第52話 もう一人のリリアが望むもの
第52話 もう一人のリリアが望むもの
忘却の塔へ続く道は、以前とは違っていた。
空を覆う雲は黒く、遠くの山々には、まるで世界の表面を削り取ったかのような亀裂が走っている。
境界の欠片が示す光は、その亀裂の先――忘却の塔の最上階へ向かっていた。
「……世界が、本当に壊れ始めているのね」
ミラが不安げに呟いた。
「まだ完全な崩壊ではない」
セフィルは欠片に刻まれた紋様を確認しながら答えた。
「けれど、外側からの接続が進めば、世界の法則そのものが書き換えられる可能性がある」
「それを、あの少女が引き起こしているのか?」
レオンの問いに、セフィルは首を横に振った。
「わかりません。彼女が自ら接続を望んでいるのか、それとも、何者かに利用されているのか……」
「どちらにしても、会って確かめるしかないということね」
リリアは塔を見上げた。
あの場所には、自分と同じ顔をした少女がいる。
黒い髪。
青い瞳。
そして、自分を消すことこそが、エリシアを救う道だと信じている少女。
以前、彼女は言った。
――あなたが生きている限り、あの人は帰ってこない。
あの言葉が、今も胸に刺さっている。
もし本当に、自分が存在することで誰かが帰れなくなっているのだとしたら。
それでも、自分は生きていていいのだろうか。
「リリア」
隣を歩いていたアレンが、彼女の名を呼んだ。
「一人で答えを出そうとするな」
「……まだ、何も言っていないわ」
「言わなくてもわかる。お前は、また自分を犠牲にすれば解決するのではないかと考えている」
リリアは、思わず目を伏せた。
図星だった。
「でも、私がいるせいで――」
「それを決めるのは、お前ではない」
アレンは、いつになく強い口調で言った。
「誰かが苦しんでいるからといって、その原因がすべてお前にあるわけじゃない。まして、誰かが帰れないからといって、お前が消えるべきだという理由にはならない」
「……うん」
「お前が自分の意思で何かを選ぶのなら、俺はその答えを聞く。だが、誰かに消えろと言われたから消えるというのなら、俺は止める」
リリアは彼を見上げた。
アレンの瞳には、迷いがなかった。
その眼差しに、リリアは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「ありがとう、アレン」
「礼はいい。帰ったら、ちゃんと食事をしろ」
「……今、その話をするの?」
「お前は考え込むと食事を忘れるからな」
思わず、リリアは笑った。
ほんの一瞬だけ、張り詰めていた空気が緩む。
けれど、塔の扉を前にしたとき、その笑みは消えた。
扉には、以前にはなかった文字が刻まれていた。
――魂の未完了部分、帰還準備中。
――接続先、世界外縁。
――障害となる魂、確認。
その下に、リリアの名前が浮かび上がっていた。
リリア・エヴァンジェル。
まるで、世界そのものが彼女を障害物として認識しているかのように。
「……ふざけないで」
リリアは扉に手を触れた。
「私は、誰かの邪魔をするために生まれたんじゃない」
その瞬間、扉が音もなく開いた。
◇
塔の最上階には、白い花が咲いていた。
しかし、その花はすべて裏返っていた。
白い花弁の裏側には黒い紋様が浮かび、中央には小さな銀色の結晶が埋め込まれている。
その花々の中心に、一人の少女が立っていた。
リリアと同じ顔。
同じ黒髪。
同じ青い瞳。
ただし、彼女の衣服は白く、胸元には黒い花が飾られていた。
「……来たのね」
少女は、静かに微笑んだ。
「待っていたわ、リリア」
「あなたは、何者なの?」
「前にも答えたはずよ。私は、あなたとは違う」
「違うのはわかっているわ。だから聞いているの。あなたは誰なの?」
少女は、しばらく黙っていた。
やがて、自分の胸元に手を置く。
「名前はないわ。少なくとも、今の私には」
「名前がない?」
「名前を与えられる前に、役目を与えられたから」
少女は、リリアをまっすぐに見た。
「私は、エリシアを目覚めさせるために生まれた。彼女の魂を繋ぎ直し、失われた記憶を取り戻し、彼女が愛した人を帰還させる。そのために必要なものとして、私は存在している」
「……それが、あなたの望みなの?」
「望み?」
少女は、不思議そうに首を傾げた。
「そんなもの、必要ないわ。私は役目を果たせばいい」
その言葉に、リリアの胸が痛んだ。
自分も、前世ではそうだった。
周囲に求められることを優先し、自分の気持ちを後回しにしていた。
嫌われないように。
失望されないように。
役に立つ人間でいられるように。
そうしているうちに、自分が何を望んでいるのかさえ、わからなくなってしまった。
「……本当に、それでいいの?」
リリアは尋ねた。
「役目を果たせば、それであなたは満足なの?」
「ええ」
「役目を果たしたあと、あなたはどうなるの?」
少女の表情が、初めて揺れた。
「……消えるわ」
あまりにも、あっさりとした答えだった。
「私の役目が終われば、未完の魂は完成する。エリシアの魂は完全に繋がり、彼女は再び目覚める。そして私は、必要なくなる」
「そんなの……!」
「だから、あなたが邪魔なのよ」
少女の声が冷たくなった。
「あなたが生きている限り、エリシアの魂は完全には繋がらない。あなたは彼女の記憶と力を受け継ぎながら、彼女とは別の魂として存在している。あなたがいることで、エリシアは自分自身に戻れない」
「私は、エリシアを拒絶したわけじゃない!」
「わかっているわ」
少女は微笑んだ。
「あなたは優しいもの。きっと、彼女を救いたいと思っている。だからこそ、私はあなたが嫌いなの」
リリアは言葉を失った。
「あなたは、自分が生きたいと思いながら、誰かを救いたいとも思っている。その二つを両立できると信じている。……そんなことが、本当にできると思う?」
少女は一歩近づいた。
「私は、最初から自分の命を必要としていない。私が消えることでエリシアが救われるのなら、それでいい。なのに、あなたは違う」
青い瞳が、リリアを射抜く。
「あなたが消えれば、あの人は帰ってこられる。それなのに、どうしてあなたは生きようとするの?」
リリアの喉が詰まった。
答えは、簡単ではなかった。
生きたい。
そう思う。
この世界で出会った人たちと、もっと一緒にいたい。
アレンと、まだ見たことのない景色を見たい。
ミラと笑い合い、セフィルが自分の意思で未来を選ぶところを見届けたい。
けれど、その願いのために誰かが消えるのなら。
自分だけが生きることを、どうして正しいと言えるのだろう。
「……私は」
リリアは、ゆっくりと口を開いた。
「あなたが消えてもいいとは思わない」
少女の瞳がわずかに見開かれた。
「私は、自分が生きたいと思っている。でも、だからといって、あなたが消えるべきだとは思わない」
「綺麗事ね」
「そうかもしれない」
リリアは否定しなかった。
「今の私には、あなたもエリシアも救える方法なんてわからない。世界を壊さずに観測者を取り戻す方法だって、まだ見つけられていない」
彼女は一歩、少女に近づいた。
「でも、わからないことと、できないことは違う。誰かが最初から諦めてしまったら、そこで終わってしまうでしょう?」
「……あなたは、私に生きろと言うの?」
「違うわ」
リリアは首を横に振った。
「あなたが生きたいかどうかを、あなた自身に考えてほしいの」
少女の顔から、笑みが消えた。
「私は、役目を果たすために生まれたのよ」
「それでも」
「エリシアを救うために存在しているの!」
「それでもよ!」
リリアの声が、塔の最上階に響いた。
「誰かのために生まれたとしても、誰かのためだけに生きなければならないわけじゃない!」
少女が息を呑む。
「あなたが何を望んでいるのか、私は知らない。自分の命が必要ないと思っているのかもしれない。でも、それが本当にあなた自身の気持ちなのか、それとも最初からそう思うように作られたのか、あなたは考えたことがあるの?」
少女は答えなかった。
その沈黙こそが、リリアの問いに対する唯一の反応だった。
◇
「……黙って」
少女の足元から、黒い紋様が広がった。
裏返った白い花が一斉に震え、銀色の結晶が不気味な光を放つ。
「あなたの言葉なんて聞きたくない」
「どうして?」
「あなたは、私の役目を壊そうとするから!」
少女が手をかざした。
黒い花弁が舞い上がり、無数の刃となってリリアへ向かう。
「リリア!」
アレンが飛び出そうとした。
しかし、その前にリリアが手を上げた。
「大丈夫!」
彼女は《創世の理》を発動させた。
白い光が広がり、黒い刃を包み込む。
けれど、刃は消えなかった。
光と黒がぶつかり合い、空間に亀裂が走る。
「っ……!」
激痛が腕を駆け上がった。
鼻先から血が落ちる。
世界の法則を書き換えようとするたび、外側から押し返されるような感覚があった。
境界の管理者が言っていたことは、間違いではない。
この力を使い続ければ、世界そのものが傷つく。
「やめなさい、リリア!」
セフィルが叫んだ。
「このままでは境界が――!」
「わかってる……!」
リリアは歯を食いしばった。
力で押し切ることはできない。
それなら、別の方法を探すしかない。
彼女は黒い刃ではなく、その奥にある少女の胸元を見つめた。
黒い花。
その中央に刻まれた、見覚えのある紋様。
――未完の魂。
以前は、ただの記録だと思っていた。
けれど今は違う。
この紋様は、少女の存在そのものに刻まれている。
彼女は、未完なのだ。
だからといって、欠けているから価値がないわけではない。
完成しなければ存在してはいけないわけでもない。
「……あなたは、完成しなくてもいいのよ」
リリアは呟いた。
少女の動きが止まった。
「……何ですって?」
「エリシアの魂を完成させるために、あなたが消えなければならない。そんな決まりがあるのなら、その決まりを作ったものに理由を聞けばいい」
「そんなこと……できるわけがない!」
「どうして?」
「だって、そうしなければ、あの人は――」
少女の声が途切れた。
その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
リリアは、その涙を見逃さなかった。
「……あなたは、本当は怖いんじゃないの?」
「違う!」
「自分が消えることが怖いんじゃなくて……」
リリアは、静かに言った。
「自分が消えたあと、エリシアが本当に幸せになれるのか。それが、わからないのが怖いんじゃないの?」
少女の顔が歪んだ。
「やめて……」
「あなたは、エリシアを救いたい。でも、彼女が目覚めたあと、あなたがいなくても幸せになれるのか。自分が必要なくなっても、彼女があなたを覚えていてくれるのか。そういうことを、一度も考えなかった?」
「やめて!」
少女の叫びと同時に、黒い花が爆発した。
リリアの身体が吹き飛ばされる。
「リリア!」
アレンが彼女を受け止めた。
背中に衝撃が走り、息が詰まる。
それでも、リリアは少女から目を逸らさなかった。
少女は両手で顔を覆っていた。
肩が、小さく震えている。
「……私は、あの人に必要とされたかった」
かすかな声だった。
「役目を果たせば、あの人が笑ってくれると思った。私が消えれば、あの人は帰ってこられる。そうすれば、私が存在した意味も……」
言葉が続かない。
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……なのに、あなたは」
涙に濡れた青い瞳が、リリアを見つめる。
「あなたは、私に意味なんてなくてもいいと言うの?」
「……ええ」
リリアは答えた。
「意味がなくても、生きていていい。誰かの役に立てなくても、必要とされなくても、自分がどうしたいのかを考えていい」
その言葉は、かつての自分自身に向けたものでもあった。
誰かに認められるためだけに生きなくていい。
役に立つから価値があるのではない。
そう思えるようになるまで、リリアは長い時間を必要とした。
だからこそ、彼女は少女に伝えたかった。
「あなたが何者なのか、私はまだ知らない。どうして生まれたのかも、どうすればエリシアを救えるのかもわからない」
リリアは、手を差し伸べた。
「でも、あなたが自分自身の未来を選ぶことなら、今からでもできるはずよ」
少女は、その手を見つめた。
長い沈黙が流れる。
やがて、彼女はゆっくりと手を伸ばしかけた。
その瞬間だった。
少女の胸元に刻まれた黒い花が、突然、真紅に染まった。
「――っ!?」
少女の身体が硬直する。
見えない鎖に縛られたように、彼女の首筋に黒い文字が浮かび上がった。
『未完の魂に、選択権はない』
聞いたことのない声が、塔全体に響いた。
『与えられた役目を果たせ』
少女の瞳から、光が消えていく。
「いや……」
彼女は震える唇で呟いた。
「私は……まだ……」
黒い紋様が、彼女の身体を覆い始めた。
セフィルが駆け寄ろうとする。
「これは命令の刻印……! 誰かが、彼女の意思を封じている!」
「解除できないの!?」
「無理です! 僕の権限では届かない。これは世界の内側の法則ではない……!」
リリアは立ち上がった。
身体は痛み、力もほとんど残っていない。
それでも、手を伸ばす。
「待って! あなたは、まだ何も選んでいない!」
少女が顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、最後にリリアを映す。
「……リリア」
初めて、彼女はその名前を呼んだ。
「もし、私が……私自身の意思で生きたいと願ったら……」
「ええ」
リリアは迷わず答えた。
「そのときは、一緒に方法を探しましょう」
少女の唇が、かすかに動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
けれど、その表情が完成する前に、黒い光が彼女を包み込んだ。
「――いやああああっ!」
絶叫が響く。
光が弾けた。
少女の姿が消え、あとには黒く染まった白い花だけが残された。
リリアは、その花を拾い上げた。
花弁の裏側に、新たな文字が浮かび上がっている。
――未完の魂。
――強制帰還。
――接続先:世界外縁。
――帰還期限:三日後。
リリアの手が震えた。
少女は、世界の外側へ連れ戻されたのだ。
誰かに命令され、誰かに利用され、自分自身の未来を選ぶ機会さえ与えられないまま。
「……許さない」
リリアは、花を握りしめた。
自分と同じ顔をした少女。
彼女は、リリアを消そうとした。
それでも、リリアは彼女を憎めなかった。
なぜなら、彼女もまた、自分の生き方を誰かに決められていたからだ。
そして、今度こそ。
リリアは、誰かが決めた結末を受け入れるつもりはなかった。
「三日後……」
リリアは顔を上げた。
「世界の外側へ行く方法を探すわ。あの子を取り戻すために。そして、誰があの子の意思を奪ったのかを確かめるために」
アレンが、彼女の隣に立った。
「なら、俺も行く」
ミラも頷く。
「もちろん、私も!」
セフィルは、黒く染まった花を見つめながら静かに言った。
「……僕も、知る必要があります。神々が隠してきたもの。そして、僕自身が何者なのかを」
レオンは剣を収めた。
「行こう。世界の外側に何が待っていようと、ここで立ち止まるわけにはいかない」
リリアは仲間たちを見つめた。
恐怖はある。
自分たちが何に立ち向かおうとしているのか、まだわからない。
それでも、一人ではなかった。
そして、今までとは違う目的ができた。
世界を救うためだけではない。
創造主を救うためだけでもない。
自分と同じ顔をした少女が、自分自身の意思で未来を選べるようにするため。
リリアは、もう一度、黒い花を見つめた。
その花弁の奥で、小さな光が一瞬だけ瞬いた。
まるで、遠く離れた場所から、誰かが返事をしたかのように。
◇
世界の外側。
無数の黒い目が浮かぶ空間で、白い衣服の少女が膝をついていた。
黒い鎖が、彼女の手足を縛っている。
目の前には、輪郭の定まらない影が立っていた。
『余計なことを考えたな』
「……私は」
『お前に意思は与えていない』
影が手を伸ばす。
少女の胸元に刻まれた黒い花が、さらに深く染まった。
『お前は、エリシアを帰還させるための器だ。それ以上でも、それ以下でもない』
少女は唇を噛んだ。
涙がこぼれる。
それでも、彼女は小さく呟いた。
「……私は、消えたくない」
その声は、誰にも届かないはずだった。
けれど。
遠く離れた神殿で、リリアの手の中にあった黒い花が、かすかに震えた。
少女の声が、ほんの一瞬だけ届いたのだ。
――私は、消えたくない。
リリアは、その声を確かに聞いた。
第五十二話・終
次回、第五十三話「世界の外側へ続く扉」
未完の魂を救うため、リリアたちは境界の管理者を探す。しかし、世界の外側へ通じる扉を開くには、創造者たちが隠してきた「最初の契約」を解き明かさなければならなかった。
そしてセフィルの記憶に、決して思い出してはならないはずの一文が蘇る。
――「世界を創ったのは、エリシアだけではない」。




