第20話 忘却の番人と、拒まれた再会
第20話 忘却の番人と、拒まれた再会
霧が、渦を巻いていた。
忘却の谷に立つ銀髪の男は、リリアたちを見据えたまま、微動だにしなかった。
左右で異なる瞳。
青と金。
その金色の瞳には、長い年月を生きた者だけが持つような、深い疲労が浮かんでいた。
「お前が、創造主の生まれ変わりか」
男が口を開いた。
「……そうだとしたら、どうするの?」
リリアは警戒を解かずに問い返した。
「決まっている。ここから先へは進ませない」
「理由を教えて」
「教える必要はない」
「でも、あなたは私を知っているんでしょう?」
男の表情がわずかに動いた。
「私は、あなたが生まれ変わることを誰よりも恐れていたって言ったよね。それなら、どうしてなのか教えてほしい」
「……お前は、何も知らない」
男は冷たく言い放った。
「自分が何をしたのかも。誰を傷つけたのかも。そして、何を失ったのかも」
リリアの胸が痛んだ。
エリシアの記憶が戻るたび、彼女は創造主の過ちを知ってきた。
神々を信じすぎたこと。
世界を守ろうとして、すべてを自分で支配しようとしたこと。
そして、世界を終わらせようとしたかもしれないこと。
それでも、まだ知らない真実がある。
「……そうだね。私は、まだ何も知らない」
リリアは正直に答えた。
「だから、知りたいの。過去の私が何をしたのかも、その結果、誰が傷ついたのかも。知らないまま逃げたくない」
「ならば、なおさら進ませるわけにはいかない」
男が片手を上げた。
その瞬間、足元の金色の紋様が輝いた。
「《忘却の法》――発動」
霧が一斉に膨れ上がった。
「みんな、下がって!」
リリアが叫ぶ。
だが、霧はすでに彼らを包み込んでいた。
「な、何これ……!」
ミラが頭を押さえた。
「名前が……出てこない……!」
「ミラ!」
リリアが駆け寄ろうとした瞬間、アレンが彼女の腕を掴んだ。
「待て!」
「でも、ミラが!」
「俺たちも影響を受けている!」
アレンの声には、焦りが混じっていた。
彼はリリアを見つめたまま、眉を寄せる。
「……君は、誰だ?」
リリアの呼吸が止まった。
「……え?」
「いや……違う。俺は……」
アレンは頭を押さえた。
「何か、大切なことを……知っていたはずなんだ」
その表情を見た瞬間、リリアの胸に冷たいものが走った。
アレンが自分を忘れてしまう。
そんなこと、考えたこともなかった。
「アレン、私だよ。リリア・エヴァンジェル」
「リリア……?」
彼はその名を繰り返した。
けれど、瞳には困惑しかなかった。
リリアは唇を噛んだ。
どうすればいい。
この霧は、単に記憶を消しているのではない。
人と人とのつながりを、根元から切り離そうとしている。
名前だけではない。
一緒に過ごした時間も、交わした言葉も、相手を大切だと思った理由さえも。
すべてを消し去ろうとしていた。
「……やめてよ」
リリアは銀髪の男を睨んだ。
「こんなことをして、何になるの?」
「忘れれば、苦しまずに済む」
男は淡々と答えた。
「失ったものを思い出さずに済む。叶わなかった約束に縛られずに済む。お前が望むのは、そういう世界ではなかったのか?」
「違う!」
リリアの声が谷に響いた。
「苦しいからって、全部忘れていいわけじゃない!」
「ならば、お前は苦しみ続けるのか?」
「……そうなるかもしれない」
リリアは、まっすぐ男を見た。
「でも、苦しみながらでも、自分で選びたい。誰かに忘れさせられるんじゃなくて、何を覚えて、何を乗り越えるのか、自分で決めたい!」
男の瞳が揺れた。
ほんの一瞬。
彼は、ひどく悲しそうな顔をした。
「……お前は、あの頃から何も変わっていない」
「私は、あなたが知っているエリシアじゃない!」
リリアは一歩踏み出した。
「私はリリア・エヴァンジェル。過去の私と同じ魂を持っているとしても、同じ答えを選ぶとは限らない!」
その瞬間、手首に金色の紋様が浮かび上がった。
男が目を見開く。
「その印……!」
彼は初めて、明らかな動揺を見せた。
「なぜ、お前がそれを持っている……?」
「これが何なのか、あなたは知っているの?」
男は答えなかった。
ただ、紋様を見つめていた。
その目に浮かんだのは、恐怖だった。
リリアは確信した。
この男は、最初の契約について何かを知っている。
そして、その契約は彼にとっても、決して忘れられないものなのだ。
*
「リリア……!」
かすれた声がした。
ミラだった。
彼女は地面に膝をつき、必死に何かを思い出そうとしていた。
「私……あなたのこと……」
「ミラ!」
リリアが駆け寄る。
ミラの瞳には涙が浮かんでいた。
「ごめん……名前は、わかるの。でも、どうして一緒にいるのか、思い出せない……」
彼女は胸元を押さえた。
「あなたが大切だってことだけは、わかるのに……どうしてなのか、わからないの……!」
リリアの胸が締めつけられた。
ミラが自分を大切に思ってくれていること。
共に旅をして、何度も助け合ってきたこと。
その記憶が、今、目の前で失われようとしている。
「……大丈夫」
リリアはミラの手を握った。
「思い出せなくても、大丈夫だよ」
「でも……!」
「また、一緒に過ごせばいい。何度でも、友達になればいいから」
ミラは涙をこぼした。
「……本当に?」
「うん。私は何度でも、あなたと友達になるよ」
その言葉に、ミラはかすかに頷いた。
リリアは立ち上がった。
もう、迷ってはいられない。
彼女は《創世の理》を発動させ、霧の法則を解析した。
視界の奥に、幾重にも重なった文字列が浮かび上がる。
《記憶保持の法則》
《関係性の記録》
《忘却による苦痛の遮断》
そして、その中心に刻まれた、たった一つの命令。
――失われたものを覚えている者は、再び同じ悲劇を繰り返す。
「……違う」
リリアは呟いた。
「覚えているから、同じ悲劇を避けられることだってある」
彼女は法則の中心へ手を伸ばした。
けれど、触れた瞬間、激しい痛みが頭を貫いた。
「うっ……!」
霧の向こうから、無数の声が聞こえる。
泣き声。
叫び声。
別れを告げる声。
そのすべてが、リリアの意識に流れ込んできた。
世界の始まりから、この谷に閉じ込められた記憶。
誰かを失った悲しみ。
誰かを傷つけた後悔。
そして、もう二度と会えない者への願い。
リリアは歯を食いしばった。
これほどの記憶を、一度に受け止めることはできない。
力を使いすぎれば、自分自身の記憶まで壊れるかもしれない。
それでも。
「《創世の理》――法則改変!」
金色の光が広がった。
「忘却を強制する法則を、停止させる!」
霧が震えた。
男が鋭く叫ぶ。
「やめろ! それ以上、干渉するな!」
彼が手を振ると、金色の紋様から黒い鎖が伸びた。
鎖はリリアの腕に絡みつき、彼女の力を封じようとする。
「この法は、苦しみから人々を守るために存在している! お前には、これを変える権利などない!」
「……だったら!」
リリアは痛みに耐えながら叫んだ。
「どうして、あなたはそんなに苦しそうなの!」
男の動きが止まった。
「……何?」
「誰かを忘れさせることで、本当に救われたの? あなた自身は、忘れられたの?」
男の顔が歪んだ。
次の瞬間、鎖が激しく締めつけられる。
「黙れ!」
金色の光が弾けた。
リリアは地面に倒れ込んだ。
鼻から血が流れ、視界が揺れる。
「リリア!」
アレンが叫んだ。
その声に、彼の瞳の奥で何かが弾けた。
「……そうだ」
アレンは、震える手で剣を握り直した。
「俺は……君を守ると決めたんだ」
記憶は、まだ完全には戻っていない。
リリアという少女と過ごした時間も、はっきりとは思い出せない。
それでも、彼の心には一つの意志が残っていた。
自分で選んだ、守るという約束。
それだけは、消されていなかった。
「たとえ君のことを忘れても……俺は、もう一度君を守る」
アレンが剣を構える。
その言葉を聞いた瞬間、リリアの手首の紋様が再び輝いた。
金色の光が、アレンの胸元へと伸びる。
彼の中に残っていた契約の痕跡が、淡く浮かび上がった。
そして、リリアの脳裏に、短い記憶がよみがえる。
燃える世界。
泣いているエリシア。
その前に立つ、黒髪の騎士。
彼は剣を握りながら、こう告げていた。
『たとえ、君が俺を忘れても』
『俺は、君が選んだ未来を守る』
リリアは息を呑んだ。
その言葉は、アレンの声によく似ていた。
だが、記憶の中の騎士の顔は、最後まで見えなかった。
*
「……なぜだ」
銀髪の男が、呆然と呟いた。
「なぜ、お前たちは忘れない……?」
彼の周囲で、金色の紋様が不安定に揺れている。
「忘れれば、楽になる。記憶を失えば、悲しみも消える。そうすれば、誰も傷つかずに済むはずだった……!」
「それは違うよ」
リリアはアレンに支えられながら、ゆっくり立ち上がった。
「悲しみがあるから、誰かを大切に思ったことまで消えるわけじゃない」
「……!」
「忘れてしまったとしても、また出会える。もう一度、選び直せる。私はそう信じたい」
男は、何かを言おうとして口を閉じた。
その瞳に、長い年月の間、押し込めていた感情が浮かび上がる。
「……お前は、知らないのだ」
彼の声が震えた。
「何度、待っても……何度、呼びかけても……誰も戻ってこなかった」
男は自分の手を見つめた。
「私は、ずっとここで待っていた。あの約束が果たされる日を。あの人が戻ってくる日を」
リリアは、静かに尋ねた。
「……誰を、待っていたの?」
男の唇が震えた。
答えようとした、その瞬間。
谷全体に、鋭い警告音が響き渡った。
男の表情が一変する。
「しまった……!」
金色の紋様が、彼の足元から急速に広がっていく。
霧が渦巻き、地面に巨大な円が浮かび上がった。
その中心に、古代文字が現れる。
《原初契約――再起動》
《第二契約者の存在を確認》
《創造主の魂との接触を開始》
リリアは目を見開いた。
「第二契約者……?」
男が歯を食いしばった。
「違う! 今はまだ、その時ではない!」
彼はリリアへ手を伸ばした。
「頼む……今だけは、ここから立ち去ってくれ!」
その声は、先ほどまでの拒絶とはまるで違っていた。
怒りでも、憎しみでもない。
必死な懇願だった。
「お前がここで真実を知れば、もう後戻りはできない!」
「それでも、私は知りたい!」
「ならば、お前はまた失うことになる!」
男の声が、谷に響き渡った。
「お前が最も大切にしているものを!」
その瞬間、リリアの脳裏に、誰かの泣き声が響いた。
知らない声。
けれど、胸が張り裂けそうになるほど、懐かしい声だった。
『エリシア……お願い……』
リリアは頭を押さえた。
『もう、私を置いていかないで……』
視界が白く染まる。
そして、最後に見えたのは――
銀髪の少女が、血に染まった青年を抱き締めている光景だった。
少女は泣きながら、何度も謝っていた。
『ごめんなさい……』
『私が、約束を破ったから……』
その声が消えた瞬間、谷の奥で巨大な扉が開いた。
扉の向こうから、誰かが静かに歩いてくる。
白い衣。
銀色の髪。
リリアと同じ青い瞳。
けれど、その姿は夢の中の少女とは違っていた。
彼女は、リリアを見つめて微笑んだ。
「……やっと、会えたね」
リリアは息を呑んだ。
目の前に立つ少女。
彼女は、リリアが夢の中で見た少女と同じ顔をしていた。
しかし、その胸元には、深い傷が刻まれていた。
「あなたは……誰?」
少女は悲しそうに笑った。
「私は、あなたが忘れてしまった約束そのもの」
そして、静かに告げた。
「――エリシア。あなたは、私を殺したのよ」
――第二十話・完
次回、第二十一話「創造主が殺した少女」
忘却の谷の奥に現れた、エリシアと同じ顔を持つ少女。彼女は自分がエリシアに殺されたと告げる。
最初の契約者とは、いったい誰なのか。
そして、リリアの魂に封じられた過去には、世界の創造よりも深い罪が隠されていた。




