第38話 忘却の塔に眠る罪
第38話 忘却の塔に眠る罪
白い花が、一輪。
音もなく落ちてきたそれは、古い記録庫の床に触れる直前、ふっと光の粒になって消えた。
レオンは、その花が消えた場所をじっと見つめていた。
「……レオン?」
リリアが呼びかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
いつもの落ち着いた声だった。
けれど、リリアには分かった。
彼は何かを隠している。
それも、ただの秘密ではない。リリア自身に関わる、何かを。
「忘却の塔に行けば、何か分かるんだよね?」
リリアがそう尋ねると、レオンは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「ああ。神々が不要と判断した記憶を封じた場所だ。そこには、神殿の記録にも残されていない情報が眠っているはずだ」
「カイルの指輪が示した場所だものね」
ミラが腕を組み、険しい表情を浮かべる。
「でも、神々がわざわざ隠した記憶なんでしょ? 簡単に見せてくれるとは思えないわ」
「見せてくれないどころか、侵入した時点で敵と見なされるだろうな」
アレンが腰の剣に手を添えた。
「それでも行くのか?」
彼の視線がリリアに向く。
問いかけの裏にあるのは、心配だった。
白い花の庭園で創世の力を使いすぎたとき、リリアは一日も目を覚まさなかった。あのときの彼女の苦しそうな顔を、アレンはまだ忘れていない。
リリアは自分の手を見つめた。
この手には、世界の法則さえ変える力がある。
けれど、何でもできるわけではない。
力を使えば身体が傷つく。無理をすれば、世界そのものに歪みを生じさせる。
そして何より――。
「知りたいの」
リリアは顔を上げた。
「私が何を忘れているのか。エリシアが何を選んで、何を失ったのか。そして……私が、誰を殺したのか」
最後の言葉を口にした瞬間、部屋の空気が凍りついた。
ミラが息をのむ。
アレンの眉がわずかに寄った。
セフィル・ルシエンは、紫色の瞳を伏せた。
誰も、すぐには答えなかった。
リリアは胸の奥に手を当てた。
第三の創造者がレオンに告げたという言葉。
――リリアが誰を殺したのかという記憶。
その記憶が、本当に自分の中にあるのなら。
知らないままでいることは、もうできなかった。
「行こう。忘却の塔へ」
リリアの言葉に、レオンは静かにうなずいた。
ただ、その横顔には、誰にも見せない苦悩が刻まれていた。
◇
忘却の塔は、世界地図のどこにも記されていなかった。
カイルの指輪が示したのは、神殿の北東に広がる荒野。その中心にある、何もないはずの場所だった。
一行が荒野に足を踏み入れたとき、空は不自然なほど暗くなった。
風が止まり、砂が宙に浮かぶ。
遠くで、何かが軋むような音がした。
「……見つけた」
カイルが指輪を掲げた。
銀色の輪に刻まれた白い花が、淡い光を放っている。
次の瞬間。
何もなかった荒野に、巨大な塔が姿を現した。
黒い石で築かれた塔。
窓はひとつもなく、壁面には無数の文字が刻まれている。文字は読む者の視線に反応するように浮かび上がり、やがて意味を失った記号へと変わっていった。
その姿を見たセフィルが、苦しそうに胸元を押さえた。
「ここは……」
「何か思い出したのか?」
アレンが尋ねる。
「分からない。ただ、懐かしい。ここに来たことがあるような気がする」
セフィルは自分の手を見つめた。
「でも、僕の記憶には何もないんだ」
「神々が記憶を封じるために使った場所だもの。あなたの記憶が残っていないのも、不思議じゃないわ」
ミラがそう言った直後、塔の正面に黒い扉が現れた。
扉には、白い花の紋章。
そして、その下には三つの文字が刻まれていた。
――第一の記憶。
――第二の記憶。
――第三の記憶。
リリアの指先が震えた。
「三つの記憶……」
セフィルが息をのむ。
「第一はエリシア。第二はルシェラ。そして第三は……」
「原初の観測者、なのかもしれない」
リリアが言った。
しかし、扉は開かなかった。
カイルが指輪を近づけても、アレンが扉を調べても、反応はない。
やがてレオンが一歩前に出た。
「リリア。お前の力なら、扉の仕組みに干渉できるかもしれない」
その言葉に、アレンが鋭く振り返った。
「待て。前と同じように力を使えば、また倒れるかもしれないんだぞ」
「分かってる」
リリアは小さくうなずいた。
「だから、壊さない。扉が何を守っているのか、それだけを確かめる」
彼女は扉に手を触れた。
意識を集中させる。
世界を支える法則。その奥に隠された、法則では説明できない力。
《創世の理》。
ほんの少しだけ、その力を指先に流した。
――瞬間。
塔全体が、低く唸った。
リリアの視界に、無数の光景が流れ込む。
誰かの泣き声。
砕け散る白い花。
血に染まった銀色の髪。
そして、震える自分の手。
その手には、見覚えのない剣が握られていた。
『どうして……』
幼い少女の声が響いた。
『どうして、あなたが……』
目の前に倒れている誰かの顔は、黒い影に覆われていた。
けれど、その人が自分に手を伸ばしていることだけは分かった。
『リリア――』
「っ!」
リリアは手を離した。
全身から力が抜け、膝が崩れかける。
「リリア!」
アレンがすぐに彼女を支えた。
鼻先から、一筋の血が流れ落ちる。
「大丈夫か!」
「うん……少し、記憶が見えただけ……」
そう答えながらも、リリアの身体は震えていた。
今の光景は、夢ではない。
自分の記憶だ。
そう確信していた。
自分は誰かを傷つけた。
いや――殺したのかもしれない。
その事実を認めた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
すると、閉ざされていた扉に変化が起きた。
白い花の紋章が二つに分かれ、その間に新たな文字が浮かび上がる。
《第一の記憶、照合完了》
《第二の記憶、継承者による承認を確認》
《第三の記憶、閲覧条件を満たしていません》
最後の一文が表示された直後、別の文字がゆっくりと浮かび上がった。
《記憶の対象者が、閲覧を拒否しています》
「対象者が……拒否?」
ミラが目を見開いた。
「記憶を見せるかどうか、誰かが決めているってこと?」
セフィルは扉を見つめたまま、静かに答えた。
「違う。これは単なる封印じゃない」
紫色の瞳に、かすかな動揺が走る。
「記憶の持ち主自身が、リリアに思い出させないことを選んでいるんだ」
リリアは息を止めた。
自分が誰かを殺した記憶。
それを隠しているのは、神々だけではない。
記憶の向こうにいる誰かが、今もなお、それを見せることを拒んでいる。
なぜ?
自分を恨んでいるからだろうか。
それとも――自分が真実を知れば、取り返しのつかないことが起きるからだろうか。
そのとき、塔の壁面に刻まれていた文字が、一斉に赤く染まった。
地面が揺れる。
黒い扉の中央に、ひとつの目が開いた。
人間のものではない。
世界そのものを見下ろすような、金色の瞳だった。
『――来たか、エリシア』
低い声が、塔の内側から響いた。
『今度こそ、お前に真実を見せるわけにはいかない』
リリアは息をのんだ。
「あなたは……誰?」
金色の瞳が、リリアを見つめる。
『私は忘却の塔を管理する者。神々が捨てた記憶を守り、世界が忘れるべきものを忘れさせる者だ』
「なら、教えて。私は誰を殺したの?」
沈黙。
やがて、その存在は答えた。
『お前が殺したのは――』
アレンがリリアをかばうように前へ出た。
レオンは剣の柄を握り、カイルの指輪が激しく光り始める。
しかし、声は最後まで続かなかった。
塔のさらに奥から、別の声が響いたのだ。
『答えるな』
それは、ひどく懐かしい声だった。
リリアが夢の中で何度も聞いた、あの声。
『まだ、その子に思い出させてはいけない』
金色の瞳が大きく見開かれた。
『なぜ、お前がここにいる……!』
塔全体が激しく揺れた。
扉の向こうから、何かがこちらへ近づいてくる。
そして、リリアにだけ聞こえる声が、囁いた。
『リリア。お願いだから、私を憎まないで』
その言葉と同時に、リリアの脳裏に一瞬だけ、銀色の髪をした誰かの笑顔が浮かんだ。
涙をこらえながら、それでも優しく笑う顔。
その人に向かって、自分は剣を振り下ろしていた。
――違う。
思い出したくない。
けれど、もう分かってしまった。
自分が殺したのは、敵ではなかったのかもしれない。
リリアが震える唇を開く。
「あなたは……私に、何をしたの?」
返事はなかった。
ただ、塔の奥で、誰かが静かに泣いていた。
その涙の音を聞きながら、リリアは初めて、自分自身を恐ろしいと思った。
世界を壊す力を持っているからではない。
かつて、自分が大切に思っていた誰かを、この手で失わせたのかもしれないからだ。
そして、その記憶を封じたのが――他の誰でもない、自分自身だったとしたら。
今度こそ、自分は何を選べばいいのだろう。
◇
その頃、神殿の最深部。
顔のない玉座の前で、第三の創造者は静かに目を閉じていた。
「扉が反応したか」
玉座の奥から声が響く。
「ええ。けれど、記憶のすべては戻っていません」
「ならば、まだ間に合う」
第三の創造者は、黒髪を揺らして顔を上げた。
黄金の瞳には、深い悲しみが宿っていた。
「……間に合わせなければならない。あの子が、自分を罪人だと思い込む前に」
「それでも、お前は真実を隠すのか?」
長い沈黙のあと、第三の創造者は答えた。
「隠しているのではありません」
その声は、わずかに震えていた。
「私はただ……あの子に、もう一度同じ選択をさせたくないだけです」
玉座の奥で、何かが軋んだ。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で、第三の創造者は呟いた。
「ごめんね、リリア。あなたが私を殺したことを、まだ思い出さないで」
白い花が、一輪。
神殿の床に落ちた。
花弁の中央には、赤い血のような染みが浮かんでいた。
第38話・
次回、第39話「殺された創造者」
忘却の塔の奥で、リリアを待っていたのは、彼女自身の罪を知る者だった。
第三の創造者が隠し続ける真実。そして、リリアがかつて殺した相手とは――。
その記憶が戻るとき、エリシアが世界に残した最後の約束が動き始める。




