第25話 命令に背く使者
第25話 命令に背く使者
神殿へ続く巡礼路は、地図から消されていた。
かつては多くの人々が神々への祈りを捧げるために通った道。しかし、今では崩れた石柱と枯れた草だけが残り、道の両側には深い森が広がっている。
リリアたちは、その古い道を慎重に進んでいた。
「本当にこの先に神殿があるの?」
ミラが木々の隙間から空を見上げた。
「あるはずだ。昔の巡礼記録によれば、この道は神殿の北門につながっていた」
レオンが答える。
「ただし、現在も使えるかどうかは分からない。神々が封鎖している可能性もある」
「それでも行くしかないんだよね」
リリアは手の中の銀の鍵を見つめた。
鍵は、始まりの聖域を出てから一度も光っていない。
まるで、目的地が近づくのを待っているかのようだった。
「リリア」
隣を歩いていたアレンが、静かに声をかけた。
「神殿に着いたら、俺が先に動く。君は無理に力を使わなくていい」
「でも、記録保管室を開けられるのは私かもしれないよ」
「それは分かっている。だからといって、君が全部を背負う必要はない」
アレンは、まっすぐにリリアを見た。
「君が力を使うときは、俺たちがそばにいる。忘れないでくれ」
その言葉に、リリアの胸が温かくなる。
「……ありがとう」
以前の自分なら、守られることを申し訳なく感じていただろう。
誰かの手を借りるたびに、自分には価値がないのだと思い込んでいた。
けれど今は、少しずつ分かり始めていた。
一人で立つことと、一人で戦うことは違う。
誰かを頼ることは、弱さではない。
そう思えるようになった自分を、リリアはほんの少しだけ誇らしく感じた。
そのときだった。
森の奥から、足音が聞こえた。
一つ。
また一つ。
規則正しい足音が、こちらへ近づいてくる。
「全員、止まれ」
アレンが剣に手をかけた。
レオンは杖を構え、ミラの指先には小さな炎が灯る。
カイルもまた、銀の指輪を握りしめた。
やがて木々の向こうから、一人の人物が姿を現した。
銀色の髪。
紫色の瞳。
神々の使者、セフィルだった。
「……やっぱり、来たんだね」
リリアがつぶやく。
セフィルは答えず、彼女の手にある銀の鍵を見つめた。
「リリア・エヴァンジェル。アステリオン様の命令により、その鍵を回収します」
「渡さなかったら?」
「あなたの記憶を封じます。抵抗する場合は、創世の理を停止させます」
淡々とした声だった。
以前なら、その言葉に迷いはなかっただろう。
命令を受け、命令を実行する。
それがセフィルの存在理由だった。
しかし、リリアは彼の目を見て気づいた。
ほんのわずかに、瞳が揺れている。
「セフィル」
「……何でしょう」
「あなたは、本当にそれをしたいの?」
セフィルの指が止まった。
「私の意思は関係ありません。私は神々の命令を実行するために存在しています」
「それは、あなたが決めたことなの?」
「……」
「それとも、誰かにそう決められたの?」
セフィルの胸元に、黒い紋章が浮かび上がった。
命令印。
アステリオンの意志を、使者の身体に直接刻み込むためのものだった。
紋章が脈打つ。
セフィルの表情が苦痛に歪んだ。
「黙って……ください」
彼は剣を抜いた。
「私は、命令を……」
声が途切れる。
黒い紋章が首元まで広がり、彼の身体を縛りつけていく。
セフィルの右腕が、本人の意思とは無関係に持ち上がった。
剣先がリリアへ向く。
「リリア、下がれ!」
アレンが前に出た。
だが、リリアは動かなかった。
「セフィル。聞こえているなら、答えて」
「……っ、逃げてください!」
初めて、セフィルの声に感情が宿った。
「私は……あなたを傷つけたくない!」
その言葉と同時に、剣が振り下ろされた。
アレンが剣で受け止める。
激しい金属音が森に響いた。
「ぐっ……!」
衝撃でアレンの足元が沈む。
セフィルの身体能力は、以前よりも明らかに強化されていた。黒い命令印が彼の力を引き上げ、意思に反する動きを無理やり実行させているのだ。
「このままでは、身体が壊れる!」
レオンが叫んだ。
「命令印が魔力を過剰に流し込んでいる! 放っておけば、セフィル自身が耐えられなくなるぞ!」
「なら、止める!」
ミラが炎を放とうとした。
「待って!」
リリアが声を上げる。
「攻撃しないで。セフィルは、自分の意思で戦っているんじゃない!」
「でも、このままじゃアレンが!」
「分かってる!」
リリアは奥歯をかみしめた。
助けたい。
でも、ただ力を使えばいいわけではない。
以前、創世の理で神性の法則を書き換えたとき、世界そのものに大きな負担がかかった。
今回も同じことをすれば、セフィルを救えても、別の何かを壊してしまうかもしれない。
ならば、どうする。
彼を縛る命令印だけを取り除けないだろうか。
リリアは目を閉じた。
世界の法則に意識を向ける。
セフィルの身体を流れる魔力。
神々の命令を伝える黒い紋章。
そして、その奥にかすかに残された、彼自身の意思。
見つけた。
命令印は、セフィルの魂そのものに刻まれているわけではなかった。
魂の外側に、後から付け加えられた拘束の法則。
ならば――。
「《創世の理》……!」
リリアの瞳に、淡い光が宿った。
彼女は世界を書き換えようとはしなかった。
ただ、セフィルを縛る命令印と、彼自身の意思を切り分ける。
「命令は、意思ではない……!」
光がセフィルの胸元へ走った。
黒い紋章に亀裂が入る。
「なっ……!」
セフィルの剣が、空中で止まった。
黒い紋章が激しく明滅し、耳障りな音を立てる。
リリアの鼻から、一筋の血が流れた。
「リリア!」
アレンが叫ぶ。
「大丈夫……もう少し!」
リリアは力を注ぎ続けた。
紋章を完全に消すのではない。
命令を強制的に実行させる機能だけを、一時的に切り離す。
それなら、世界の法則全体を書き換える必要はない。
――パキン。
乾いた音が響いた。
黒い紋章の中央に、一本の亀裂が走る。
次の瞬間、セフィルの剣が地面に落ちた。
彼はその場に膝をつき、荒い呼吸を繰り返した。
黒い紋章は完全には消えていない。
だが、その輝きは失われていた。
「……私、は……」
セフィルが震える手を見つめる。
自分の意思で動かせる。
自分の意思で、剣を手放せる。
それが、彼にとってどれほど信じられないことなのか。
リリアには、想像することしかできなかった。
「セフィル。大丈夫?」
彼女が近づこうとすると、セフィルは顔を上げた。
「なぜ……」
紫色の瞳に、困惑が浮かんでいる。
「なぜ、私を助けたのですか。私はあなたを捕らえるために来た。命令がなければ、あなたを殺していたかもしれない」
「でも、あなたは私を傷つけたくないって言った」
「それは……」
「その気持ちまで、誰かに命令されたものなの?」
セフィルは言葉を失った。
自分が何を感じているのか。
その答えを、彼はまだ知らなかった。
ただ一つ分かるのは、リリアを傷つけたくないと思った瞬間、胸の奥に痛みが走ったということだった。
それは命令印の痛みとは違う。
もっと弱くて、温かくて、どうしようもなく自分自身のものに思えた。
「……分かりません」
セフィルは、初めて正直に答えた。
「私は、自分の気持ちが分からない」
「なら、これから考えればいいよ」
リリアは微笑んだ。
「誰かが決めた答えじゃなくて、あなた自身の答えを」
セフィルは彼女を見つめた。
その瞳に、ほんのわずかな光が戻る。
だが、その直後。
黒い紋章が再び脈打った。
「うっ……!」
セフィルの身体が大きく揺れる。
紋章の奥から、アステリオンの声が響いた。
『セフィル。何をしている』
冷たい声だった。
『命令に背くことが、どういう意味か分かっているのか』
セフィルは顔を伏せた。
以前なら、すぐに謝罪していたはずだ。
自分の過ちを認め、命令を受け直していたはずだ。
しかし今は違う。
彼はゆっくりと顔を上げた。
「……申し訳ありません、アステリオン様」
声は震えていた。
それでも、彼は続けた。
「ですが、私は……この命令には従えません」
森が静まり返った。
アレンが目を見開き、ミラが息をのむ。
レオンでさえ、言葉を失っていた。
神々の使者が、神王の命令を拒絶した。
それは、この世界の秩序に対する明確な反逆だった。
『……愚かな』
アステリオンの声から、初めて明らかな怒りが滲んだ。
『お前は自分が何者なのか忘れたのか。お前は我らが作り出した使者だ。意思など必要ない。命令に従っていればよかったのだ』
セフィルの指先が震えた。
その言葉は、彼の存在そのものを否定するものだった。
けれど、リリアが静かに言った。
「セフィルは、あなたの道具じゃない」
黒い紋章が激しく明滅する。
「あなたが彼を作ったとしても、彼の心まであなたの所有物になるわけじゃない」
『黙れ、創造主の継承者』
アステリオンの声が轟いた。
『お前は、かつて同じ過ちを犯した。自らが創り出したものに自由を与え、その結果、世界を破滅へ導いたのだ』
リリアの表情が強張る。
エリシアの過ち。
彼女は神々を信じ、力を与え、世界の管理を任せた。
そして、その結果として世界を失った。
だが。
「……だからこそ、私は同じ答えを選ばない」
リリアはセフィルの前に立った。
「自由を与えたことが間違いだったのか。それとも、自由を与えた相手を信じるだけで、何も確かめなかったことが間違いだったのか。私はまだ、その答えを知らない」
彼女はアステリオンの声に向かって言った。
「でも、少なくとも私は、誰かが間違えるかもしれないという理由だけで、その人から選ぶ権利を奪いたくない」
沈黙。
そして、アステリオンは低く笑った。
『ならば、己の選択に責任を持つがいい』
黒い紋章が砕けた。
セフィルの胸元から、黒い光が霧のように消えていく。
だが、それは命令印が完全に消えたという意味ではなかった。
最後に残った黒い欠片が、セフィルの肌に沈み込む。
『セフィル。次に会うとき、お前に選択肢はない』
声が途絶えた。
セフィルは、しばらく動かなかった。
やがて彼は、地面に落ちた剣を拾い上げた。
そして、その剣を鞘に収めると、リリアに向き直った。
「私は……あなたたちと共に行くことはできません」
「どうして?」
「私はまだ、自分が何者なのか分かっていない。それに、私があなたたちと行動すれば、アステリオン様は必ず追ってきます」
セフィルは一度、言葉を切った。
「ですが、神殿の記録保管室についてなら、知っていることがあります」
リリアの表情が変わった。
「本当?」
「はい。神殿には、通常の記録庫とは別に、神々ですら自由に閲覧できない区画が存在します。そこには、創造主エリシアの記録と……七柱の神々が世界を管理する以前の記録が保管されているはずです」
「そこに、第二の約束のことも?」
「断言はできません。しかし、第二契約者に関する記録が残されている可能性はあります」
セフィルは懐から、小さな銀色の札を取り出した。
「北門の封印を一度だけ解除できる通行札です。これを使えば、神殿の外郭までは侵入できるでしょう」
リリアは札を受け取った。
「ありがとう、セフィル」
「礼には及びません。これは……私自身が選んだことですから」
その言葉を口にした瞬間、セフィルはわずかに目を見開いた。
自分で選んだ。
初めて、自分の意思で行動した。
その事実が、彼の中に小さな温もりを残していた。
リリアは笑った。
「うん。それが聞けてよかった」
セフィルはその笑顔を見つめ、何かを言いかけた。
しかし、結局何も言わずに背を向けた。
「……気をつけてください。神殿に近づくほど、神々の監視は強くなります」
「セフィルは、これからどうするの?」
「私にも、確かめたいことがあります」
彼は森の奥を見つめた。
「私が生まれる前の記録。私が、何を忘れさせられているのか。そして……あの白い花が何を意味するのか」
そう言い残し、セフィルは森の中へと消えていった。
その背中を見送りながら、リリアは手の中の銀の鍵を握りしめた。
神々の中に眠る裏切り者。
第二の約束を知る者。
そして、自分の過去を取り戻そうとする使者。
すべてが、少しずつつながり始めている。
だが、そのとき。
銀の鍵が突然熱を帯びた。
「……っ!」
リリアの手のひらに、見知らぬ文字が浮かび上がる。
その文字は、神々の言葉でも、古代語でもなかった。
もっと古い。
世界そのものが生まれる前に使われていた、創造主の原初文字。
リリアは、その意味を理解した。
――第二契約者は、神ではない。
彼女の瞳が大きく見開かれた。
「……神じゃ、ない?」
ならば、第二の約束を知る者は誰なのか。
神々の中にいるという記録は、何を意味しているのか。
答えを探すように、リリアは空を見上げた。
雲の向こうで、七つの光が淡く輝いている。
そのうちの一つが、音もなく消えた。
誰も気づかないほど、静かに。
しかし、世界のどこかで、古い誓約がまた一つ、崩れ始めていた。
第25話・
次回、第26話「神殿に隠された八番目の記録」
セフィルから通行札を受け取ったリリアたちは、ついに神殿への潜入を開始する。そこで発見したのは、七柱の神々の記録には存在しない、八番目の記録だった。
そこに記されていたのは、神々が創造主から与えられた権限ではなく――彼らが決して手にしてはならなかった、ある禁忌についての記述だった。




