第22話 始まりの聖域と、封じられた罪
第22話 始まりの聖域と、封じられた罪
忘却の谷の霧が、ゆっくりと晴れていった。
レイヴンが姿を消した後、リリアたちの前には、これまで見えなかった細い石段が現れていた。
石段は断崖の間を縫うように続き、その先には巨大な白い門がそびえている。
門の表面には、無数の文字が刻まれていた。
神々の神殿にあった文字とも、古代騎士団の記録に残されていた文字とも違う。
それは、世界が生まれる以前から存在していたかのような、古い文字だった。
「……あれが、始まりの聖域?」
ミラが息を呑む。
レオンは頷いた。
「おそらくな。伝承によれば、創造主エリシアが最初に目を覚ました場所とされている」
「最初に目を覚ましたって……世界を創る前から、ここにいたってこと?」
「そういうことになる」
レオンは門を見上げた。
「だが、妙だな。これほどの場所なら、神々が真っ先に封印していてもおかしくない」
「封印しているんじゃないかな」
リリアは門に近づいた。
「ただ、ここを壊すことはできなかった。だから、誰も近づけないようにしていたんじゃない?」
セフィルが静かに口を開いた。
「その可能性は高い。神殿の記録では、始まりの聖域に関する情報は、一定以上の権限を持つ神々にしか閲覧できない仕組みになっていた」
「じゃあ、神々はここに何があるのか知っているの?」
「一部の神々は知っているだろう。しかし、すべてを知っているとは限らない」
セフィルは、門に刻まれた文字を見つめた。
「神々自身も、与えられた権限の範囲内でしか世界を理解できないように造られている」
リリアは眉を寄せた。
神々は世界を管理する存在。
けれど、世界そのものを創造したわけではない。
彼らもまた、何か大きな仕組みの中に組み込まれている。
その仕組みを作ったのは、エリシアなのだろうか。
それとも、彼女よりも前に存在していた何者かなのだろうか。
「……入ってみよう」
リリアは門の前に立った。
その瞬間、手首に金色の紋様が浮かび上がった。
七つの星を囲む円。
中央の小さな空白。
門が、かすかに震えた。
そして、低い声が響いた。
『創造主の魂を確認』
『原初の契約者との接触履歴を確認』
『入場を許可します』
重い音とともに、門が開いていく。
その向こうには、白い光に満たされた広大な空間が広がっていた。
リリアは一歩、足を踏み入れた。
胸の奥で、何かが静かに脈打った。
まるで、ずっと帰りを待っていた場所に、ようやく戻ってきたかのようだった。
*
聖域の内部は、外から見た大きさをはるかに超えていた。
天井は見えず、白い柱が果てしなく続いている。
床には星空のような模様が広がり、足を踏み出すたびに、小さな光が波紋のように広がった。
中央には巨大な石碑が立っていた。
その表面には、世界の創造に関する記録が刻まれている。
「これ……全部、歴史なの?」
ミラが目を丸くした。
「そう見えるな」
レオンが石碑へ近づく。
「だが、今までの歴史書とは違う。神々が世界を創ったという記述が、どこにもない」
リリアは石碑を見上げた。
最初に記されていたのは、短い一文だった。
『世界が生まれる前、ただ一つの願いがあった』
その下に、さらに文章が続く。
『誰かと共に生きたい』
リリアの胸が、強く締めつけられた。
それは、かつてエリシアが抱いていた願いと同じだった。
誰も寂しくならない世界。
誰も一人にならない世界。
誰も、大切な人を失わない世界。
彼女は、その願いから世界を創ったのだ。
けれど、その願いのすぐ下には、別の文章が刻まれていた。
『願いを叶えるため、創造主は二つのものを生み出した』
『一つは、世界を創造する力』
『もう一つは、世界を終わらせる力』
「……世界を終わらせる力?」
アレンが低く呟いた。
リリアは、石碑の文字を追った。
世界を創造する力は、《創世の理》。
では、もう一つの力は何なのか。
文章は、その名前を記していなかった。
代わりに、奇妙な記号が刻まれている。
それは、リリアの手首に浮かぶ紋様の中央にある空白と、同じ形をしていた。
「創造と、終焉……」
カイルが呟いた。
「最初から、二つの力が存在していたということか」
「そうみたい」
リリアは頷いた。
「でも、どうして二つ必要だったんだろう?」
誰も答えられなかった。
そのとき、石碑の表面が淡く光った。
文字が浮かび上がり、新しい記録が開かれる。
『創造主エリシアは、世界を終わらせる力を、最も信頼する者に託した』
その下には、名前が記されていた。
しかし、その名前だけが黒く塗り潰されている。
リリアは息を呑んだ。
「……この人が、最初の契約者?」
「おそらくな」
レオンが答えた。
「そして、神々が存在を消した人物でもあるのだろう」
リリアは、黒く塗り潰された名前に触れた。
すると、指先から光が流れ込んできた。
頭の中に、懐かしい声が響く。
『この力は、誰かを守るために使ってほしい』
エリシアの声だった。
『もし私が間違えたなら、あなたが止めて』
その言葉の後に、別の声が続いた。
『……わかった。約束する』
穏やかな、男性の声。
リリアは目を見開いた。
カイルが思い出したという、あの声とよく似ていた。
「カイル……!」
彼女が振り返ると、カイルは指輪を握り締めていた。
白い花の意匠が、かつてないほど強く輝いている。
「……俺は、この場所を知っている」
「え?」
「いや、正確には……ここに来たことがある気がするんだ」
カイルは額を押さえた。
「でも、俺は何も覚えていない。ここに来た理由も、誰と一緒にいたのかも……」
彼の声が震えた。
「どうして、俺は何も思い出せないんだ……!」
銀の指輪から、黒い光が滲み出した。
セフィルがすぐに警告する。
「危険だ! その指輪に、強力な記憶封印が施されている!」
「カイル、指輪を外して!」
リリアが叫んだ。
しかし、カイルは首を横に振った。
「……外せない」
「どうして?」
「わからない。でも、これを外したら……大切な何かまで、失ってしまう気がするんだ」
その言葉に、リリアは口を閉ざした。
彼もまた、記憶を奪われた被害者なのかもしれない。
かつてエリシアと交わした約束。
最初の契約者との関係。
そして、世界が終わる直前に何が起きたのか。
それらすべてが、彼の記憶の奥に封じられている。
「……無理に思い出さなくていいよ」
リリアは、カイルの肩に手を置いた。
「いつか思い出せるときが来る。それまでは、今のあなたが何をしたいのか、一緒に考えよう」
カイルは、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「……ありがとう」
その瞬間、指輪の光が弱まった。
まるで、リリアの言葉に反応したかのようだった。
*
石碑の奥に、細い通路が現れた。
通路の先には、小さな部屋があった。
中央には白い台座。
その上には、透明な結晶が置かれていた。
結晶の内部には、一枚の紙片のようなものが浮かんでいる。
「記録媒体か?」
レオンが近づこうとした。
しかし、台座の周囲に透明な壁が現れ、彼の行く手を阻んだ。
『閲覧者の資格を確認します』
『創造主の魂――適合』
『原初の契約者――不在』
『閲覧制限を解除できません』
機械的な声が響いた。
リリアは眉を寄せた。
「原初の契約者がいないと、見られないの?」
『肯定』
「じゃあ、どうすればいいの?」
『原初の契約者との契約を再確認してください』
リリアは息を呑んだ。
契約を再確認する。
つまり、彼女自身が忘れている約束を思い出さなければならないのだ。
「……私が、思い出さなきゃいけないんだね」
台座へ近づき、手を伸ばす。
その瞬間、透明な壁が消えた。
結晶が浮かび上がり、リリアの手のひらに収まった。
そして、記録が開かれた。
*
そこは、白い部屋だった。
エリシアが、台座の前に立っている。
その隣には、一人の少女がいた。
忘却の谷で出会った少女。
銀色の髪。
青い瞳。
胸元には、あの深い傷がない。
少女は、エリシアの手を握っていた。
『本当に、いいの?』
少女が尋ねた。
『この力を私に託してしまったら、あなたは世界を終わらせることができなくなる』
『いいのよ』
エリシアは笑った。
『私は、世界を守りたい。だから、もし私が間違えたときは、あなたが止めて』
『……でも』
『お願い。私が世界を愛せなくなったとき、あなたが私を止めてほしいの』
少女は、悲しそうに微笑んだ。
『わかった。約束する』
二人の手の間に、金色の紋様が生まれた。
原初の契約。
世界を創造する力と、世界を終わらせる力。
その二つを結びつける、最初の約束。
けれど、記録はそこで終わらなかった。
映像が切り替わる。
燃え上がる世界。
空を覆う黒い雲。
神々の光が、地上へ降り注いでいる。
エリシアは、崩れた神殿の中に立っていた。
彼女の目の前には、傷ついた少女が倒れている。
その周囲には、無数の黒い鎖が巻きついていた。
『エリシア……』
少女が、かすれた声で呼んだ。
『お願い……もう、やめて……』
エリシアは泣いていた。
『ごめんなさい……』
『どうして……?』
『私は、もう……誰も信じられない』
その声には、深い絶望が滲んでいた。
『神々も、世界も……私自身も』
エリシアは、震える手を少女へ伸ばした。
『だから、全部終わらせる』
少女が目を見開いた。
『……だめ』
『もう、誰も傷つけたくない』
『エリシア、お願い!』
『私が創った世界が、誰かを苦しめるのなら……』
エリシアの瞳が、金色に染まった。
『私自身が、終わらせなければならない』
次の瞬間、世界を覆うほどの光が放たれた。
少女は、必死にエリシアへ手を伸ばした。
『やめて!』
けれど、その手は届かなかった。
光が少女を包み込み、彼女の身体を貫いた。
エリシアは、世界を終わらせようとしていた。
そして、少女は――
その力を止めるために、自らの身体を差し出したのだった。
*
「……っ!」
リリアは結晶を取り落としかけた。
アレンが慌てて支える。
「リリア! どうした!」
「……見たの」
リリアは震える声で答えた。
「エリシアが、世界を終わらせようとしていた。でも……あの子は、それを止めようとしたんだ」
「それで、あの少女が……?」
「うん。エリシアの力を止めるために、自分の身体を犠牲にした」
リリアの目から、涙がこぼれた。
エリシアは、世界を守ろうとしていた。
少女も、エリシアを守ろうとしていた。
それなのに、二人は互いを傷つけてしまった。
誰も、相手を苦しめたいと思っていなかったはずなのに。
「……どうして、こんなことになったんだろう」
リリアの呟きに、誰も答えられなかった。
そのとき、結晶の表面に新たな文字が浮かび上がった。
『原初の契約、破損を確認』
『第二契約者、存在消失』
『創造主の権限、暴走』
『世界崩壊の危険性――極大』
最後の一文が現れた瞬間、部屋全体が震えた。
白い壁に亀裂が走り、天井から光の粒が落ちてくる。
「何が起きている!」
レオンが叫ぶ。
セフィルは、すぐに周囲の法則を解析した。
「聖域の封印が崩れ始めている! 記録が開かれたことで、神々の封印が反応したんだ!」
アレンがリリアの腕を掴んだ。
「ここを出るぞ!」
「待って!」
リリアは結晶を見つめた。
最後の文字が、ゆっくりと浮かび上がっていた。
『最終記録――閲覧を許可』
『創造主エリシアが、世界崩壊を選択した真の理由』
リリアの呼吸が止まった。
その下には、短い文章が記されていた。
『創造主は、世界を救うために世界を終わらせようとしたのではない』
『創造主は、たった一人を取り戻すために、世界を終わらせようとした』
「……たった、一人?」
リリアが呟いた瞬間、結晶が砕けた。
白い光が部屋を満たす。
そして、耳元で、あの少女の声が響いた。
『リリア……』
『お願い。今度こそ、選び直して』
光が消えた。
部屋には、もう何も残っていなかった。
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
世界を終わらせようとした理由。
それは、世界への絶望だけではなかった。
誰かを取り戻すため。
たった一人を失いたくなかったから。
その願いが、世界のすべてを巻き込もうとしていたのだ。
リリアは拳を握り締めた。
「……私、絶対に同じことはしない」
アレンが彼女を見つめる。
「リリア……」
「誰かを大切に思うことと、その人のために世界を犠牲にすることは、同じじゃない」
彼女は、まっすぐ前を見た。
「私は、誰か一人だけを救うために、他の誰かを犠牲にするような選択はしたくない」
それが、今のリリアの答えだった。
けれど、まだ知らないことがある。
エリシアが取り戻そうとした、たった一人とは誰なのか。
そして、その人物は本当に、世界から消えてしまったのだろうか。
答えは、まだ聖域の奥に隠されていた。
*
同じ頃、神々の神殿。
アステリオンの前に、巨大な鏡が浮かんでいた。
鏡の表面には、始まりの聖域の光景が映し出されている。
リリアが記録を閲覧した瞬間、鏡に亀裂が走った。
「……見られたか」
アステリオンは目を閉じた。
その顔には、怒りよりも深い疲労が浮かんでいた。
「また、同じ道を歩むつもりか。エリシア……」
彼は、誰もいない空間に向かって呟いた。
「お前が失ったものは、もう戻らない」
そのとき、鏡の奥から、低い声が響いた。
『それは、お前が決めることではない』
アステリオンの瞳が見開かれた。
声の主は、世界の記録から消されたはずの存在。
彼が最も恐れていた、第二の契約者。
『約束は、まだ終わっていない』
鏡が、音を立てて砕け散った。
そして、神殿の最深部で、七つの誓約の一つが、静かに崩れ始めた。
――第二十二話・完
次回、第二十三話「たった一人を取り戻すために」
エリシアが世界を終わらせようとした本当の理由。それは、たった一人を取り戻すためだった。
リリアたちは、最初の契約者の正体を探るため、聖域に残された最後の記録を求める。
しかし、記憶を取り戻し始めたカイルの指輪に異変が起こり、彼はリリアに向かって、信じがたい言葉を口にする。
――「俺は、あの人を殺したのかもしれない」




