存在と、世界が存在できるように支える存在は別だった……?」
リリアの問いに、セフィルは頷いた。
「おそらく」
「じゃあ、神々は?」
「世界が生まれたあとに、その管理を任された存在です。少なくとも、最初の契約には、神々を創造者として扱う記述はありません」
リリアは、以前聞いた第三創造者の言葉を思い出した。
神々は、管理する権利を与えられた。
しかし、その権利を自分たちの所有権だと思い込んだ。
もし、それが事実なら。
神々が恐れていたのは、単に創世の力を持つ少女ではない。
自分たちが世界の支配者ではないと、証明できる存在だったのかもしれない。
「……それなら、三つ目の役割は何なの?」
リリアは石板の黒い円環を見つめた。
セフィルは答えられなかった。
ただ、彼の瞳には、消えかけた記憶の残滓が映っていた。
「世界を終わらせる可能性を受け入れる者……」
彼は呟いた。
「その役割を持つ者が、最初の契約にいたはずなんです」
「それが、世界の外側にいる存在なの?」
「わかりません。でも、境界の管理者が言っていたことを考えると、無関係とは思えない」
リリアは石板に手を伸ばした。
指先が黒い円環に触れた瞬間、石板の奥から声が響いた。
『契約の継承者を確認』
神殿全体が震えた。
『創造者の記憶を確認』
白い花の紋章が光る。
『第二創造者の記憶を確認』
銀色の鍵が光る。
そして、最後の黒い円環が、ゆっくりと回転し始めた。
『第三の役割――未登録』
リリアは息を止めた。
『世界外縁との接続には、最初の契約の再承認が必要です』
「再承認……?」
セフィルが顔を上げる。
『必要条件』
石板に文字が浮かび上がった。
――第一創造者の意思。
――第二創造者の同意。
――第三の役割を担う者の選択。
リリアは、最後の一文を見つめた。
「第三の役割を担う者……」
その瞬間、石板に刻まれた黒い円環の中央に、小さな文字が現れた。
――候補者:リリア・エヴァンジェル。
「……え?」
ミラが声を上げた。
「ちょっと待って! リリアが第三の役割を担うってこと!?」
「違うわ」
リリアは、石板を見つめたまま首を横に振った。
「候補者としか書かれていない。まだ、決まったわけじゃない」
しかし、彼女の胸の奥には、嫌な予感が広がっていた。
世界の外側から来た境界の管理者。
エリシアが取り戻そうとしている観測者。
そして、自分と同じ顔をした未完の魂。
すべてが、この契約に繋がっている。
もし自分が第三の役割を担うことになったら。
その役割は、何を意味するのだろう。
世界を守ることなのか。
世界を終わらせることなのか。
それとも、世界がどちらを選ぶかを決めることなのか。
「……リリア」
アレンが、彼女の隣に立った。
「今は、決める必要はない」
「でも、私が候補者だと記されている以上、無関係ではいられないわ」
「そうだな。だが、候補者であることと、その役割を引き受けることは別だ」
アレンは石板を見つめた。
「お前が自分の意思で選ぶまでは、誰にも決めさせるな」
リリアは頷いた。
そうだ。
自分は、まだ何も選んでいない。
誰かが用意した役割を、そのまま受け入れるつもりもなかった。
けれど――。
石板が、再び光った。
『警告』
文字が、赤く染まる。
『最初の契約に対する干渉を検知』
セフィルが息を呑んだ。
「そんな……。誰かが、契約を書き換えようとしている?」
『第三の役割、強制確定処理を開始』
「強制確定ですって!?」
ミラが叫んだ。
黒い円環が高速で回転し、リリアの足元に暗い紋様が広がる。
彼女は後ろへ下がろうとした。
しかし、足が動かなかった。
「リリア!」
アレンが腕を伸ばす。
その手が触れる直前、透明な壁が二人を隔てた。
「くっ……!」
アレンが剣を振り下ろす。
だが、壁には傷一つつかなかった。
リリアの身体が、黒い光に包まれていく。
頭の中に、無数の声が響いた。
『世界を創る者』
『世界を見届ける者』
『世界を終わらせる者』
声が重なり、やがて一つの言葉になった。
『選べ』
リリアは歯を食いしばった。
「……嫌よ」
『選べ』
「私は、あなたたちの命令で選ぶつもりはない!」
彼女は《創世の理》を発動させようとした。
けれど、力が動かない。
まるで、自分の中にある何かが、別の意思によって封じられているようだった。
そのとき。
セフィルが、石板の前に立った。
「――契約の再承認を、拒否します」
静かな声だった。
黒い光が、一瞬だけ揺らぐ。
『第二創造者の権限を確認』
「僕は、世界を創るために存在しているわけではない。世界を見届けるためだけに生きているわけでもない」
セフィルは、リリアを見つめた。
「僕は、セフィル・ルシエンです。僕自身の意思で、ここにいる」
彼の胸元から、銀色の光が溢れ出した。
「そして、彼女の選択を奪う契約には、同意しない!」
石板に刻まれた銀色の鍵が砕けた。
同時に、黒い紋様が消え、リリアの身体が自由になる。
「リリア!」
アレンが彼女を抱き止めた。
リリアは、荒い息を繰り返しながらセフィルを見た。
「セフィル……あなた、今……」
「大丈夫です」
彼は微笑もうとした。
しかし、その身体はひどく疲弊していた。
「ただ……契約の一部を、壊してしまったようです」
「壊したって……!」
「再承認の手続きは停止しました。でも、これで終わりではありません」
セフィルは、砕けた銀色の鍵を見つめた。
「最初の契約を、誰かが強制的に完成させようとしている。しかも、そのためにリリアを第三の役割へ押し込もうとした」
「誰が、そんなことを……」
ミラが呟いた。
そのとき、石板の裏側から、かすかな声が響いた。
『……セフィル』
彼が顔を上げた。
聞き覚えのある声だった。
忘れたはずの記憶の奥から、何度も自分を呼んでいた声。
『お願い……』
声は震えていた。
『今度こそ、あの子に選ばせて』
セフィルの瞳が見開かれた。
「……エリシア?」
しかし、声は答えなかった。
代わりに、石板の中央に一つの映像が浮かび上がった。
世界が生まれる前の暗闇。
幼いエリシア。
銀髪の少年セフィル。
そして、二人の前に立つ、黒髪と金色の瞳を持つ人物。
第三創造者だった。
その人物は、二人を見つめながら、静かに告げた。
『世界を創ることに、私は反対しない』
映像の中の第三創造者は、手を差し出した。
『ただし、創造者よ。君が創った世界の未来を、君自身が所有することは許されない』
エリシアが頷く。
『わかっているわ』
『ならば、最後の役割を誰かに押しつけてはならない。誰が世界を終わらせるかも、誰が世界を守るかも、誰が誰を救うかも――』
第三創造者は、幼いエリシアの手を取った。
『その者自身に選ばせるのだ』
映像が消えた。
記録室に、静寂が戻る。
リリアは、砕けた石板を見つめていた。
第三の役割。
それは、世界を終わらせるための役目ではないのかもしれない。
誰かに世界の未来を押しつけさせないための役目。
けれど、その真相を知るには、まだ足りないものが多すぎた。
そして、最後に残された黒い円環が、かすかに光った。
その中央に、新しい文字が浮かび上がる。
――境界の扉、所在確認。
――開門条件:第三創造者の真の告白。
リリアは顔を上げた。
「……第三創造者の告白?」
彼女が振り返ると、黒髪の女性が入口に立っていた。
いつからそこにいたのか、誰も気づかなかった。
金色の瞳は、砕けた石板を見つめている。
「……とうとう、ここまで来てしまったのね」
第三創造者は、静かに息を吐いた。
「リリア。あなたたちを世界の外側へ導くためには、私が隠してきた最後の罪を話さなければならない」
「あなたの罪……?」
「ええ」
彼女はリリアを見つめた。
「そして、その罪を知れば、あなたは私を許せなくなるかもしれない」
リリアは、彼女から目を逸らさなかった。
「それでも、聞かせて」
第三創造者の瞳が揺れた。
「……わかったわ」
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
「ならば、話しましょう。世界が生まれる前、私が何をしたのかを」
その瞬間、神殿の奥から、何かが軋む音が響いた。
世界の外側へ続く扉が、遠くで動き始めたのだった。
第五十三話・終
次回、第五十四話「第三創造者が殺した未来」
世界の外側へ向かうため、第三創造者はついに自らの罪を語り始める。
それは、エリシアを救うための選択だったのか。
それとも――彼女から、選ぶ権利そのものを奪った行為だったのか。
そしてリリアは、第三創造者が隠し続けた「最初に消された未来」の正体を知ることになる。




