第39話 殺された創造者
第39話 殺された創造者
忘却の塔は、泣いているようだった。
黒い壁の奥から、かすかな嗚咽が聞こえる。
誰かが、ずっと泣き続けている。
長い時間を越えて。
誰にも気づかれない場所で。
リリアはアレンに支えられながら、黒い扉を見つめていた。
「……今の声」
震える唇から、言葉がこぼれる。
「私が、あなたを殺したって……そう言ったの?」
返事はない。
先ほどまでリリアに語りかけていた声は、完全に沈黙していた。
代わりに、扉の中央に開いていた金色の瞳が、ゆっくりと閉じていく。
最後に残ったのは、冷たい文字だった。
《第三の記憶、閲覧拒否》
《記憶の対象者――生存確認》
リリアは、思わず息を止めた。
「生存……確認?」
ミラが文字を読み上げる。
「待って。リリアが殺した相手が生きているってこと?」
「そうとは限らない」
セフィルが静かに答えた。
「この塔が確認しているのは、記憶の対象者だ。肉体が生きているのか、魂が存在しているのか、それとも世界の外で意識だけが残っているのか……そこまでは分からない」
「でも、完全に消えたわけじゃないんだね」
リリアは、扉に向かって一歩踏み出した。
胸の奥が痛い。
恐ろしい。
それでも、知りたかった。
自分が何をしたのか。
そして、あの声の主がなぜ自分に「憎まないで」と言ったのか。
「もう一度、確かめたい」
「駄目だ」
アレンが即座に答えた。
「今の状態で、これ以上力を使わせるわけにはいかない」
「でも……」
「リリア」
アレンは彼女の肩に手を置いた。
「お前が真実を知りたいことは分かっている。俺だって知りたい。だが、真実を知るためにお前が壊れる必要はない」
その言葉に、リリアは視線を落とした。
前世の自分なら、きっと笑ってごまかしていただろう。
大丈夫だと。
自分さえ我慢すればいいのだと。
誰かに心配をかけないために、苦しさを隠していた。
けれど、今は違う。
「……分かった。今は、もう使わない」
リリアがそう答えると、アレンの表情からわずかに緊張が消えた。
その様子を見て、リリアは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
誰かを心配させたくないから、何も言わない。
それは優しさではなく、ただの逃げだったのかもしれない。
自分の弱さを見せることも、誰かを信じることも、彼女にはまだ難しい。
それでも。
少しずつ、変わっていきたいと思った。
◇
塔の扉が開いたのは、その直後だった。
重い音を立てて、黒い扉が左右に分かれる。
その先には、果てしなく続く螺旋階段があった。
壁には無数の小さな結晶が埋め込まれている。
結晶のひとつひとつに、誰かの記憶が閉じ込められているのだろう。
笑顔。
涙。
怒り。
別れ。
そして、誰にも知られなかった約束。
リリアが一歩踏み入れた瞬間、壁の結晶が一斉に光った。
『エリシア』
『創造主』
『裏切り者』
『殺人者』
さまざまな声が、彼女を取り囲む。
リリアの足が止まった。
アレンが剣を抜く。
「何だ、これは……!」
「記憶の残響だ」
レオンが警戒しながら答えた。
「ここに封じられた者たちの声が、リリアに反応している」
そのとき、壁の奥から、ひときわ大きな声が響いた。
『お前が殺した』
結晶の中に、白い光が走る。
『お前が、あの方を殺したのだ』
リリアの心臓が跳ねた。
『世界を創った者を』
『世界を守ろうとした者を』
『お前は、その手で殺した』
「やめて!」
ミラが声を上げた。
だが、声は止まらない。
『創造主殺し』
『第三の創造者を殺した少女』
『世界を生んだ者の罪』
リリアは両耳を塞いだ。
違う。
まだ何も思い出していない。
自分が本当に殺したのかどうかさえ、分からない。
なのに、どうして。
どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。
そのとき、セフィルがリリアの前に立った。
「聞く必要はない」
彼の声は、いつもの穏やかさを失っていた。
「記憶の残響は、事実そのものではない。ここに残された者たちが何を信じ、何を恐れていたのかを映しているだけだ」
「でも、第三の創造者を殺したって……」
「それが真実だとしても、理由まで語られているわけではない」
セフィルは、リリアをまっすぐに見つめた。
「君が何をしたのかを知ることと、君がどんな人間なのかを決めつけることは、別の話だ」
その言葉に、リリアは顔を上げた。
セフィルはかつて、神々の命令に従うために作られた存在だった。
自分の意思を持つことさえ、許されなかった。
それでも今は、自分で選んでここにいる。
彼は過去に縛られながらも、過去だけで自分を決めようとはしていない。
「……ありがとう、セフィル」
「礼を言われることではないよ」
彼は少しだけ目を細めた。
「僕は、君に選ぶ権利があると信じている。それは、君自身の過去についても同じだ」
その瞬間。
螺旋階段の最上部から、白い光が降り注いだ。
結晶に閉じ込められていた声が、一斉に消える。
そして、誰かが階段を下りてきた。
一歩。
また一歩。
白い衣をまとった人物だった。
長い銀色の髪が、光を受けて揺れる。
顔は薄いヴェールに覆われている。
その人物は、リリアたちの前で立ち止まった。
「……久しぶりね、エリシア」
リリアの呼吸が止まった。
この声だ。
夢の中で聞いた声。
自分に「憎まないで」と告げた声。
「あなたは……誰?」
銀髪の人物は、しばらく黙っていた。
やがて、ヴェールの向こうから、小さな笑い声が漏れる。
「そう。まだ、私のことを思い出していないのね」
「私が、あなたを殺したの?」
その問いに、人物の肩がわずかに揺れた。
「……ええ」
あまりにも静かな肯定だった。
「あなたは、私を殺した」
ミラが息をのむ。
アレンが一歩前に出ようとしたが、リリアは手を上げて制した。
目の前の人物から、敵意は感じられなかった。
それどころか、その声には、長い年月を耐え抜いた者だけが持つような、深い悲しみがあった。
「どうして……?」
「それを知るために、あなたはここへ来たのでしょう?」
人物は、そっと手を差し出した。
「でも、すべてを知る前に、ひとつだけ聞かせて」
「何を?」
「もし、あなたが本当に私を殺したのだとしたら」
銀髪の人物の声が、かすかに震えた。
「あなたは、自分を許せる?」
リリアは答えられなかった。
許せるはずがない。
自分の大切な人を、自分自身の手で殺したのだとしたら。
どんな理由があっても、簡単に許すことなどできない。
けれど――。
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「今の私には、まだ分からない」
銀髪の人物が、わずかに顔を傾ける。
「分からない?」
「私は、まだ何も思い出していないから。あなたとの間に何があったのかも、どうしてそんなことをしたのかも」
リリアは差し出された手を見つめた。
「だから、今ここで自分を許すとも、絶対に許さないとも言えない」
そして、はっきりと告げた。
「でも、真実から逃げるつもりはない。あなたが私を憎んでいるのなら、その理由も知りたい。あなたが私に何かを伝えたいのなら、ちゃんと聞きたい」
銀髪の人物は、動かなかった。
「……あなたは、変わったのね」
その言葉には、驚きと、ほんの少しの安堵が混じっていた。
「昔のあなたなら、きっと自分を罰することだけを考えたでしょう」
リリアの胸が、鋭く痛んだ。
「昔の私を……知っているの?」
「ええ。誰よりも」
人物は一歩近づいた。
「私は、あなたが世界を創る前から、あなたを知っている」
そして、ヴェールに手をかけた。
だが、その瞬間。
「――そこまでだ」
塔全体が震えた。
階段の奥から、金色の鎖が飛び出し、銀髪の人物の身体に巻きつく。
「っ……!」
人物が苦しげに膝をついた。
レオンが剣を抜く。
「神々の封印か!」
「違う……!」
セフィルの顔色が変わった。
「これは、世界の法則そのものに刻まれた拘束だ!」
銀髪の人物を縛る鎖には、神々の紋章がなかった。
代わりに、見たことのない文字が刻まれている。
その文字を見た瞬間、リリアの指輪が熱を帯びた。
カイルの銀の指輪。
白い花の紋章が激しく輝き、見知らぬ文字が浮かび上がる。
《第三創造者、接触を確認》
《第一創造者、記憶照合を開始》
《警告――創造者間の接続は、世界構造に重大な影響を及ぼします》
そして最後に、一文が現れた。
《第三創造者の存在状態――死亡》
リリアは、目の前の人物を見つめた。
死亡。
けれど、彼女はそこにいる。
言葉を交わし、悲しみ、リリアの手を取ろうとしている。
「あなたは……死んでいるの?」
銀髪の人物は、苦しげに笑った。
「そうね。少なくとも、この世界の定義では」
「そんな……」
「私は、あなたに殺されたあと、世界から切り離されたの」
鎖がさらに強く締まる。
「それでも、あなたに伝えたいことがあった。だから、ここに残ったの」
リリアは、震える手を伸ばした。
「待って。まだ、聞きたいことが……!」
「リリア、駄目だ!」
アレンの制止が響く。
だが、リリアの指先は、鎖の向こうにいる人物へと伸びていた。
ほんの少しだけ。
触れることができれば、何かが分かる気がした。
彼女が本当に自分を憎んでいるのか。
なぜ、自分に「憎まないで」と言ったのか。
そして、自分はどうして彼女を殺したのか。
指先が、銀色の髪に触れた。
瞬間。
世界が反転した。
そこは、まだ世界が存在しない場所だった。
空も、大地も、時間さえもない。
ただ、無限に広がる白い光の中に、三人の影があった。
一人は、金色の瞳を持つ少女。
一人は、銀色の髪をした少女。
そしてもう一人は、顔の見えない人物。
『エリシア』
銀髪の少女が、笑っていた。
『約束して。何があっても、あなたはあなたのままでいて』
『……約束する』
金色の瞳の少女が、うなずいた。
『もし私が、間違った選択をしたら?』
『そのときは、私が止めるわ』
『たとえ、私があなたを憎んでも?』
『ええ』
銀髪の少女は、優しく笑った。
『それでも、私はあなたを見捨てない』
光景が揺らぐ。
次に見えたのは、血に染まった白い花だった。
金色の瞳の少女が、銀髪の少女を抱きしめている。
『どうして……』
少女の手には、剣が握られていた。
『どうして、あなたが私を止めるの……?』
銀髪の少女は、弱々しく笑った。
『だって……約束したでしょう?』
そして、彼女は最後の力を振り絞るように、少女の頬に触れた。
『あなたが世界を壊してしまう前に……私が、止めるって』
金色の瞳の少女が、泣き叫んだ。
『嫌……嫌よ! お願い、目を開けて!』
銀髪の少女の手が、ゆっくりと落ちる。
『エリシア……』
その声が、途切れた。
――そして。
リリアは、現実へと引き戻された。
「っ、あああっ……!」
激しい頭痛が走る。
アレンが彼女を抱きとめた。
「リリア! しっかりしろ!」
視界が滲む。
記憶は、ほんの一瞬で消えてしまった。
それでも、最後の言葉だけは、はっきりと聞こえていた。
――あなたが世界を壊してしまう前に、私が止める。
銀髪の人物は、再び鎖に引かれ、階段の奥へと消えていく。
その直前、彼女はリリアを見つめた。
「……今度は、あなたが選んで」
その言葉を最後に、姿が見えなくなった。
残されたのは、静寂だけだった。
リリアはアレンの腕の中で、震えながら呟いた。
「私……世界を壊そうとしていたの?」
誰も、答えられなかった。
ただ、セフィルだけが、深く目を伏せていた。
そして塔の最上部では、誰にも聞こえない声が響いていた。
『第三創造者との接触を確認』
『第一創造者の記憶、断片的に復元』
『最終契約の再起動まで――残り一段階』
その記録を見つめる者がいた。
黒髪に、黄金の瞳。
第三の創造者。
彼女は静かに目を閉じた。
「……ごめんなさい、エリシア」
その頬を、一筋の涙が伝った。
「あなたに、もう一度選ばせてしまうのね」
そして彼女は、誰にも聞こえない声で付け加えた。
「今度こそ、私を殺す前に――あなた自身の未来を選んで」
第39話・
次回、第40話「世界を壊そうとした少女」
リリアの記憶に蘇った、創造主と第三創造者の約束。
彼女はかつて、世界を壊そうとしていたのか。
そして、銀髪の少女を殺した剣に刻まれていた、もうひとつの名前とは――。




