第36話 使者セフィルの失われた名前
第36話 使者セフィルの失われた名前
――お前が最初に殺したのは、神ではない。
――お前自身だ。
その言葉が、リリアの心に深く突き刺さっていた。
地下通路の最奥。
目の前の扉は、再び沈黙している。
そこに刻まれた三つの紋章のうち、二つ目だけが淡い光を放っていた。
第二創造者――セフィル。
神々に創られた使者だと信じていた彼が、実は神々によって何かを奪われた存在だった。
いったい、彼の身に何があったのだろう。
「……セフィル?」
リリアが呼びかけても、彼は答えなかった。
銀環を握りしめたまま、じっと自分の手を見つめている。
その瞳には、困惑と恐怖が浮かんでいた。
「僕は……何者なのでしょう」
やがて、彼はぽつりと呟いた。
「神々の命令に従うために生まれた使者。そう教えられてきました。自分の意思を持つ必要はなく、疑問を抱くことも許されなかった」
彼は顔を上げた。
「でも、もしそれが嘘だったのなら……僕が今まで信じてきた自分は、いったい何だったのでしょう」
リリアは、すぐには答えられなかった。
彼の記憶が何者かによって消されていたことは知っている。
けれど、自分が何者なのかという問いに、他人が簡単に答えを与えていいはずがない。
それは、本人が自分の意志で見つけなければならないものだから。
「セフィル」
リリアは、彼の前に立った。
「あなたが何者だったとしても、今のあなたが選んできたことまで、嘘になるわけじゃないよ」
「……!」
「神々の命令に逆らったこと。自分の記憶を取り戻そうと決めたこと。私たちと一緒に行くと選んだこと。それは、誰かに決められたことじゃないでしょう?」
セフィルの瞳が揺れた。
「あなたが昔、何者だったのか。それは大切なことだと思う。でも、それだけで今のあなたのすべてが決まるわけじゃない」
リリアは微笑んだ。
「私は、今のセフィルのことも知っているから」
長い沈黙のあと、セフィルはゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございます」
その声は、いつもより少しだけ震えていた。
「あなたにそう言ってもらえると、少しだけ……怖くなくなります」
アレンが、そっと彼の肩に手を置いた。
「記憶を取り戻したからって、俺たちとの関係が変わるわけじゃない。少なくとも、俺はそう思っている」
「アレン……」
「それに、お前が昔どんな奴だったとしても、今さら驚かないぞ。俺たちだって、ろくでもない秘密を抱えているからな」
「それは、否定できないわね」
ミラが肩をすくめた。
緊張していた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
しかし、カイルだけは扉を見つめたまま、険しい表情を崩さなかった。
「……問題は、あの声だ」
「扉の向こうにいる存在のこと?」
リリアが尋ねると、カイルは頷いた。
「神々に創られたと言っていた。つまり、神々よりも後に生まれた存在だということになる」
「でも、神々が生まれた記録は消されているんだよね?」
「ああ。だからこそ、何かがおかしい」
カイルは銀環を握った。
「もし、神々が何者かによって創られ、その存在がさらに別の何者かによって創られたのだとしたら……世界の始まりは、俺たちが考えているよりもずっと複雑なのかもしれない」
その言葉に、レオンが静かに頷いた。
「神々が世界の管理者になった経緯も、調べ直す必要があるな」
リリアは、もう一度扉を見つめた。
真実を知りたい。
けれど、今の自分にはまだ、扉を開くための条件がわからない。
創造主による真実の告白。
それが意味するのは、エリシアの記憶を取り戻すことなのか。
それとも、彼女が隠してきた罪を、自分自身の言葉で語ることなのか。
考え込むリリアの耳に、かすかな声が届いた。
『……セフィル』
全員が振り返った。
声は扉の向こうから聞こえていた。
『こちらへおいで』
セフィルの顔が強張る。
「僕を……呼んでいる?」
『そうだ。お前に返さなければならないものがある』
扉の中央に刻まれた紋章が輝き始めた。
セフィルの銀環が共鳴する。
リリアが彼の腕をつかんだ。
「待って。罠かもしれない」
「わかっています」
セフィルは頷いた。
「でも、ここで逃げたら、僕はまた自分のことを知らないままになります」
彼はリリアを見つめた。
「それでも、僕は一人では行きません。もし何かあったら、助けてください」
「もちろん」
リリアは、彼の手を握り返した。
扉が、ゆっくりと開いた。
*
その向こうには、小さな部屋があった。
壁も床も白く、中央には透明な水晶が浮かんでいる。
水晶の中に、一人の少年が眠っていた。
銀色の髪。
紫色の瞳。
そして、胸元には白い花の紋章。
その顔を見た瞬間、セフィルは息をのんだ。
「……僕?」
水晶の中の少年は、今のセフィルと同じ顔をしていた。
違うのは、瞳に宿る光だった。
今のセフィルが静かな湖のような瞳をしているのに対し、水晶の中の少年の瞳には、確かな意志と、かすかな悲しみが宿っていた。
『ようやく来たね』
声が響く。
『長い時間がかかった』
「あなたは……誰なのですか?」
『私は、お前が忘れたものを預かっている存在だ』
水晶が光を放った。
『お前が神々に仕える使者となる前。まだ自分の名前を持ち、自分の意志で生きていた頃の記憶を』
セフィルは、震える手を伸ばした。
水晶に触れた瞬間、視界が白く染まった。
――遠い昔。
世界がまだ形を持たなかった頃。
銀色の髪の少年が、白い花の咲く丘に立っていた。
その隣には、幼いエリシアがいる。
さらに、その向こうには長い銀髪の少女が立っていた。
少女は少年に向かって、いたずらっぽく笑った。
『ねえ、あなた。いつまで私の後ろをついてくるつもり?』
『君が危なっかしいからだよ』
『失礼ね。私は一人でも大丈夫よ』
『そう言って、この前も道に迷ったじゃないか』
『あれは、道が勝手に変わったの!』
少女が頬を膨らませる。
少年は、思わず笑った。
その笑顔を見て、エリシアも微笑む。
穏やかな時間だった。
誰も命令せず、誰も支配しない。
ただ、それぞれが自分の意志で隣にいることを選んでいた。
やがて、少年は少女に向かって手を差し出した。
『約束しよう』
『何を?』
『たとえ、世界が生まれて、すべてが変わったとしても……君が自分で選んだ道を、僕は尊重する』
少女は、少しだけ驚いた顔をした。
そして、差し出された手を握った。
『じゃあ、私も約束する。あなたが自分の道を見失いそうになったら、私が見つけてあげる』
二人は笑い合った。
その光景を、エリシアは少し離れた場所から見つめていた。
けれど、その表情には、どこか寂しさがあった。
――場面が変わる。
空間に、無数の光が生まれていた。
世界が創られようとしている。
少年は、巨大な光の中心に立っていた。
その身体は、少しずつ透き通り始めている。
『……もう、時間がない』
少年が呟く。
エリシアが駆け寄った。
『そんな……! どうして、あなたが消えなければならないの!?』
『世界を成立させるためには、観測する者が必要なんだ』
少年は、苦しげに微笑んだ。
『世界は、誰かに見届けられることで、存在を確かなものにする。けれど、世界の外側からすべてを観測する存在が、そのまま世界の中に残ることはできない』
『だったら、世界なんて創らなければいい!』
エリシアが叫んだ。
『私は、あなたを失うために世界を創るんじゃない!』
少年は、彼女の頭にそっと手を置いた。
『君は世界を創りたいんだろう?』
『……っ』
『誰もが自分の未来を選べる世界を』
エリシアは、答えられなかった。
少年は、静かに続けた。
『だったら、君が選んでほしい。僕を残すために世界を諦めるのか。それとも、僕がいなくても、世界を創るのか』
エリシアの瞳から、涙がこぼれた。
『そんな選択……したくない……!』
『うん』
少年は、優しく頷いた。
『僕だって、君と別れたくない』
彼はエリシアを抱きしめた。
『でも、君の未来を、僕の存在だけで縛りたくないんだ』
少年の身体が、光に包まれていく。
『だから、約束して。君が世界を創ったあとも、自分自身の未来を選び続けることを』
エリシアは泣きながら、何度も頷いた。
しかし、その直後。
世界の外側から、黒い影が現れた。
影は少年を包み込み、彼の存在を引き離そうとする。
『観測者を隔離する』
無機質な声が響いた。
『世界の安定を優先。個体の意志は、管理対象外』
『待って!』
エリシアが手を伸ばす。
けれど、少年の身体は世界の外へ引きずられていった。
『エリシア!』
最後に、少年は彼女の名を呼んだ。
『どうか、自分を責めないで――』
そこで、記憶が途切れた。
*
「……っ!」
セフィルは、水晶の前で膝をついた。
涙が頬を伝っていた。
自分が泣いている理由が、わからない。
いや、本当はわかっていた。
失われた記憶の中で、彼は誰かと約束していた。
誰かを守りたいと願い、自分の意志で選択していた。
それなのに、神々はその記憶を奪い、彼を命令に従うだけの存在に変えてしまった。
「……僕は」
声が震える。
「僕は、誰かを守ろうとしていたんですね」
『そうだ』
水晶の声が答えた。
『お前は、原初の観測者を守るために、自分の意志で契約を結んだ』
「原初の観測者……」
セフィルの脳裏に、銀髪の少女の笑顔が浮かぶ。
あの少女は、いったい誰なのか。
どうして、自分は彼女のことを覚えていないのか。
『お前の本当の名前は――』
水晶が、強く輝いた。
白い花の紋章が開き、その中心から一文字ずつ光が浮かび上がる。
セフィルは息を止めた。
それは、神々が与えた名前ではなかった。
誰かに命令されるための名前でもない。
彼が自分自身として生きていた頃の名前。
『――セフィル・ルシエン』
その名が響いた瞬間、銀環が砕けた。
破片は地面に落ちることなく、光の粒となって消えていく。
セフィルの胸元に、新しい紋章が刻まれた。
――《第二創造者、固有名を復元》
――《原初契約、第一段階を解除》
――《記憶継承者、セフィル・ルシエン》
リリアは、彼のそばに駆け寄った。
「セフィル……!」
彼は顔を上げた。
涙に濡れた瞳には、まだ戸惑いが残っていた。
「僕は……セフィル・ルシエン」
自分の名を、確かめるように繰り返す。
「それが、僕の名前……」
リリアは頷いた。
「うん。あなたの名前だよ」
セフィルは、ゆっくりと目を閉じた。
それから、もう一度目を開いたとき。
彼の表情には、以前にはなかった決意が宿っていた。
「僕は、自分の記憶を取り戻します。神々に何を奪われたのか。そして、あの少女と交わした約束が何だったのか」
彼はリリアを見つめた。
「たとえ、その先に何が待っていたとしても」
その瞬間、水晶に新たな文字が浮かび上がった。
――《第二創造者、記憶復元率:十二パーセント》
――《原初の観測者、接続可能性:上昇》
――《警告:第三創造者の介入を検知》
リリアの表情が強張る。
「第三創造者……?」
水晶の表面に、見知らぬ人物の姿が映し出された。
黒い髪。
深い金色の瞳。
そして、神々の紋章とは異なる、見たこともない印が額に刻まれている。
その人物は、まるでリリアたちを見ているかのように、ゆっくりと顔を上げた。
『第二創造者が目覚めたか』
低い声が響いた。
『ならば、私もそろそろ動かなければならない』
映像の向こうで、その人物が微笑む。
『エリシア。今度こそ、君の選択を見届けよう』
映像が消えた。
水晶には、最後の一文だけが残されていた。
――《第三創造者、識別名:未登録》
リリアは、冷たい不安を覚えた。
世界には、まだ知らない存在がいる。
神々より古い存在。
創造主よりも前から、世界を見ていた存在。
そして、そのすべてが、少しずつ動き始めている。
リリアは、セフィルの手を握った。
「一緒に、真実を探そう」
セフィルは、静かに頷いた。
「はい。今度は、自分の意志で」
そのとき、遠く離れた神殿の最深部で、アステリオンが悲痛な声を上げた。
「第三創造者まで目覚めるというのか……!」
顔のない玉座の奥から、声が響く。
『恐れるな』
けれど、その声には、かすかな揺らぎがあった。
『まだ、すべての記憶は戻っていない』
そして、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
『……あの子が、本当の名前を思い出すまでは』
第三十六話
次回、第三十七話「白い花に刻まれた約束」
セフィル・ルシエンとしての記憶を取り戻し始めたセフィル。彼がかつて交わした約束は、原初の観測者だけでなく、リリア自身にも関係していた。
一方、第三創造者と呼ばれる謎の存在が動き始める。
そして、カイルの銀環に刻まれた白い花が、ついに本来の姿を現す。




