第31話 記憶の奥で呼ぶ声
第31話 記憶の奥で呼ぶ声
――今度こそ、私を忘れないで。
その声が聞こえた瞬間、リリアの意識は深い闇へと沈んでいった。
誰かが、自分の手を握っている。
温かい手だった。
けれど、その手は少しずつ冷たくなっていく。
「待って……!」
リリアは必死に手を伸ばした。
「行かないで! お願いだから……!」
誰に向かって叫んでいるのか、自分でもわからなかった。
ただ、この手を離してはいけない。
離してしまえば、二度と取り戻せなくなる。
そんな確信だけがあった。
けれど、握っていた手は、ゆっくりと離れていく。
『ごめんね』
声がした。
『本当は、ずっと一緒にいたかった』
「いや……!」
『でも、あなたまで失うわけにはいかないから』
視界が白く染まった。
そして、リリアは見知らぬ場所に立っていた。
*
そこは、星々が浮かぶ海のような場所だった。
足元には水面が広がっているのに、靴は濡れない。
頭上には無数の星が瞬き、遠くには、まだ生まれていない世界の輪郭が浮かんでいた。
その中央に、一人の青年が立っていた。
長い銀髪。
透き通るような紫色の瞳。
そして、見覚えのある白い花を胸元に飾っている。
青年はリリアに背を向けていた。
「……あなたは、誰?」
問いかけても、青年は振り返らない。
ただ、目の前に広がる星の海を見つめていた。
『世界が生まれる前は、何もなかった』
青年が語り始める。
『時間も、命も、終わりもなかった。だから、誰かを失うこともなかった』
彼の声には、深い悲しみが滲んでいた。
『けれど、エリシアは世界を創った』
無数の星が、一斉に輝いた。
光が集まり、ひとつの世界が形作られていく。
『命が生まれ、心が生まれ、誰かを愛することができるようになった』
青年は、そっと目を閉じた。
『その代わりに、別れも生まれた』
リリアは息を呑んだ。
この青年は、エリシアを知っている。
それも、ただの知り合いではない。
世界が生まれる前から、彼女のそばにいた存在なのだ。
「あなたは……エリシアの大切な人なの?」
青年の肩が、わずかに揺れた。
『そうだったら、よかったのに』
その言葉は、ひどく寂しかった。
『私は、彼女に何も返せなかった』
青年が振り返る。
その顔を見た瞬間、リリアの呼吸が止まった。
知らない顔だった。
けれど、その瞳だけは知っている気がした。
ずっと昔から。
何度も夢の中で見てきたように。
「あなたは……」
リリアが言いかけた瞬間、青年の顔に亀裂が走った。
まるで、世界が彼の姿を消そうとしているかのように。
『まだ、思い出してはいけない』
「どうして?」
『あなたが思い出せば、あの約束が再び動き出す』
「約束って何なの?」
青年は答えなかった。
代わりに、リリアへ手を伸ばした。
『ひとつだけ、覚えておいて』
彼の指先が、リリアの額に触れる。
『あなたが何者であっても、あなたが選ぶ未来は、あなた自身のものだ』
その言葉に、リリアの胸が強く締めつけられた。
なぜだろう。
同じ言葉を、どこかで聞いたことがある。
前世の記憶が戻る前。
まだ何も知らず、誰かの期待に応えることだけを考えていた頃。
自分が本当に望んでいることさえ、わからなくなっていた頃。
あのときも、誰かに同じことを言われた気がした。
「待って! あなたの名前を教えて!」
青年の姿が、さらに薄くなっていく。
『名前は……』
声が遠ざかる。
『まだ、あなたに伝えることはできない』
「どうしてなの!」
『その名前を知れば、神々はあなたを見つけてしまう』
青年は、最後に微笑んだ。
『そして、今度こそ私たちを引き離そうとするだろう』
光が弾けた。
リリアの視界が、真っ白に染まる。
その直前、青年の唇が、かすかに動いた。
『――リリア』
自分の名前。
確かに、そう聞こえた。
けれど、その声には、まるで別の名前を呼んでいるような響きもあった。
リリアは、その答えをつかむことができないまま、意識を失った。
*
「リリア!」
誰かが自分を呼んでいる。
遠くから、何度も。
「リリア、目を開けてくれ!」
聞き慣れた声だった。
リリアは、ゆっくりと目を開いた。
最初に見えたのは、心配そうに覗き込むアレンの顔だった。
「……アレン?」
「よかった……!」
アレンは、彼女の肩を支えていた手に力を込めた。
「急に倒れたんだ。呼びかけても反応がなくて……」
「ごめんね。心配をかけちゃった」
「謝る必要はない。だが、次からは何か異変があったら、すぐに言ってくれ」
その声には、隠しきれない不安があった。
リリアは小さくうなずいた。
「うん。約束する」
周囲を見回すと、ミラが安堵の息をつき、レオンが警戒するように扉の方を見ていた。
セフィルは、結晶の前に立っている。
その表情は、ひどく険しかった。
「セフィル……?」
彼は、ゆっくりと振り返った。
「リリア。あなたが意識を失った直後、結晶の中から声が聞こえました」
「声?」
「はい。ですが、私にも内容のすべては聞き取れませんでした」
セフィルは結晶を見つめる。
「ただ、最後にこう告げたのです」
彼は、ためらうように一度言葉を切った。
「――『創造主を、もう一度選ばせて』と」
リリアは息を呑んだ。
「創造主を……選ばせる?」
「誰が、誰を選ぶのか。それはわかりません」
セフィルは首を横に振った。
「ですが、あの声はルシェラのものではありませんでした」
その言葉に、カイルが顔を上げた。
「じゃあ、記憶の中にいた、あの人物か?」
「おそらく」
カイルは指輪を握りしめた。
「僕も、少しだけ見えたんだ。リリアが倒れたとき、指輪に知らない光景が浮かんだ」
「どんな光景だったの?」
「星の海と……銀髪の青年。それから、白い花」
カイルは苦しそうに眉を寄せた。
「でも、顔を思い出そうとすると、頭の中に霧がかかるんだ」
リリアは、夢の中で見た青年を思い出した。
長い銀髪。
紫色の瞳。
そして、名前を教えてくれなかったこと。
彼は、エリシアの大切な人なのだろうか。
それとも、エリシア自身なのだろうか。
わからない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
あの青年は、自分を知っていた。
そして、自分が何かを思い出すことを恐れていた。
「……私、夢を見たの」
リリアは、みんなに向かって話し始めた。
「星の海の中に、銀髪の青年がいた。彼はエリシアのことを知っていて、世界が生まれる前から、ずっと何かを悔やんでいたみたいだった」
「青年は、何かを言っていたか?」
アレンが尋ねる。
「うん。『あなたが何者であっても、あなたが選ぶ未来は、あなた自身のものだ』って」
その言葉を聞いた瞬間、セフィルの瞳が大きく見開かれた。
「……その言葉は」
「知っているの?」
「いえ。ですが、私の記憶の中にも、同じ言葉が残っています」
セフィルは、胸元に手を当てた。
「誰かが、私に向かって言ったのです。『命令ではなく、あなた自身の意志で選んで』と」
彼はリリアを見つめた。
「もしかすると、あの青年は、私たちが失った記憶を繋ぐ存在なのかもしれません」
レオンが静かにうなずいた。
「ならば、次に調べるべきは、あの青年の正体だな」
「でも、どうやって?」
ミラが尋ねる。
その問いに答えたのは、カイルだった。
「僕の指輪に、まだひとつだけ反応している場所がある」
彼は指輪を掲げた。
白い花の中心から、細い銀色の光が伸びている。
光の先は、白花の庭のさらに奥。
そこには、今まで誰も気づかなかった小さな石碑があった。
「この先に、何かがあるんだ」
カイルが近づくと、石碑の表面に文字が浮かび上がった。
古代文字ではない。
神々の記録に使われている文字でもない。
それは、世界が生まれる前の、原初の文字だった。
レオンが慎重に読み上げる。
「――創造主の記憶を継ぐ者へ」
文字が、次々と浮かび上がった。
――第一の記憶、エリシア。
――第二の記憶、ルシェラ。
――第三の記憶、未登録。
そして、その下に。
――第三の記憶は、創造主自身によって封印された。
「創造主自身が……?」
リリアは、思わず石碑へ近づいた。
「どうして、自分の記憶を封印する必要があったの?」
その問いに答えるように、石碑の奥から声が響いた。
『それは、私が忘れなければならなかったから』
全員が一斉に振り返った。
結晶の中で、ルシェラが目を開けていた。
透き通るような銀色の瞳。
その視線は、まっすぐにリリアを捉えている。
『忘れなければ、私はきっと、また同じ選択をしてしまう』
結晶の表面に、細い亀裂が走った。
『だから、あの人の名前も、約束も、すべて封じたの』
「ルシェラ……!」
セフィルが駆け寄った。
「あなたは、何を知っているのですか? エリシアが取り戻そうとしたものは、いったい何だったのですか?」
ルシェラは、悲しそうに微笑んだ。
『セフィル。あなたは、まだ思い出していないのね』
「何を……?」
『あなたが、本当に守ろうとしていたものを』
セフィルの顔が強張った。
ルシェラは、今度はリリアを見つめた。
『そして、あなたも』
その声が、部屋に静かに響く。
『あなたは、まだ自分が誰なのかを知らない』
リリアの胸元で、《創世の理》が輝いた。
『でも、もうすぐ思い出すわ』
ルシェラは、ゆっくりと目を閉じた。
『第三の記憶が目覚めたとき、すべての約束が動き出す』
結晶の光が弱まっていく。
最後に、彼女の唇が小さく動いた。
『お願い、リリア』
その声は、祈りのようだった。
『あの人を見つけて。そして、今度こそ――あなた自身の答えを選んで』
結晶が再び静かになった。
部屋には、誰も言葉を発しないまま、長い沈黙が流れた。
リリアは、自分の手を見つめた。
自分が誰なのか。
エリシアと、どう繋がっているのか。
そして、あの銀髪の青年は何者なのか。
答えは、まだ遠い。
けれど、もう目をそらすことはできなかった。
自分の魂に刻まれた謎からも。
過去に交わされた約束からも。
そして、いつか自分が選ばなければならない未来からも。
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「……見つけるよ」
誰に聞かせるためでもなく、彼女はつぶやいた。
「あの人を見つけて、全部確かめる。エリシアが何を望んでいたのかも、ルシェラが何を恐れているのかも」
そして、最後に。
「私が、本当は何を望んでいるのかも」
その瞬間、石碑の文字が再び輝いた。
第三の記憶の封印が、ほんのわずかに緩んだ。
遠い世界の果てで、誰かが目を覚ます。
長い眠りから目覚めたその人物は、白い花を手に取り、静かに微笑んだ。
「……ようやく、ここまで来たんだね」
紫色の瞳が、遠い空を見つめる。
「でも、リリア。あなたが私を見つけたとき、私はきっと――あなたを傷つけることになる」
白い花びらが、一枚、風に舞った。
第31話・
次回、第32話「封印された第三の記憶」
ルシェラの目覚めによって、創造主が隠した第三の記憶の存在が明らかになった。
その記憶を封じた理由は、神々への恐怖ではない。
エリシア自身が、どうしても思い出したくなかった、たったひとつの選択だった。
そして、遠い場所で目覚めた謎の人物もまた、リリアとの再会を恐れていた。




