第50話 目覚めた創造主と、世界を拒む声
第50話 目覚めた創造主と、世界を拒む声
――世界の外側で、何かが砕ける音がした。
それは、耳で聞いた音ではなかった。
リリアの魂の奥深くに響き、胸の内側を震わせる、世界そのものの悲鳴だった。
「……っ!」
リリアは反射的に胸元を押さえた。
白い花が咲き乱れる神殿の最奥。透明な結晶の中で、銀髪の少女――エリシアが、ゆっくりと目を開いていた。
その瞳は、長い眠りから覚めた者のものとは思えないほど澄んでいた。
けれど。
そこに映っているのは、目覚めた世界への喜びではなかった。
深い悲しみと、恐怖。
そして、決して消えることのない後悔だった。
「……どうして」
エリシアの唇が、かすかに動く。
「どうして、あなたがそこにいるの……?」
彼女の視線は、リリアではなく、結晶の奥に伸びる銀色の影へと向けられていた。
紫色の瞳を持つ青年。
世界の外側に留まり続けた、原初の観測者。
その姿が、結晶の内側に浮かび上がっている。
まるで、エリシアの魂が目覚めるのを待っていたかのように。
「エリシア……?」
リリアが呼びかける。
しかし、エリシアは答えなかった。
彼女は震える指先を結晶へ伸ばした。
「違う……。あなたは、まだ戻ってきてはいけない」
その瞬間。
結晶に、黒い亀裂が走った。
一本。
二本。
三本。
白い花が一斉にしおれ、神殿全体が激しく揺れ始めた。
「全員、下がれ!」
レオンが叫び、ミラをかばうように前へ出た。
セフィルは即座に神性を展開したが、銀色の光は結晶に触れる直前、何かに拒絶されて弾き返された。
「そんな……! 僕の権限が、通じない?」
「セフィル、何が起きているの!?」
ミラの声が響く。
セフィルは答えられなかった。
彼にも、わからなかったのだ。
かつて世界の法則に干渉し、神々の権限さえ覆した第二創造者の力。
それが今、たった一つの結晶に触れることすら許されていない。
まるで――この場所そのものが、彼らの存在を拒絶しているかのようだった。
◇
「第三創造者!」
リリアは、結晶のそばに立ち尽くす黒髪の女性へ振り向いた。
金色の瞳を持つ彼女は、結晶を見つめたまま動かない。
その顔からは、血の気が失われていた。
「何が起きているの? エリシアが目覚めたから? それとも、あの人が……!」
「違うわ」
第三創造者は、かすれた声で答えた。
「目覚めたこと自体が、原因ではない」
「じゃあ、何が原因なの?」
女性は唇を噛んだ。
そして、ようやくリリアを見た。
「……彼が、こちら側を見ているのよ」
「こちら側を?」
「ええ。今までは、世界の外側に留まっていた。こちらを観測し、世界が壊れないように、決して干渉しなかった。けれど今は違う」
結晶の亀裂が、さらに広がる。
「彼は、世界の内側にいるエリシアを認識した。そして、エリシアもまた、彼を認識した」
第三創造者の声が震えた。
「本来なら、その二つが再び繋がることはなかった。私たちが、そう定めたから」
「……誰が?」
リリアの問いに、女性は答えなかった。
その沈黙が、答えのようだった。
神々。
あるいは、神々よりもさらに外側にいる何者か。
リリアたちが知っている世界の仕組みは、まだ全体のほんの一部にすぎない。
「リリア」
結晶の中から、エリシアの声が響いた。
「お願い……。あの人の声が聞こえても、決して答えないで」
「どうして?」
「彼は、あなたを呼んでいるのではないから」
エリシアの瞳に、涙が浮かんだ。
「彼が呼んでいるのは……私が、かつて置き去りにしたもの」
リリアは息を呑んだ。
置き去りにしたもの。
それは、記憶なのか。
罪なのか。
それとも、エリシアが世界を創る前から抱えていた、何か別の存在なのか。
「エリシア、あなたは何を隠しているの?」
問いかけた瞬間。
リリアの頭の中に、知らない光景が流れ込んできた。
果てのない暗闇。
その中央に立つ、幼いエリシア。
彼女の前には、紫色の瞳を持つ青年がいた。
そして、その二人を見下ろすように、無数の黒い目が浮かんでいた。
声が聞こえる。
『創造主よ。あなたが世界を望むなら、代償を選びなさい』
幼いエリシアは、首を横に振った。
『誰も犠牲にしない。私は、そんな世界を創るために――』
『ならば、あなた自身が代償となる』
黒い目が、一斉に開く。
『あなたが愛したものを、あなたの手で終わらせよ』
映像が途切れた。
「――っ!」
リリアは膝をついた。
「リリア!」
アレンが駆け寄り、その身体を支える。
「大丈夫か!?」
「今……何かが見えた。エリシアが、誰かと話していて……黒い目が、たくさん……」
その言葉を聞いた瞬間、第三創造者の表情が凍りついた。
「……見てしまったのね」
「あなたは知っているの?」
「ええ」
女性は、ゆっくりとうなずいた。
「それこそが、私があなたに思い出してほしくなかった記憶の一つ」
「どうして? 私が知ってはいけない理由は何?」
「あなたが知れば、選ばなければならなくなるからよ」
「何を?」
第三創造者は答えなかった。
代わりに、結晶の中のエリシアが目を伏せた。
「……世界を守ることと、彼を取り戻すこと」
その声には、長い年月を経ても癒えない痛みが滲んでいた。
「かつての私は、その二つを同時に叶えようとした。けれど、私は間違えた。選ばなくてはならないことから目を逸らし、すべてを失うくらいなら、自分がすべてを背負えばいいと思った」
エリシアはリリアを見つめた。
「だから、あなたには同じ過ちを犯してほしくない」
「……私は、あなたとは違う」
リリアは、アレンの手を借りて立ち上がった。
「あなたの記憶を受け継いでいても、あなたの力を持っていても、私はあなたじゃない。だから、あなたと同じ選択をするとは限らない」
結晶の中で、エリシアの瞳が揺れた。
「でも、もしあなたが選んだ道の先に、誰かの犠牲が必要になったら?」
「そのときは、犠牲を出さずに済む方法を探す」
「見つからなかったら?」
「それでも、探す」
リリアは、はっきりと答えた。
「最初から諦めて、誰かを犠牲にすることを正しいことにしたくない。もちろん、必ずうまくいくなんて思っていない。でも、何も知らないまま選ぶのは嫌なの」
エリシアは、しばらく黙っていた。
やがて、ほんのわずかに微笑んだ。
「……あなたは、本当に私とは違うのね」
その言葉と同時に、結晶の亀裂が止まった。
しかし、完全に消えたわけではない。
銀色の影は、依然としてそこにあった。
そして。
結晶の奥から、声が響いた。
『――エリシア』
青年の声だった。
遠く、深く、世界の外側から届く声。
『君は、まだそこにいるのか』
エリシアは息を止めた。
涙が、一筋頬を伝う。
「……いるわ」
彼女は答えた。
「私は、まだここにいる」
『ならば、なぜ――』
声が途切れる。
次の瞬間、神殿の壁に黒い文字が浮かび上がった。
それは神々の言語でも、創造者の記録に使われた文字でもなかった。
リリアは、なぜかその意味を理解できた。
――世界の外側より、接続要求。
――対象:原初の観測者。
――接続理由:未完了の約束。
――応答者:エリシア。
そして最後の一文。
――拒否した場合、世界の基盤を再評価する。
「世界の基盤を……再評価?」
セフィルが呟いた。
彼の顔から、表情が消えていた。
「これは、警告じゃない。世界そのものに対する、権限行使の宣告だ」
「誰が、そんなことを……」
ミラが言いかけた、そのとき。
結晶の奥の青年が、初めてリリアの方を向いた。
紫色の瞳。
その眼差しは、確かにリリアを捉えていた。
『君が、今の創造者か』
リリアは息を呑んだ。
『ならば、聞かせてほしい』
青年の声に、怒りはなかった。
ただ、深い疲労と、諦めにも似た静けさがあった。
『君は、彼女を救うために世界を壊すのか』
リリアは、すぐには答えられなかった。
その問いは、かつてエリシアが突きつけられた問いと同じなのだろう。
そして、彼はもう一つの問いを口にした。
『それとも――彼女を救わないまま、世界を守るのか』
エリシアが、結晶の中で目を閉じた。
「……やめて」
小さな声だった。
「もう、そんな選択をさせないで……」
けれど、青年は彼女を見つめ続けた。
『エリシア。今度こそ、君自身の答えを聞きたい』
リリアは、結晶へ一歩近づいた。
彼を取り戻したいエリシア。
世界を守ろうとする観測者。
そして、その二つの願いの間に立つ自分。
自分が何者なのかさえ、まだすべてはわからない。
それでも。
「……私は、まだ答えを出さない」
リリアは、青年を見つめ返した。
「あなたが誰なのか。エリシアと何を約束したのか。世界の外側で何が起きているのか。全部を知るまでは、選ばない」
『それは、時間稼ぎか?』
「違うわ」
リリアは首を横に振った。
「誰かが決めた二つの選択肢だけが、すべてだとは思わないから」
沈黙が落ちた。
青年の紫色の瞳が、わずかに見開かれる。
そして、その口元に微かな笑みが浮かんだ。
『……そうか』
その瞬間、黒い文字が一斉に消えた。
結晶の亀裂も、これ以上は広がらなくなった。
けれど、最後に残された一文だけは、消えなかった。
――接続期限:三日後。
リリアは、その文字を見つめた。
三日後。
それまでに、答えを見つけなければならない。
エリシアが隠した罪。
観測者が世界の外側に残った理由。
そして、神々よりも外側にいる存在の正体。
「……三日で、すべてを調べるなんて」
ミラが不安げに呟いた。
「無理だとは言わない」
レオンが剣の柄に手を置く。
「だが、相手が神々より上位の存在なら、これまでの戦いとは次元が違う」
セフィルは、結晶を見つめたまま静かに言った。
「いいえ。違うのは、敵の強さだけじゃありません」
彼は自分の胸元に手を当てた。
「今度は、誰かの命令に従うのではなく、僕自身の意思で選ばなければならない」
リリアは、仲間たちを見渡した。
誰もが恐れていた。
それでも、誰一人として逃げようとはしなかった。
リリアは、小さく息を吸った。
「なら、始めましょう。三日後に何が起きても、私たちが自分の意思で答えられるように」
その言葉に、エリシアは目を伏せた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……ごめんなさい」
彼女が謝った相手は、リリアではなかった。
結晶の奥にいる青年でもなかった。
もっと遠い場所。
まだ誰も、その存在を知らない場所に向けられた言葉だった。
――その頃。
世界の外側。
光も闇も存在しない空間で、一つの黒い目がゆっくりと開いた。
『創造者が、再び選択を拒んだか』
無数の声が重なり合う。
『ならば、次は選択そのものを奪えばいい』
黒い目の前に、白い花が一輪浮かんだ。
花弁の中央には、小さな文字が刻まれている。
――未完の魂。
『あの少女が、世界を変える前に』
黒い目が細められた。
『今度こそ、すべてを終わらせよう』
白い花が、音もなく黒く染まった。
第五十話・
次回、第五十一話「世界の外側から来る使者」
三日後の接続期限を前に、神殿に現れる謎の使者。彼は神々にも創造者にも属さない存在だった。そして、リリアに告げる。
「君が生まれたこと自体が、この世界にとっての異常なのだ」と。




