第32話 封印された第三の記憶
第32話 封印された第三の記憶
白い花びらが、石碑の前を静かに舞っていた。
ルシェラが再び目を閉じてから、どれほどの時間が経ったのだろう。
結晶は沈黙し、銀色の光も薄れている。
それなのに、リリアの胸元では《創世の理》が絶えず輝いていた。
まるで、まだ誰かと繋がっているかのように。
「第三の記憶……」
リリアは石碑に刻まれた文字を見つめた。
第一の記憶、エリシア。
第二の記憶、ルシェラ。
そして、第三の記憶。
創造主自身が封印した記憶。
「ねえ、レオン。創造主が自分の記憶を封印するなんて、そんなことができるの?」
「可能性はある」
レオンは慎重に答えた。
「エリシアが世界を創った存在なら、記憶を保存する仕組みも、封印する仕組みも、自ら生み出せたはずだ。ただし、なぜ封印したのかは別の問題だ」
「神々に知られたくなかったから……?」
「それなら、神々が閲覧できない場所に隠せばいい。わざわざ自分自身の記憶を封じる必要はないだろう」
アレンも石碑へ目を向けた。
「つまり、エリシア自身が、その記憶を思い出すことを恐れていた可能性がある」
その言葉に、リリアは息を呑んだ。
世界を創った存在。
神々にすら命令されない存在。
そんなエリシアが、恐れるものなどあるのだろうか。
「……あるよね」
リリアは小さくつぶやいた。
「どんなに強くても、どんな力を持っていても、怖いものがなくなるわけじゃない」
前世の自分を思い出す。
誰かに嫌われることが怖かった。
失敗することが怖かった。
本当の気持ちを伝えて、それを拒絶されることが怖かった。
だから、自分の望みを心の奥へ押し込めた。
エリシアもまた、何かを恐れていたのだろうか。
それとも、恐れていたのは自分自身の心だったのだろうか。
「調べてみよう」
リリアは石碑へ近づいた。
「この記憶が何なのか、確かめたい」
「待ってくれ」
アレンが彼女の手首をそっとつかんだ。
「さっき、記憶に引き込まれて倒れただろう。もう一度、同じことが起きるかもしれない」
「わかってる。でも、今なら少しだけ触れられる気がするの」
「リリア……」
「無理はしない。約束する」
リリアは、まっすぐにアレンを見つめた。
「ひとりではやらないよ。みんながそばにいてくれるから」
アレンはしばらく彼女を見つめたあと、静かにうなずいた。
「何かあれば、すぐに手を離せ。必ずだ」
「うん」
リリアは石碑に手を伸ばした。
指先が文字に触れる。
その瞬間、白い花びらが一斉に舞い上がった。
*
――見ないで。
最初に聞こえたのは、少女の声だった。
――お願いだから、これ以上は見ないで。
リリアの目の前に、幼いエリシアが立っていた。
彼女は泣いていた。
いつも世界を創り、命を生み出すことを夢見ていた少女。
その手には、小さな銀色の鍵が握られている。
エリシアの前には、見覚えのない扉があった。
扉の向こうから、誰かの声がする。
『エリシア。開けて』
優しい声だった。
それを聞いたエリシアは、激しく首を横に振った。
『いや……』
『どうして? 私はここにいるよ』
『だめなの……!』
エリシアは鍵を握りしめた。
『この扉を開けたら、あなたは……』
言葉が途切れた。
その瞬間、扉の表面に黒い亀裂が走った。
向こう側から、無数の手が伸びてくる。
エリシアは悲鳴を上げ、鍵を床へ叩きつけた。
『ごめんなさい……!』
彼女は泣きながら叫んだ。
『私には、選べない……!』
世界が揺れた。
扉の向こうから聞こえていた声が、遠ざかっていく。
『エリシア……』
最後に聞こえたのは、ひどく寂しそうな呼び声だった。
『約束したのに』
エリシアは両手で耳を塞いだ。
『ごめんなさい、ごめんなさい……!』
その姿を見た瞬間、リリアの胸に鋭い痛みが走った。
これは、ただの記録ではない。
エリシアが、誰にも見せたくなかった記憶。
彼女が自分自身からさえ隠した、過去の一場面なのだ。
「エリシア……」
リリアが名を呼ぶと、幼い少女が顔を上げた。
その青い瞳が、まっすぐにリリアを捉える。
『どうして、あなたがここにいるの?』
リリアは息を呑んだ。
「私が、見ていることに気づいているの?」
『あなたは、私だから』
エリシアは悲しそうに微笑んだ。
『でも、私とあなたは、同じではない』
その言葉と同時に、景色が変わった。
*
そこは、まだ神々のいない世界だった。
星々が生まれ、命の芽が大地に宿り始めたばかりの時代。
エリシアは、銀髪の少女ルシェラと並んで立っていた。
ふたりの前には、一人の青年がいる。
長い銀髪。
紫色の瞳。
胸元には、白い花が飾られていた。
リリアは、はっと息を呑んだ。
夢の中で見た青年だ。
彼はエリシアとルシェラを交互に見つめ、困ったように笑っていた。
『そんなに急がなくても、世界は逃げたりしないよ』
『でも、早く見せたいの!』
エリシアが答える。
『私たちが創った世界を、あなたにも見てほしいんだもの』
青年は目を細めた。
『わかった。最後まで付き合うよ』
ルシェラも笑った。
『約束だからね』
『約束、か』
青年は、ふたりの手を取った。
『それなら、ひとつだけお願いしてもいいかな』
『なに?』
エリシアが尋ねる。
青年は、少しだけ真剣な表情になった。
『もし、いつか私たちが間違えたときは……誰かに止めてもらおう』
エリシアは首を傾げた。
『間違える?』
『どれほど正しいと思っていても、自分ひとりでは気づけないことがあるから』
青年はふたりを見つめた。
『だから、誰かの声を聞けるようにしておきたいんだ』
ルシェラは、ゆっくりとうなずいた。
『うん。わかった』
エリシアも笑った。
『じゃあ、私たちが間違えたときは、あなたが教えてね』
青年は一瞬だけ目を伏せた。
『……できるなら、そうしたい』
その言葉が、リリアの胸に深く響いた。
彼は、ふたりにとって特別な存在だった。
創造主と、世界の法則から消された少女。
その間に立ち、ふたりが間違えたときには止めると約束した存在。
それが、あの青年だったのだろうか。
けれど、次の瞬間。
空が黒く染まった。
青年の身体から、光がこぼれ落ちていく。
『……時間がない』
彼は、ふたりから一歩離れた。
『もうすぐ、私の存在は世界に認識されなくなる』
『そんな……!』
エリシアが彼の腕をつかむ。
『いやよ! そんなの、認めない!』
『エリシア』
『世界を創ったのは私よ! だったら、あなたを消さないことだってできるはず!』
彼女の足元で、世界の法則が揺らぎ始めた。
けれど、青年は首を横に振った。
『君が私を無理に残せば、世界そのものが壊れてしまう』
『それでもいい!』
エリシアの声が響いた。
『あなたがいない世界なんて、いらない!』
リリアの胸が締めつけられた。
それは、かつてルシェラに向けて叫んだ言葉と、よく似ていた。
失いたくない。
離れたくない。
そのためなら、何もかも捨ててしまってもいい。
エリシアは、そう思ってしまったのだ。
青年は、そっとエリシアの手をほどいた。
『ごめんね』
そして、ルシェラを見つめた。
『君に、頼みたいことがある』
『……なに?』
『いつかエリシアが、私を取り戻そうとして世界を壊しかけたら』
青年は、悲しそうに微笑んだ。
『彼女を、ひとりにしないでほしい』
ルシェラの瞳が揺れた。
『でも、それでは……』
『彼女を止めることと、彼女を見捨てることは違うから』
青年は、ふたりを交互に見た。
『どうか、それだけは忘れないで』
光が溢れた。
青年の姿が、少しずつ薄れていく。
『待って!』
エリシアが叫ぶ。
『行かないで! お願い、私を置いていかないで!』
青年は最後に、エリシアの額へそっと手を当てた。
『君が自分で選んだ未来を、いつか好きになれるといいね』
そして、消えた。
その瞬間、エリシアの手の中に、銀色の鍵が残された。
彼女は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
ルシェラは、そんなエリシアを抱きしめた。
『……大丈夫』
けれど、エリシアは首を横に振った。
『大丈夫じゃない……!』
少女の涙が、白い花の上に落ちた。
『私が、あの人を消してしまったの……!』
*
「――っ!」
リリアは石碑から手を離した。
膝から力が抜け、倒れかけた身体をアレンが受け止める。
「リリア!」
「大丈夫……大丈夫だから……」
そう答えたものの、呼吸がうまくできなかった。
鼻の奥が熱い。
指先が震えている。
頭の中には、エリシアの泣き声が残っていた。
自分が、あの人を消してしまった。
あの言葉が、何度も繰り返される。
「何が見えた?」
アレンが心配そうに尋ねた。
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「エリシアは……大切な人を失ったんだと思う」
セフィルが目を見開いた。
「大切な人……。あの銀髪の青年ですか?」
「うん。でも、ただ失ったんじゃない」
リリアは、胸元に手を当てた。
「彼が消えたことに、エリシア自身が関わっていたみたいなの」
その場に沈黙が落ちた。
カイルが、指輪を握りしめる。
「だから、自分の記憶を封じたのか……?」
「たぶん。あの記憶を思い出すと、自分が何をしたのかも、全部思い出してしまうから」
リリアは、唇をかんだ。
エリシアは世界を壊したかったわけではない。
最初から、破壊を望んでいたわけでもない。
彼女はただ、失ったものを取り戻したかった。
けれど、その願いはいつしか、世界のすべてを巻き込むほど大きくなってしまったのだ。
「……私、エリシアを責められない」
リリアは小さくつぶやいた。
「でも、同じことを繰り返したくもない」
その言葉に、アレンが静かにうなずいた。
「なら、過去を知ったうえで、お前自身の答えを探せばいい」
「うん」
リリアは、もう一度石碑を見つめた。
第三の記憶は、まだ完全には開かれていない。
だが、その奥には、エリシアが自分自身から隠した真実が眠っている。
そして、その真実に触れたとき、リリア自身もまた、何かを選ばなければならなくなるのだろう。
そのときだった。
石碑の表面に、新しい文字が浮かび上がった。
――第三の記憶、部分復元。
――封印理由:創造主自身による存在消去。
――記憶対象:原初の観測者。
リリアは、息を止めた。
「原初の……観測者?」
レオンが石碑を凝視する。
「そんな存在の記録は、どの神話にも残っていない」
続いて、文字が現れた。
――対象は、世界の法則により消去されたのではない。
――対象は、創造主エリシアによって、世界の外へ移された。
全員が凍りついた。
「世界の外へ……移した?」
ミラがつぶやく。
リリアは、夢の中で見た青年の姿を思い出した。
消えてしまったのではない。
エリシアが、自らの手で世界の外へ移した。
それなら、青年はまだ存在しているのだろうか。
まだ、どこかで生きているのだろうか。
最後の文字が、ゆっくりと浮かび上がる。
――対象の再接続には、創造主と第二契約者、双方の承認が必要。
セフィルが息を呑んだ。
「私と……エリシアの承認」
その瞬間、白花の庭全体が揺れた。
遠くの空に、黒い裂け目が開く。
その向こうから、冷たい声が響いた。
『そこまでだ』
アステリオンだった。
『原初の観測者に関する記憶を、これ以上復元させるわけにはいかない』
空から無数の鎖が降り注ぐ。
鎖は白い花をなぎ払い、石碑へと巻きついていった。
レオンが剣を抜く。
「全員、下がれ!」
アレンもリリアをかばうように前へ出た。
だが、リリアは鎖を見つめたまま動かなかった。
神々は、何を恐れているのだろう。
世界の外へ移された青年。
エリシアが自分の手で封じた記憶。
そして、創造主と第二契約者の承認がなければ戻せない存在。
すべてが、ひとつの真実へと繋がり始めている。
リリアの胸元で、《創世の理》が強く輝いた。
その光に呼応するように、石碑の奥から、かすかな声が聞こえた。
『……エリシア』
それは、夢の中で聞いた青年の声だった。
『今度こそ、君に選んでほしい』
リリアの目が見開かれる。
声は、最後にこう告げた。
『私を取り戻すために、世界を壊すのか』
『それとも――私を失ったままでも、生きていくのか』
そして、白花の庭を覆う光が、音もなく消えた。
第32話・
次回、第33話「世界の外に囚われた男」
アステリオンの襲撃によって、白花の庭は崩壊を始める。
リリアたちは第三の記憶を守りながら脱出を試みるが、石碑の奥から現れた声が、リリアだけに新たな選択を迫る。
世界の外にいる原初の観測者。
彼はエリシアにとって、何者だったのか。
そして、なぜリリアに「選んでほしい」と願うのか。




