第37話 白い花に刻まれた約束
第37話 白い花に刻まれた約束
――あの子が、本当の名前を思い出すまでは。
顔のない玉座から響いた声は、誰もいない白い部屋に静かに溶けていった。
けれど、その言葉を聞いていた者が一人だけいた。
神殿の柱の陰。
銀色の髪を持つ男が、息を潜めて立っていた。
レオン・ヴァルディス。
神々に反旗を翻した騎士団の、最後の生き残りの一人。
彼は、玉座の奥に潜む存在を知っていた。
正確には、知っていたはずだった。
失われた記憶の中で、何度もその声を聞いたことがある。
しかし、その声の主の名前だけは、どうしても思い出せなかった。
「……まだ、生きていたのか」
レオンは唇を噛んだ。
そして、誰にも聞こえない声で呟く。
「ならば、あの約束も……まだ終わっていないということか」
彼は踵を返し、暗い通路へと姿を消した。
*
旧記録室。
セフィルが自分の名前を取り戻してから、しばらくの時間が過ぎていた。
部屋の中央に浮かぶ水晶は、今では静かな光を放っている。
けれど、セフィルの胸元に刻まれた紋章は、消えることなく残っていた。
「セフィル・ルシエン……」
リリアは、その名前をもう一度口にした。
「まだ、慣れない?」
「少しだけ」
セフィルは自分の胸元に触れた。
「名前というものが、これほど重いものだとは思いませんでした」
「重い?」
「はい。以前の僕にとって、名前はただの識別記号でした。神々が僕を呼ぶためのもの。命令を与えるためのもの。そこに、僕自身の意味はありませんでした」
彼は、わずかに微笑んだ。
「でも今は、この名前を呼ばれるたびに、自分が確かに存在しているのだと感じます」
リリアは嬉しそうに頷いた。
「だったら、これから何度でも呼ぶよ。あなたが自分の名前を忘れないように」
「……ありがとうございます」
セフィルは少しだけ目を伏せた。
その表情は、どこか照れくさそうだった。
かつて、感情を持つことすら許されなかった使者。
そんな彼が、今は自分の名前を大切にしている。
それだけでも、彼が少しずつ変わっていることがわかった。
しかし、安堵の時間は長く続かなかった。
「ところで、一つ気になることがある」
カイルが声を上げた。
彼は自分の手にはめられた銀環を見つめていた。
「セフィルの記憶が戻ったとき、俺の銀環も反応したんだ」
「あなたの銀環も?」
「ああ。さっきから、ずっと熱を持っている」
カイルは銀環を外そうとした。
だが、銀環は指に張りついたように動かない。
その表面に刻まれた白い花が、少しずつ形を変え始めていた。
花弁が開き、中心に銀色の小さな鍵が現れる。
さらに、その鍵の周囲に、細い文字が浮かび上がった。
――《第一契約者、記憶照合を開始》
――《第二契約者、固有名の復元を確認》
――《第三の約束、未完了》
リリアは息をのんだ。
「第三の約束……?」
セフィルが銀環を見つめる。
「僕の記憶が戻ったことで、何かが連動しているのでしょう」
「でも、第一契約者って……」
リリアはカイルを見た。
彼は顔を強張らせていた。
「俺じゃない。第一契約者は、エリシアのはずだ」
その言葉に反応するように、銀環が強く輝いた。
そして、カイルの脳裏に、見覚えのない光景が流れ込んだ。
*
白い花が咲き誇る庭。
まだ幼いカイルが、膝を抱えて座っていた。
その隣に、銀髪の少女が腰を下ろす。
「どうしたの?」
少女が尋ねた。
幼いカイルは、うつむいたまま答えた。
「……僕は、何のために生まれてきたんだろう」
「どうして、そんなことを聞くの?」
「みんな、僕に役目があるって言うんだ。でも、その役目を果たせなかったら、僕には価値がないのかな」
少女は、しばらく彼を見つめていた。
そして、小さな手を差し出した。
「そんなことないよ」
「……本当に?」
「うん。あなたが何をできるかなんて、あなたが生きていていい理由にはならないもの」
少女は笑った。
「何もできなくても、間違えても、泣いてもいいんだよ。あなたは、あなたのままでいい」
幼いカイルの目から、涙がこぼれた。
少女は彼の頭をそっと撫でる。
「だから、約束して」
「何を?」
「いつか、自分の未来を自分で選ぶこと。誰かに決められた役目じゃなくて、あなた自身が望む未来を」
カイルは、少女の手を握った。
「……約束する」
その瞬間、少女の姿が光に包まれた。
顔がぼやけていく。
名前が消えていく。
最後に残ったのは、白い花だけだった。
*
「――っ!」
カイルは息をのんで、片膝をついた。
「カイル!」
アレンが駆け寄る。
「大丈夫か!?」
「……今のは、記憶なのか?」
カイルは額を押さえた。
胸の奥が痛い。
まるで、ずっと忘れていた大切な約束を、ようやく思い出しかけたかのようだった。
「俺は……あの子を知っている」
「銀髪の少女?」
リリアが尋ねると、カイルは頷いた。
「でも、顔も名前も思い出せない。ただ……あの子は、俺に何かを託したんだ」
彼は銀環を見つめた。
「自分の未来を、自分で選べって」
リリアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
それは、彼女がこの世界で何度も考えてきたことと、同じだった。
誰かの期待に応えるために生きるのではなく、自分自身の意志で未来を選ぶ。
その約束が、ずっと昔から、この世界のどこかに存在していたのだ。
「カイル。あなたが思い出したことは、きっと大切なことだと思う」
「……ああ」
カイルは、ゆっくりと立ち上がった。
「でも、まだ足りない。俺があの子に何を託されたのか。それを知るまでは、何も終わらない気がする」
銀環が再び光った。
今度は、文字ではなく、地図のような模様が浮かび上がる。
そこには、白い花の紋章と、一本の道が描かれていた。
道の終点に記されていたのは、見覚えのない地名だった。
――《忘却の塔》。
レオンが、その文字を見て表情を変えた。
「……まさか」
「知っているのか?」
アレンが尋ねる。
レオンは、すぐには答えなかった。
やがて、重い口調で告げる。
「忘却の塔は、神々が不要と判断した記憶を封じるために造られた場所だ。かつての騎士団でも、その存在は禁忌とされていた」
「不要と判断した記憶……」
リリアは呟いた。
「じゃあ、そこには神々が隠した真実が残っているかもしれないんだね」
「その可能性は高い。だが、塔に入った者は、帰ってきても自分が何を見たのか覚えていないと言われている」
ミラが眉をひそめた。
「それじゃあ、記憶を調べに行っても意味がないじゃない!」
「いや」
セフィルが静かに口を開いた。
「僕たちなら、可能性があります」
彼は自分の胸元の紋章を指した。
「神々が消そうとした記憶を、僕たちは少しずつ取り戻しています。第二創造者としての権限があれば、忘却の塔の封印にも干渉できるかもしれません」
「でも、危険なのは変わらないよね?」
リリアが尋ねると、セフィルは頷いた。
「はい。だからこそ、慎重に進む必要があります」
アレンは剣を背負い直した。
「行くしかないだろう。俺たちが知ろうとしている真実は、神々が隠してきたものだ。簡単に手に入るとは思っていない」
「私も賛成!」
ミラが拳を握った。
「せっかくここまで来たんだもの。中途半端なところで諦めたくないわ」
リリアは、仲間たちを見回した。
みんな、それぞれに失われた記憶を抱えている。
自分の過去を知らないセフィル。
約束の相手を思い出せないカイル。
かつて神々と戦い、今も真実を語ろうとしないレオン。
そして、自分自身の前世と、創造主エリシアの記憶を持つリリア。
彼らが探しているものは、きっと同じ場所につながっている。
「行こう。忘却の塔へ」
リリアは、はっきりと告げた。
「誰かに消された記憶でも、私たちにとって大切なものなら、取り戻す価値があると思うから」
その言葉に、セフィルは静かに微笑んだ。
「……あなたらしい答えですね」
*
その夜。
旧記録室を出たレオンは、一人で神殿の外へ向かっていた。
仲間たちには、忘却の塔への道を調べると伝えてある。
それは嘘ではなかった。
ただ、彼にはもう一つ、確かめなければならないことがあった。
神殿の裏手にある崩れた回廊。
そこには、古い騎士団の紋章が刻まれた石碑が残されていた。
レオンは石碑の前で膝をつき、剣を地面に置いた。
「……俺は、まだ約束を守れていない」
彼は目を閉じた。
遠い昔。
世界が神々の支配に覆われ始めた頃。
レオンは、ある人物から命令を受けていた。
その人物は、銀髪の青年だった。
白い花を胸元に飾り、誰よりも穏やかな目をしていた。
『もし、あの子がすべてを思い出したら』
青年は言った。
『どうか、あの子を一人にしないでほしい』
レオンは頷いた。
『必ず守ります』
青年は、少しだけ悲しそうに笑った。
『違う。守るだけでは足りないんだ』
『……どういう意味ですか?』
『あの子が間違えたとき、ただ従うのではなく、あの子自身が選べるようにしてほしい』
青年はレオンの肩に手を置いた。
『たとえ、あの子が世界を壊そうとしても』
その記憶が、そこで途切れる。
レオンは目を開いた。
「……あの子が世界を壊そうとしても、か」
彼は、遠くに見える神殿を見つめた。
リリアは、まだすべてを思い出していない。
だが、いずれ必ず知ることになる。
エリシアが何を選び、何を失い、何を隠したのか。
そして、世界を創った少女が、なぜ自分自身を殺さなければならなかったのか。
レオンは剣を手に取った。
「今度こそ……間に合わせてみせる」
そのとき、背後から声がした。
「ずいぶんと、懐かしい約束を覚えているんだね」
レオンが振り返る。
回廊の闇の中に、一人の人物が立っていた。
黒い髪。
深い金色の瞳。
額には、見たこともない紋章が刻まれている。
水晶の中に映し出された、第三創造者と呼ばれる存在だった。
「お前は……!」
レオンは剣を構えた。
しかし、相手は攻撃する様子もなく、ただ穏やかに微笑んでいる。
「安心して。今は君と戦いに来たわけじゃない」
「ならば、何をしに来た?」
「一つ、伝えたいことがあってね」
その人物は、遠くの神殿を見つめた。
「リリアを、忘却の塔へ行かせてあげてほしい」
レオンの眉が動く。
「……なぜだ」
「彼女が真実を知らなければ、世界はまた同じ過ちを繰り返すから」
相手は、静かに目を伏せた。
「けれど、塔の最深部にある記憶だけは、まだ見せてはいけない」
「何を隠している?」
「彼女が、誰を殺したのかという記憶だよ」
レオンの顔が凍りついた。
第三創造者は、悲しげに微笑む。
「それを思い出したとき、リリアは自分が何者なのかを知ることになる」
そして、闇の中へ消える直前、最後にこう告げた。
「そのとき、君は彼女を守れるかな?」
レオンは答えられなかった。
遠くで、白い花が一輪だけ散った。
それはまるで、まだ誰にも知られていない罪の始まりを告げるようだった。
第三十七話
次回、第三十八話「忘却の塔へ」
リリアたちは、神々が隠した記憶を求めて忘却の塔へ向かう。
しかし、塔の最深部には、リリア自身が封じた記憶が眠っていた。
そしてレオンは、第三創造者から告げられた「リリアが誰を殺したのか」という言葉を胸に、彼女に真実を伝えるべきかどうか、決断を迫られる。




