第51話 世界の外側から来る使者
第51話 世界の外側から来る使者
白い花が、黒く染まった。
その瞬間、世界のどこかで鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
神殿の最奥にいたリリアたちは、その音を聞いていた。
しかし、鐘の音が響いたのは神殿の中だけではなかった。
遠く離れた王都でも、山奥の村でも、神々を祀る七つの神殿でも。
人々が空を見上げる。
雲一つない青空に、黒い亀裂が走っていた。
「……何、あれ?」
ミラが窓の外を指さした。
神殿の天井に描かれた星の紋様が、一つずつ光を失っていく。
セフィルは顔色を変えた。
「世界の基盤が、揺らいでいる……?」
「三日後に接続するという話だったはずだ」
レオンが剣を抜きかける。
「なぜ、今になって動き始めた?」
誰も答えられなかった。
ただ一人、第三創造者だけが、何かを悟ったように目を伏せていた。
「……期限を待つつもりなど、最初からなかったのね」
「第三創造者。あなたは、何を知っているの?」
リリアの問いに、女性は顔を上げた。
「世界の外側にいる存在は、私たちが定めた規則に従わない。期限も、警告も、彼らにとっては意味を持たないのよ」
「それなら、どうして三日後という期限が表示されたの?」
「私たちに考える時間を与えるためではないわ」
第三創造者は、結晶の中で目を閉じたエリシアを見つめた。
「三日後までに、世界の側が彼らを受け入れられる状態になる。そういう意味だったのよ」
リリアの背筋に、冷たいものが走った。
世界が受け入れられる状態になる。
つまり、今起きているのは、接続の準備。
外側にいる何者かが、こちら側へ侵入するための準備なのだ。
「……止める方法は?」
「わからない」
第三創造者は、初めてはっきりと認めた。
「私は世界を創った者の一人ではあるけれど、世界の外側すべてを知っているわけではない。私たちの知らないものが、まだ存在している」
その言葉が終わるより早く。
神殿の扉が、内側から開いた。
◇
そこに立っていたのは、見知らぬ青年だった。
年齢は二十歳前後。
黒い髪に、灰色の瞳。
白い外套をまとい、胸元には七柱の神々の紋章とも、創造者の紋章とも異なる印が刻まれていた。
彼は武器を持っていなかった。
けれど、リリアが彼を見た瞬間、身体の奥で何かが警告を発した。
近づいてはいけない。
この存在に触れてはいけない。
そんな本能的な拒絶だった。
「……あなたは誰?」
リリアが尋ねる。
青年は穏やかに微笑んだ。
「私の名前を知る必要はない。少なくとも、今はね」
「名前も名乗らずに、ここへ入ってきたの?」
「扉が開いていたから」
「ここは神殿よ。誰でも入れる場所じゃないわ」
「そうだろうね」
青年は、まるで世間話でもするように答えた。
「けれど、君たちの世界にある扉は、すべて君たちの世界の内側にある。外側にいる私には、どれも障害にならない」
セフィルが一歩前へ出た。
「あなたは、世界の外側から来たのですか」
「正確には、外側と内側の境界にいる者だ」
青年はセフィルを見た。
その瞬間、彼の灰色の瞳がわずかに揺れた。
「……なるほど。名前を取り戻したのか」
「何?」
「セフィル・ルシエン。君は本来、ここにいるべき存在ではなかった」
セフィルの顔から表情が消えた。
第三創造者が息を呑む。
「あなた……どこまで知っているの?」
「必要なことは、すべて」
青年は彼女を一瞥した。
「ただし、君が隠してきたことまでは、すべて把握していない。君たちは、世界の内側で起きたことを自分たちだけで完結させようとしたからね」
「……あなたは、誰の使者なの?」
「誰の使者でもない」
青年は静かに言った。
「私は、境界の管理者。世界が生まれる前から、世界と世界の間に存在していたものを見届けてきた」
その言葉を聞いた瞬間、結晶の中のエリシアが目を開いた。
「……境界の管理者」
彼女の声が震える。
「あなたが、ここに来たということは……」
「そうだ」
青年は結晶に目を向けた。
「君が目覚めた。だから、こちらも動くことになった」
「私は……彼を取り戻したいだけなの」
「知っている」
「世界を壊したいわけじゃない。誰かを犠牲にしたいわけでもない」
「それも知っている」
青年は、淡々と答えた。
「だが、君の願いが正しいかどうかと、その願いを叶えてよいかどうかは、別の問題だ」
リリアは思わず拳を握った。
「待って。あなたは、エリシアを責めるために来たの?」
「責める?」
青年は不思議そうに首を傾げた。
「私は、誰かを責めるために存在しているわけではない。私の役目は、世界が維持できるかどうかを判断することだ」
「判断するって……」
「君たちの世界は、すでに一度、崩壊しかけた。その原因となった力が再び動き始めている。だから私は、確認に来た」
青年の視線が、リリアへ向いた。
「君が、その力を受け継いだ者なのかを」
◇
リリアは、青年の視線を受け止めた。
「……そうよ。私には《創世の理》がある」
「違う」
青年は即座に否定した。
「君が持っているのは、その力だけではない」
「どういう意味?」
「君の魂は、この世界の法則に完全には属していない」
神殿の空気が凍りついた。
アレンがリリアの前に立つ。
「彼女は、この世界に生まれた人間だ」
「肉体はね」
青年は否定も肯定もせずに言った。
「だが、魂は違う。彼女は世界の法則に登録された魂でありながら、その法則によって完全には定義できない。神々が彼女を拒絶した理由の一端も、そこにある」
「一端……?」
リリアは眉を寄せた。
「神々が私を処刑しようとした理由を、あなたは知っているの?」
「すべてではない。ただ、彼らが恐れていたものはわかる」
青年はリリアを見つめた。
「君が世界の法則を変えるからではない。君が、世界の法則に従わない未来を選べるからだ」
リリアは息を止めた。
自分の力が危険だから、神々は恐れた。
そう思っていた。
しかし、違うのだろうか。
力そのものではなく、その力を持つ自分が、神々の想定した未来から外れること。
それこそが、彼らにとっての脅威だったのか。
「……それなら、私は異常な存在なの?」
「異常という言葉は、誰が決めた?」
青年は逆に問いかけた。
「神々か。創造者か。それとも、世界の外側にいる私たちか」
答えられる者はいなかった。
「君は、君自身の意思で生きている。それだけは確かだ。だが――」
青年の灰色の瞳が、鋭くなる。
「君が生まれたこと自体が、この世界にとっての異常なのだ」
アレンが剣を抜いた。
「それ以上、彼女を侮辱するな」
「侮辱ではない。事実を告げているだけだ」
「事実なら何を言ってもいいというのか!」
アレンの声が神殿に響く。
青年は彼を見た。
「君は、彼女が何者であっても、守るつもりなのか?」
「当然だ」
「彼女が世界を壊す存在だったとしても?」
「……彼女は、まだ何も選んでいない」
アレンは一歩も退かなかった。
「選んでもいない未来を理由に、彼女を裁かせはしない」
その言葉に、リリアの胸が熱くなった。
けれど、青年は笑わなかった。
「なるほど。それが、君の選択か」
彼は小さく頷いた。
「ならば、君も覚悟しておくといい。彼女を守るということは、彼女が選んだ未来の結果からも逃げないということだ」
「わかっている」
「本当に?」
青年の問いかけに、アレンは沈黙した。
それでも、剣を下ろすことはなかった。
リリアは、彼の背中を見つめた。
自分を守ろうとしてくれる人がいる。
その事実が、嬉しかった。
同時に、彼にすべてを背負わせてはいけないとも思った。
「……もういいわ」
リリアはアレンの隣に並んだ。
「私のことなら、私に話して」
青年の視線が戻る。
「あなたは、私を異常だと言った。なら、どうすればいいの? 私が生まれたことが間違いなら、私は消えればいいの?」
「それは、私が決めることではない」
「なら、あなたは何をしに来たの?」
「君に、選択の意味を教えに来た」
青年は胸元の紋章に触れた。
「世界の外側には、君たちがまだ知らない法則がある。そして、その法則は、君の存在を受け入れていない」
「……受け入れていない?」
「君が《創世の理》を使うたび、世界の内側と外側の境界が揺らいでいる。今は小さな歪みで済んでいるが、これ以上続けば、君たちの世界は外側から切り離される可能性がある」
ミラが顔を青ざめさせた。
「切り離されるって……どうなるの?」
「世界が孤立する。外側からの干渉だけではなく、世界を維持するための接続も失われる」
「それは……世界が滅びるということ?」
「すぐにではない。だが、時間の問題になるだろう」
リリアは唇を噛んだ。
力を使えば、世界が壊れるかもしれない。
使わなければ、誰かを救えないかもしれない。
また、選択肢を突きつけられる。
けれど、今回は違った。
「……あなたの話はわかったわ」
リリアは、まっすぐに青年を見た。
「でも、私は自分の存在を否定しない。私が生まれたことが、あなたたちの法則にとって異常だとしても、それだけで私が消える理由にはならない」
青年の瞳が、わずかに揺れた。
「そして、世界を守るために必要なことがあるなら、私はそれを知りたい。力の使い方も、境界の仕組みも。何も知らずに誰かを犠牲にするのは、もう嫌なの」
「……そうか」
青年はしばらくリリアを見つめたあと、懐から小さな黒い石を取り出した。
表面には、見たことのない紋様が刻まれている。
「これを持っていなさい」
「これは?」
「境界の欠片だ。君が世界の法則を変えたとき、その影響が外側へどの程度及んでいるかを知ることができる」
「そんな大切なものを、どうして私に?」
「君が危険な存在だからだ」
青年は淡々と言った。
「監視するためでもある。だが、それだけではない」
「それだけではない?」
「君が自分の意思で、世界を壊さずに未来を変えられるのなら……その可能性を、私も見届ける必要がある」
それは、初めて彼が見せた、わずかな譲歩だった。
リリアは黒い石を受け取った。
冷たい。
しかし、触れている指先に、不思議な温かさが伝わってきた。
「……ありがとう」
「礼を言われることではない」
青年は踵を返した。
「私は、境界の管理者。世界の内側に留まることはできない。必要なことを伝えた以上、ここを去る」
「待って!」
リリアは呼び止めた。
「あなたは、エリシアと観測者のことを知っているのよね?」
青年の足が止まった。
「……知っている」
「なら、教えて。あの人は、なぜ世界の外側にいるの?」
青年は振り返らなかった。
「彼自身が、そこに留まることを選んだからだ」
「でも、エリシアは彼を取り戻したいと言っている」
「彼女の願いと、彼の選択は、必ずしも一致しない」
その言葉が、リリアの胸に重く落ちた。
観測者は、誰かに囚われているのではないのかもしれない。
彼自身が、世界を守るために外側に留まっている。
だとすれば、彼を連れ戻すことは、本当に彼を救うことなのだろうか。
「……最後に、一つだけ」
青年は、静かに告げた。
「君が受け継いだものの中には、エリシアが残した力だけではなく、彼女が最後まで手放せなかった願いもある」
リリアは息を呑んだ。
「その願いを、君自身の望みだと思い込んではいけない」
青年は振り返り、初めてはっきりとリリアの目を見た。
「君が誰かを救いたいと思ったとき、それが本当に君自身の願いなのか。それとも、誰かの記憶に導かれたものなのか。必ず、自分に問いなさい」
次の瞬間、彼の姿が薄れていく。
神殿の空気が元に戻り、星の紋様に再び光が灯った。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
けれど、リリアの手には黒い石が残されていた。
そして、結晶の中では、エリシアが静かに涙を流していた。
「……あの人の言うとおりよ」
エリシアは、小さく呟いた。
「あなたが私を救いたいと思ってくれても、それがあなた自身の願いとは限らない」
「エリシア……」
「だから、リリア。お願いがあるの」
彼女は、結晶越しにリリアを見つめた。
「私を救うかどうかを決める前に、一度だけ……私の願いを忘れて」
リリアは目を見開いた。
「忘れるって、どういうこと?」
「私が彼を取り戻したいと思っていること。私が後悔していること。私が失ったものを、もう一度手に入れたいと思っていること」
エリシアは微笑んだ。
「それらを全部、私の願いとして受け止めて。あなたの願いと混ぜないで」
リリアは、すぐには答えられなかった。
エリシアを救いたい。
観測者のことも知りたい。
けれど、その気持ちのどこまでが自分自身のものなのか、まだわからない。
だからこそ。
「……わかった」
リリアは、ゆっくりとうなずいた。
「私は、あなたの願いを否定しない。でも、それを自分の願いだと決めつけたりもしない」
「ありがとう」
エリシアは目を閉じた。
その表情は、少しだけ安らいでいた。
しかし、その安らぎは長く続かなかった。
リリアの手の中で、黒い石が突然震えた。
表面に刻まれた紋様が赤く染まり、石の中央に一つの文字が浮かび上がる。
――警告。
――境界外からの第二接続を検知。
――接続対象:未完の魂。
リリアの背筋が凍った。
「……未完の魂?」
忘却の塔で見つけた、白い花弁。
自分と同じ顔を持つ少女。
そして、エリシアの魂が完全に繋がることを妨げているという、謎の存在。
その少女が、世界の外側と接続しようとしている。
セフィルが石を覗き込んだ。
「そんな……。彼女は、世界の内側にいるはずです」
「違うわ」
第三創造者が、震える声で言った。
「私たちは、あの子が内側にいると信じていただけ」
全員の視線が、彼女に集まった。
第三創造者は、結晶の中のエリシアを見つめた。
「……あの子を生み出したとき、私は一つのことを隠した」
「何を隠したの?」
リリアの問いに、女性は答えた。
「未完の魂は、エリシアの魂の一部から生まれた。けれど、あの子の存在を成立させたのは、エリシアの力だけではない」
「それって……」
「世界の外側にいる、何者かの力も混ざっているのよ」
神殿に、再び沈黙が落ちた。
リリアは黒い石を強く握りしめた。
エリシアの魂。
世界の外側。
未完の魂。
すべてが、一本の糸で繋がり始めている。
そして、その糸の先には、自分と同じ顔をした少女がいる。
彼女は、何者なのか。
なぜ、リリアを消そうとしているのか。
そして――彼女が帰ってきたとき、エリシアの魂には何が起こるのか。
答えは、まだ見えない。
ただ一つ、確かなことがあった。
三日後を待たずして、世界の外側は動き始めた。
そして今度は、世界の内側にいる誰かが、その扉を開こうとしている。
第五十一話・
次回、第五十二話「もう一人のリリアが望むもの」
境界の欠片が示した接続先を追い、リリアたちは忘却の塔へ戻る。そこで待っていたのは、自分と同じ顔を持つ少女だった。
彼女は、リリアを憎んでいるだけではなかった。
「あなたが消えれば、あの人は帰ってこられる。……それなのに、どうしてあなたは生きようとするの?」




