第27話 消された存在と、使者の涙
第27話 消された存在と、使者の涙
――やっと、会えたね。
その声が響いた瞬間、神殿の時間が止まったように感じられた。
セフィルは剣を振り下ろすことも、腕を引くこともできずに立ち尽くしていた。
紫色の瞳から、一筋の涙が頬を伝う。
本人が最も驚いているようだった。
「……なぜ」
震える声が、静かな記録保管室に落ちた。
「なぜ、私は泣いているのですか」
リリアは、彼のもとへ一歩近づいた。
「セフィル……」
「来ないでください」
セフィルは剣を握り直そうとした。
しかし、指が動かない。
胸元の黒い命令印が脈打ち、彼の身体を強制的に動かそうとしていた。
「私は、命令を受けています。八番目の記録を破壊し、あなたを連行しなければならない」
「でも、今のあなたは、記録を壊したくないんじゃないの?」
「……分かりません」
「分からなくてもいいよ」
リリアは、彼の目をまっすぐに見つめた。
「今すぐ答えを出さなくてもいい。だけど、誰かに命令されたからって、自分の気持ちまでなかったことにしないで」
セフィルの瞳が揺れた。
その言葉は、以前にも聞いたことがある気がした。
けれど、いつ、どこで、誰に言われたのか。
思い出そうとするたび、頭の奥に黒い霧が広がる。
「……私は、誰なのですか」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
神々の使者。
アステリオンの命令を実行するために生み出された存在。
それが、セフィルに与えられた答えだった。
しかし、彼自身の心は、その答えに納得していなかった。
八番目の記録が、淡い光を放つ。
ページがひとりでにめくれ、白紙だった最後の一枚に文字が浮かび上がった。
――原初存在に関する記録。
――閲覧条件:当該存在の記憶を継ぐ者が、その存在を認識すること。
レオンが息をのんだ。
「記憶を継ぐ者……?」
文字の下に、新たな文章が現れる。
――対象者、セフィル。
その場の空気が凍りついた。
「……私?」
セフィルが顔を上げる。
次の瞬間、記録のページから白い光があふれた。
光は細い糸となって伸び、セフィルの胸元に触れる。
黒い命令印が激しく明滅した。
『閲覧を中止せよ』
アステリオンの声が響いた。
『セフィル、その記録に触れるな!』
今まで聞いたことがないほど、切迫した声だった。
リリアは目を見開いた。
神王は、八番目の記録を恐れている。
そして今、セフィルの記憶が開かれようとしていることを、何よりも恐れていた。
「アステリオン……」
リリアは、光の向こうへ声を投げかけた。
「あなたは、セフィルに何をしたの?」
『黙れ!』
神王の怒声が響く。
『そいつは私の命令に従うために存在する! 余計な記憶など必要ない!』
その言葉が、セフィルの胸に突き刺さった。
余計な記憶。
必要のない感情。
必要のない意思。
それらは、彼がこれまで疑うこともなく受け入れてきたものだった。
けれど、今は違う。
「……私が何を必要とするのかは」
セフィルが、かすかに顔を上げた。
「私自身が決めてはいけないのですか」
沈黙。
その問いに、アステリオンはすぐには答えなかった。
そして次の瞬間、黒い命令印がセフィルの身体を覆い尽くした。
「ぐっ……!」
セフィルが膝をつく。
剣が床に落ちた。
リリアが駆け寄ろうとしたが、レオンが腕を伸ばして制止した。
「待て! 命令印が暴走している。無理に触れれば、お前まで巻き込まれる!」
「でも、セフィルが……!」
「分かっている。だからこそ、慎重にやるんだ!」
リリアは唇をかみしめた。
創世の理を使えば、命令印を破壊することはできるかもしれない。
だが、セフィルの魂にまで影響を与えてしまったら。
彼が取り戻そうとしている記憶まで、壊してしまうかもしれない。
リリアは目を閉じ、意識を集中させた。
命令印の構造を読む。
黒い紋章の奥に、幾重にも重なった法則が見えた。
行動の制限。
感情の抑制。
記憶への干渉。
そして、最も深い場所に刻まれた命令。
――原初存在に関する記憶を、永久に封印せよ。
「……こんなことまで」
リリアの声が震えた。
アステリオンは、セフィルの記憶を消していたのではない。
思い出すことそのものを、許さないようにしていたのだ。
そのとき、八番目の記録から少女の声が響いた。
『リリア。お願いがあるの』
リリアは目を開いた。
「あなたは……誰なの?」
『今は、名前を思い出さなくてもいい』
声は優しかった。
『でも、あの子を助けてあげて』
「セフィルを?」
『ううん』
少女は、静かに答えた。
『あの子の中に残っている、私の記憶を』
その言葉と同時に、リリアの視界が白く染まった。
――記憶の世界。
そこは、まだ何も存在しない空間だった。
空も、大地も、星もない。
ただ、淡い光だけがどこまでも広がっている。
その中央に、二人の少女がいた。
一人は、銀色の髪を持つエリシア。
もう一人は、エリシアと同じ顔をした少女だった。
二人は向かい合い、笑い合っている。
『ねえ、エリシア』
少女が言った。
『あなたが世界を創ったら、私もそこにいていい?』
『もちろんよ』
エリシアは、迷いなく答えた。
『あなたがいない世界なんて、私には考えられないもの』
少女は嬉しそうに笑った。
『じゃあ、約束ね』
二人は小指を結んだ。
『どんなことがあっても、私たちはお互いを忘れない』
『約束するわ』
その光景を見つめながら、リリアの胸が痛んだ。
この二人は、世界が生まれる前から一緒にいた。
エリシアにとって、世界を創ることよりも前から大切だった存在。
そして、その約束は守られなかった。
場面が変わる。
七つの光が誕生し、神々が生まれた。
少女は世界の法則に触れられず、少しずつその存在を失っていく。
エリシアは必死に彼女を救おうとした。
しかし、神々は告げた。
『その存在は、世界の法則に登録されていない』
『この世界に必要のない存在です』
『消去するほかありません』
エリシアは叫んだ。
『この子は、私の大切な人よ!』
それでも、少女の身体は崩れていった。
最後に残ったのは、少女の魂だけだった。
エリシアは、その魂を抱きしめた。
『お願い……消えないで』
そして、彼女は自分の力を分け与えた。
世界の法則に縛られない、原初の力。
少女の魂は、かろうじて形を保った。
だが、その代償として、彼女は世界の記録から完全に切り離されてしまった。
誰も彼女を認識できない。
誰も彼女を記憶できない。
エリシアでさえ、彼女を思い出すたびに、その記憶を失っていく。
少女は泣いていた。
『エリシア……私を、忘れないで』
エリシアは、彼女を抱きしめた。
『絶対に、忘れないわ』
その約束が、どれほど残酷なものになるのかも知らずに。
リリアの視界が揺れた。
次の瞬間、彼女は記憶の世界から引き戻された。
「……っ!」
床に手をつき、荒い息を吐く。
目の前では、セフィルが苦しそうにうずくまっていた。
リリアは、彼の胸元に手をかざした。
「セフィル。あなたの中に残っている記憶を、取り戻すよ」
「……私の、記憶……?」
「うん。でも、無理に全部を思い出させたりはしない。あなたが受け止められるところまででいい」
セフィルは、かすかに顔を上げた。
「私は……怖いのです」
その声は、ひどく小さかった。
「もし、思い出したことで、今の私が変わってしまったら。今まで信じていたものが、すべて間違いだったら……私は、どうすればいいのですか」
リリアは、静かに答えた。
「変わってもいいんだよ」
セフィルの瞳が揺れる。
「過去を知ったからって、今のあなたが消えてしまうわけじゃない。思い出したあとで、何を選ぶかは、あなたが決めていい」
リリアは彼の目を見つめた。
「私は、あなたが何者だったとしても、今ここにいるセフィルを見ているから」
セフィルは、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
「……お願いします」
リリアは創世の理を発動させた。
世界を変えるのではない。
誰かの意思を上書きするのでもない。
ただ、封じられた記憶への道を開く。
黒い命令印に、細い亀裂が走った。
そして、その奥から一つの記憶が浮かび上がった。
白い花が咲く庭。
銀色の髪の少女が、ベンチに座っている。
その隣には、幼いセフィルによく似た少年がいた。
少年は、少女に向かって尋ねた。
『ねえ。どうして、みんなは君のことを忘れてしまうの?』
少女は、寂しそうに笑った。
『私が、世界の記録に存在しないからよ』
『じゃあ、僕は?』
少年は、少女の手を握った。
『僕は、君を忘れないよ』
少女は驚いたように目を見開いた。
そして、そっと少年の頭を撫でた。
『ありがとう』
少女は微笑んだ。
『あなたが覚えていてくれるなら、私はまだ、ここにいられる』
記憶はそこで途切れた。
セフィルは、目を見開いたまま動かなかった。
「……私は」
彼の唇が震える。
「私は、あの子を……知っていた」
その頬を、再び涙が伝った。
今度は、理由が分からない涙ではなかった。
忘れていた誰かを、思い出した涙だった。
だが、その記憶の奥には、さらに深い闇が広がっていた。
少女が消えたあと、少年は神殿に連れていかれていた。
そして、アステリオンが告げていた。
『お前の記憶は、世界の秩序を乱す』
『あの存在を覚えている限り、お前は神々に従えなくなる』
『だから、忘れろ』
少年は必死に首を振った。
『嫌だ! 僕は、あの子を忘れない!』
だが、黒い光が彼の身体を包み込む。
記憶が消されていく。
最後に、少年は涙を流しながら叫んだ。
『……約束したんだ!』
その声が、セフィルの心に深く刻まれた。
記憶の光が消えたあと、セフィルは長い沈黙の末に顔を上げた。
「……あの子は、誰なのですか」
リリアは答えようとした。
けれど、まだ名前は分からない。
分かっているのは、彼女がエリシアの大切な存在だったこと。
そして、神々がその存在を世界から消し去ろうとしたことだけだ。
「まだ、全部は分からない。でも……」
リリアは、セフィルの手を取った。
「あなたが忘れていた約束は、確かにあったんだよ」
セフィルは、握られた手を見つめた。
その指先が、わずかに動く。
そして、初めて自分から、リリアの手を握り返した。
「……ありがとうございます」
その瞬間。
八番目の記録が、まばゆい光を放った。
ページの最後に、新たな文字が浮かび上がる。
――原初存在の記憶、第一段階の復元を確認。
――記憶継承者、セフィル。
――封印の解除により、第二契約の再起動を開始します。
「第二契約……?」
リリアがつぶやいた。
直後、神殿全体が大きく揺れた。
遠くから鐘の音が響く。
一度。
二度。
三度。
七回目の鐘が鳴ったとき、八つ目の記録から黒い鎖が伸びた。
その鎖は、セフィルの手首に巻きつく。
「っ……!」
セフィルが息をのむ。
鎖の表面に、古代文字が浮かび上がった。
リリアには、その意味が読めた。
――第二契約者、所在を確認。
――契約対象、覚醒準備を開始。
――世界の終焉に関する権限、再接続。
リリアの顔から血の気が引いた。
第二契約者。
世界の終焉に関する権限。
そして、セフィルの中に残されていた、原初存在の記憶。
これらは、すべてつながっている。
そのとき、神殿の最奥から、低い音が響いた。
まるで、巨大な扉が開くような音だった。
アステリオンの声が、神殿全体に轟いた。
『……ついに、目覚めるか』
その声には、怒りも、冷静さもなかった。
ただ、深い恐怖だけがあった。
『第二契約者が目覚めれば、今度こそ、我らの支配は終わる』
リリアは、セフィルを見つめた。
彼はまだ震えていた。
けれど、その瞳には、以前にはなかった光が宿っている。
自分が何者なのか。
なぜ記憶を消されたのか。
そして、あの少女と交わした約束は何だったのか。
彼は、もう目をそらさないと決めたのだ。
「リリア……」
セフィルが、静かに口を開いた。
「私は、あなたたちと一緒に行きます」
「本当にいいの?」
「はい。私はまだ、自分のことを何も知りません。ですが……」
彼は、白い花の記憶が残る胸元に手を当てた。
「今度こそ、忘れたくないのです」
リリアはうなずいた。
「うん。一緒に探そう」
そのとき、八番目の記録の最後のページが開いた。
そこには、これまで塗り潰されていた名前の一部が浮かび上がっていた。
――第二契約者。
――原初存在。
――その名は……。
文字が現れかけた瞬間、ページが黒く染まった。
誰かが、最後の封印を発動させたのだ。
そして、リリアの耳元に、かすかな声が届いた。
『……リリア』
それは、あの銀色の髪の少女の声だった。
『今度こそ、私を見つけてね』
光が消えた。
記録保管室は、再び静寂に包まれた。
だが、リリアには分かっていた。
物語は、まだ始まったばかりなのだ。
神々が隠した存在。
セフィルが失った記憶。
そして、世界の終焉を左右する第二契約者。
すべての答えは、まだ闇の中にある。
それでも、今度は一人ではない。
リリアは、仲間たちを見渡した。
「行こう。ここにいたら、また記録を消される」
アレンがうなずき、ミラが杖を握り直す。
レオンとカイルも、それぞれの武器を構えた。
セフィルは最後に一度だけ、八番目の記録を振り返った。
そして、静かに告げた。
「……必ず、思い出します」
誰かと交わした、遠い昔の約束を。
神殿の外では、七つの光のうち、もう一つが消えかけていた。
世界の終焉に関する古い権限が、静かに目を覚まし始めていた。
第27話・
次回、第28話「七柱の神々が恐れた少女」
神殿から脱出したリリアたちは、セフィルの記憶に残された少女の正体を探る。だが、神々は彼女の存在を隠すため、世界中の記録を書き換え始めていた。
その一方で、セフィルの中に眠る第二契約が動き出す。彼が本当に継いでいるものは、記憶だけではなかった――。




