第33話 世界の外に囚われた男な
第33話 世界の外に囚われた男な
――私を取り戻すために、世界を壊すのか。
――それとも、私を失ったままでも、生きていくのか。
白い花園を満たす声が消えた瞬間、リリアの胸に鋭い痛みが走った。
知らないはずの声だった。
顔も、名前も、どんな関係だったのかさえ思い出せない。
それなのに。
まるで、ずっと昔に大切な人を失ったかのように、涙が頬を伝っていた。
「……どうして、私は泣いているの?」
答える者はいなかった。
花園を覆う黒い鎖が、地面を砕きながら迫ってくる。
アステリオンが放った神力は、花々を枯らし、白い石畳を黒く染めていた。空に浮かぶ七つの光のうち、すでに一つは完全に消えている。
残る六つの光も、ひどく不安定に明滅していた。
「リリア、下がれ!」
アレンが彼女の腕を引き寄せた。
直後、二人が立っていた場所を黒い鎖が貫く。
地面が爆ぜ、白い花びらが舞い上がった。
「アステリオン……!」
ミラが炎を放つ。
赤い炎は鎖に絡みついたが、燃え尽きるどころか、逆に炎の熱を吸い取っていく。
「そんな……! 炎まで吸収するの!?」
「神々の権限を利用した鎖だ。通常の魔法では破壊できない!」
レオンが剣を抜き、鎖の一本を斬り払った。
しかし、断ち切られたはずの鎖は、黒い霧となって再び形を取り戻す。
その向こう側で、アステリオンが静かに告げた。
「記憶の復元はここまでだ。これ以上、原初の観測者に関する情報を残すわけにはいかない」
「原初の観測者……」
リリアは、その言葉を繰り返した。
「あなたは、あの人が誰なのか知っているのね?」
「知っているからこそ、消さなければならない」
アステリオンの紫色の瞳が、冷たく光る。
「創造主エリシアは、あの存在を世界の外へ追いやった。世界を守るためにな。だが、あの者が再びこちら側へ戻れば、エリシアが封じたものまで目覚める」
「それなら、どうして彼を閉じ込めたままにしておく必要があるの?」
「理解できぬか?」
アステリオンは、わずかに眉を動かした。
「世界を守るためには、失わなければならないものもある」
その言葉に、リリアの指先が震えた。
前世の記憶が、かすかによみがえる。
誰かに嫌われないように。
誰かの期待を裏切らないように。
自分の本当の気持ちを飲み込んで、何も言わずに笑っていた日々。
失うのが怖くて、最初から手を伸ばさない。
傷つくのが怖くて、何も望まない。
そうして最後には、自分が何を望んでいたのかさえ、わからなくなってしまった。
――もう、そんな生き方はしたくない。
「私は……まだ、何も知らない」
リリアは顔を上げた。
「彼が何者なのかも、どうして世界の外にいるのかも。エリシアが何をしたのかも、全部はわからない」
黒い鎖が、彼女の足元まで迫る。
アレンが前へ出ようとしたが、リリアはそっと彼の手を握った。
「でも、知らないまま失うことを選ぶのは嫌」
「リリア……」
「世界を壊すなんて、簡単には言えない。たくさんの人が生きているから。私が誰か一人を取り戻すために、ほかの人たちの未来を奪っていいはずがない」
彼女の瞳に、強い光が宿る。
「だからこそ、確かめたいの。世界を壊さずに、彼を取り戻す方法があるのかどうか」
その瞬間。
白い花園の中心で、銀色の鍵が輝いた。
セフィルが胸元を押さえ、息をのむ。
「これは……第二契約が反応している?」
彼の手の中にある白い花の銀環が、淡い光を放っていた。
その光は鎖に触れると、ほんの一瞬だけ黒い力を押し返した。
アステリオンの表情が変わる。
「セフィル。お前はまだ、自分の役目を理解していない」
「役目?」
「第二契約者に許された権限は、世界の終焉に関するものだけではない。原初の観測者をこちら側へ戻すか否か――その選択も、お前に委ねられている」
セフィルの目が見開かれた。
「僕が……彼を戻すかどうかを決める?」
「そうだ。創造主であっても、お前の選択を覆すことはできない」
アステリオンは冷ややかに続けた。
「だが、選択には代償がある。あの者が戻れば、世界の外へ切り離された記憶と権限が、再び世界に接続される。何が起こるか、誰にも予測できない」
リリアはセフィルを見た。
彼は、白い花の銀環を握りしめている。
かつて神々の命令に従うだけだった使者。
自分の記憶さえ奪われ、誰かを思い出すことすら許されなかった存在。
その彼に、今度は世界の未来を左右する選択が委ねられている。
「セフィル……」
「大丈夫です」
セフィルは、静かに微笑んだ。
いつもの無表情とは違う。
迷いも恐怖も隠していない、それでも自分で選ぼうとする者の顔だった。
「まだ、答えは出せません。僕は彼のことを、すべて思い出したわけではないから」
彼は銀環を見つめた。
「でも、思い出すことを恐れたくありません。誰かに決められた役目ではなく、自分の意志で、彼に会うかどうかを選びたい」
その言葉に反応するように、銀環から一筋の光が伸びた。
光は花園の奥へ向かい、枯れかけた白い花の間に、小さな扉を浮かび上がらせる。
扉には文字が刻まれていた。
――《世界外縁接続門》
――《原初の観測者、隔離領域への接続口》
「見つけた……!」
ミラが声を上げる。
しかし、レオンの顔は険しかった。
「待て。これは単なる入口ではない。世界の外側と内側をつなぐ門だ。開けば、向こう側から何かが流れ込む可能性がある」
「その通りだ」
アステリオンが手を掲げる。
黒い鎖が一斉に動き、扉を取り囲んだ。
「だからこそ、ここで封じる」
鎖が門へと突き刺さろうとした、その刹那。
「させない!」
リリアは、胸の奥に眠る力を呼び起こした。
《創世の理》。
世界の法則に干渉し、神々の権限さえ揺るがす力。
だが、今の彼女には、すべての鎖を消し去るほどの力はない。
それでも――。
「《創世の理》……対象指定。門への干渉を、一時停止!」
世界が軋んだ。
黒い鎖が門に触れる直前で停止する。
同時に、リリアの鼻から血が流れた。
「っ……!」
膝が崩れかける。
アレンがすぐに彼女を支えた。
「もういい、リリア! 無理をするな!」
「まだ……止められてる……!」
彼女の視界が白くかすむ。
たった数秒。
それだけの時間しか稼げない。
だが、セフィルはその時間を無駄にしなかった。
彼は銀環を扉にかざす。
「第二契約者の権限を行使します。接続門への封鎖命令を、拒否する」
銀環がまばゆく輝いた。
黒い鎖の一部が音もなく消滅する。
アステリオンが初めて、明確な怒りをあらわにした。
「セフィル! その権限を使えば、お前自身の存在も不安定になるぞ!」
「それでも、僕は自分で選びます」
セフィルは答えた。
「誰かの記憶を消すためでも、誰かの命令に従うためでもない。僕が、僕の意志で」
扉が開いた。
その向こうに広がっていたのは、闇ではなかった。
無数の星が流れる、果てのない銀色の空間。
星々の間に、細い糸のようなものが幾重にも伸びている。まるで世界そのものが、見えない何かに縫い留められているかのようだった。
そして、その中心に。
一人の男が立っていた。
長い銀髪。
紫色の瞳。
白い花を模した装飾が、胸元でかすかに揺れている。
第三の記憶で見た、あの青年だった。
彼は扉の向こうから、こちらを見つめていた。
その眼差しは穏やかで、どこか寂しげだった。
『……やっと、ここまで来たんだね』
声が、リリアの心に直接響く。
彼女は思わず一歩を踏み出した。
「あなたは……誰なの?」
男は答えなかった。
代わりに、彼はセフィルへ視線を向ける。
『君が、第二契約者か』
「あなたを知っているのですか?」
『知っている。けれど、君が覚えている私と、今の私は同じではないかもしれない』
男は微笑んだ。
『それでも、君が選んでくれるなら、私はその選択を受け入れる』
その言葉を聞いた瞬間、セフィルの瞳から一筋の涙がこぼれた。
記憶の底で、幼い自分が誰かに手を伸ばしている。
――忘れない。
――たとえ世界が変わっても、君を忘れない。
けれど、記憶はそこで途切れた。
男の表情が、わずかに曇る。
『ただし、リリア。君には知っておいてほしいことがある』
「……何?」
『私を世界へ戻すことは、私を救うことと同じではない』
銀色の空間に、ひび割れのような光が走った。
『私は、世界の外に囚われているのではない』
男は静かに告げた。
『――私は、世界を守るために、自分の意志でここに残ったんだ』
リリアは息をのんだ。
エリシアが彼を外へ追いやったのではなかったのか。
それとも、彼自身が何かを犠牲にして、世界を守ろうとしたのか。
真実を問いただそうとした、その瞬間。
男の背後に、巨大な黒い影が浮かび上がった。
それは人の形をしていた。
けれど、顔も輪郭も定まらず、無数の目だけがこちらを見つめている。
アステリオンが、恐怖に顔を歪めた。
「なぜだ……! なぜ、あれまで目覚めている!?」
男は目を伏せた。
『……時間がない』
そして、リリアに向かって最後の言葉を告げる。
『君が私を取り戻したいと願うなら、まずエリシアが封じた第三の記憶を受け入れなければならない』
「第三の記憶……?」
『そこには、君がまだ知らない、私たちの過ちが記されている』
銀色の空間が揺らいだ。
男の姿が、少しずつ遠ざかっていく。
『次に会うとき、私は君を拒むかもしれない。それでも――』
彼は、悲しげに微笑んだ。
『君自身の答えを、聞かせてほしい』
扉が閉じた。
同時に、リリアの力が限界を迎え、彼女はアレンの腕の中へ倒れ込んだ。
「リリア!」
意識が遠のく中、彼女は最後に見た。
アステリオンが、消えかけた扉を見つめながら呟く姿を。
「第三の記憶が戻れば……エリシアは、あの日の選択を思い出す」
神の使徒は、震える声で続けた。
「そして世界は知ることになる。創造主が、誰を犠牲にしてこの世界を生み出したのかを――」
その言葉を聞き届ける前に、リリアの意識は闇へ沈んだ。
遠い場所で、誰かが彼女の名を呼んでいた。
優しく。
悲しく。
まるで、二度と届かない別れを告げるように。
――リリア。
――今度こそ、君は選べるだろうか。
世界を守ることと、大切な人を取り戻すこと。
その二つが、決して同じではないと知ったときに。
第三十三話
次回、第三十四話「創造主が犯した最初の過ち」
リリアが目覚めたとき、彼女の中には見覚えのない記憶が一つ宿っていた。
それは、エリシアが世界を創造するよりも前の記憶。
そして、銀髪の青年が世界の外へ残ることを選んだ、本当の理由につながるものだった。




