第18話 最初の契約と、少女の声
第18話 最初の契約と、少女の声
夢の中で、リリアは星空を見上げていた。
そこには、見たこともない星々が輝いていた。
七つの大きな光が、夜空の中央を取り囲んでいる。その下には、どこまでも広がる白い大地。そして、その中心に一本の巨大な樹が立っていた。
枝には無数の光が宿り、葉が揺れるたび、小さな世界が生まれては消えていく。
美しい光景だった。
けれど、リリアはなぜか胸が苦しかった。
「……ここは、どこ?」
問いかけても、答える者はいない。
ただ、巨大な樹の根元に、一人の少女が座っていた。
銀色の長い髪。
白い衣。
そして、リリアと同じ青い瞳。
少女は膝を抱え、顔を伏せていた。
「……やっと来たのね」
少女が呟いた。
リリアは息を呑んだ。
「あなたは……誰?」
「それを、私に聞くの?」
少女はゆっくりと顔を上げた。
その顔は、リリア自身によく似ていた。
いや、似ているどころではない。
鏡を見ているようだった。
ただし、少女の瞳には、リリアがまだ知らない深い悲しみが宿っていた。
「私は、あなたが忘れたもの」
「忘れたもの……?」
「そして、あなたがもう一度、選ばなければならないもの」
少女は立ち上がった。
足元の白い大地に、金色の紋様が広がっていく。
七つの星を囲む円。
その中央には、やはり小さな空白があった。
リリアの手首に現れた紋様と、まったく同じものだった。
「あなたは、七つの誓約を知った」
「うん……」
「創造主エリシアの記録も見た」
「……うん」
「それでも、まだ何も知らない」
少女の声に、わずかな震えが混じった。
「神々が何をしたのか。私が何をしたのか。そして、あの子が何を犠牲にしたのか」
「あの子って、誰?」
少女は答えなかった。
代わりに、巨大な樹を見上げた。
その枝の一本が、音もなく黒く染まっていく。
葉が枯れ、光が消え、枝の先から世界が崩れ落ちた。
「……あなたは、あの子を今度こそ救えるの?」
リリアは、言葉を失った。
「待って。あの子って誰なの? 私は何をすればいいの?」
「それは、あなたが思い出すこと」
「そんな言い方じゃ、わからないよ!」
思わず声を荒らげた。
少女は悲しそうに微笑んだ。
「そうね。昔の私も、同じことを言ったわ」
その瞬間、少女の姿が揺らいだ。
輪郭が光の粒へと変わり、白い大地に亀裂が走る。
「待って!」
リリアは手を伸ばした。
「まだ、聞きたいことが――」
「一つだけ、覚えておいて」
消えかけた少女が告げる。
「最初の契約は、世界を守るために結ばれたものではない」
青い瞳が、まっすぐリリアを見つめた。
「あなたが、誰かを失わないために結んだ約束なの」
世界が砕けた。
*
「――っ!」
リリアは跳ね起きた。
荒い呼吸を繰り返しながら、自分の手首を押さえる。
窓のない古い礼拝堂。
壁に灯された小さな魔法灯。
すぐ隣には、椅子に座ったまま眠っているアレンがいた。
彼はリリアの声に反応し、すぐに目を覚ました。
「リリア? どうした!」
「……夢を見たの」
「悪夢か?」
「うん。でも、ただの夢じゃないと思う」
リリアは手首を見せた。
そこには、金色の紋様が薄く浮かんでいた。
アレンは眉をひそめる。
「また、あの印か……」
「夢の中で、私にそっくりな女の子に会ったの」
「エリシアか?」
「わからない。でも、彼女はこう言ったの。最初の契約は、世界を守るために結ばれたものじゃないって」
アレンの表情が変わった。
「それは……」
「それから、誰かを失わないために結んだ約束だって」
沈黙が落ちた。
アレンはしばらく考え込んでいたが、やがてリリアの肩にそっと手を置いた。
「焦るな。夢の内容が真実だとしても、今すぐすべてを解き明かす必要はない」
「でも、もしその約束が、誰かを苦しめているのなら……」
「だからこそ、慎重に調べるんだ」
彼の声は静かだった。
「君がまた一人で何もかも背負うことは、俺が望んでいない」
リリアはアレンを見つめた。
かつての自分なら、きっと笑ってごまかしていた。
大丈夫だと。
自分一人で何とかすると。
けれど、今は違う。
「……ありがとう。ちゃんと相談するね」
アレンは少し驚いたように目を見開き、それから優しく微笑んだ。
「ああ。それでいい」
そのとき、礼拝堂の扉が開いた。
「二人とも、起きているか?」
レオンだった。
その後ろにはミラ、カイル、そしてセフィルの姿もある。
セフィルは以前と同じように無表情だったが、その目には以前にはなかった迷いがあった。
「何かあったの?」
リリアが尋ねると、レオンは一枚の古びた羊皮紙を差し出した。
「昨夜、セフィルが神殿の記録を思い出したらしい」
「記録?」
「最初の契約に関するものだ」
リリアは羊皮紙を受け取った。
そこには、古代文字で短い文章が記されていた。
レオンが読み上げる。
「――原初の契約は、七つの誓約に先立って存在した。契約者は創造主エリシア。そして、もう一人の名は……」
その先は、黒く塗り潰されていた。
文字そのものが消されたのではない。
何者かが、意図的に名前を隠した痕跡だった。
「もう一人……?」
ミラが眉を寄せる。
「エリシア以外にも、契約を結んだ相手がいたってこと?」
「そのようだ」
レオンは頷いた。
「しかも、この記録には続きがある」
彼は羊皮紙の裏側を指した。
そこには、かすれた文字で一文だけ残されていた。
『契約者の一方が世界を去るとき、もう一方は――』
文章は、そこで途切れていた。
「……何なのよ、これ」
ミラが苛立たしげに呟く。
「大事なところばっかり消されてるじゃない!」
「意図的に隠されているのだろう」
レオンの視線がセフィルへ向いた。
「セフィル。君が見た記録には、名前が残っていなかったのか?」
「残っていた」
一同が息を呑んだ。
「ただし、名前を思い出そうとすると、頭の中で警告が発生する。私の記憶には、まだ神々の封印が残っているようだ」
「無理に思い出そうとしないで」
リリアが言った。
セフィルは彼女を見た。
「だが、情報が必要なのだろう?」
「そうだけど、あなたが壊れてしまったら意味がないよ」
「……壊れる?」
「えっと……記憶が消えたり、体に負担がかかったりするかもしれないでしょ?」
セフィルは少し考えた。
「私は、壊れることを恐れているのだろうか」
「それは、あなたが決めていいことだよ」
リリアは微笑んだ。
セフィルはまだ答えを見つけられない様子だったが、それ以上、記憶を探ろうとはしなかった。
代わりに、カイルが口を開いた。
「……その契約者の名前、俺には関係があるかもしれない」
全員の視線が彼に集まった。
「カイル?」
「昨夜、夢を見たんだ。以前の記憶とは違う。もっと古い……俺が騎士になる前の記憶だ」
カイルは、自分の指にはめられた銀の指輪を見つめた。
白い花の意匠が刻まれた指輪。
それは、彼が失った記憶と深く結びついている。
「夢の中で、エリシアが誰かに話しかけていた」
「誰に?」
「顔は見えなかった。でも、エリシアはこう言っていた」
カイルは一度、目を閉じた。
そして、思い出した言葉を口にする。
「『あなたがいなくなったら、私はきっと、世界を愛せなくなる』」
リリアの胸が強く締めつけられた。
夢の中の少女の言葉が、脳裏によみがえる。
――あなたが、誰かを失わないために結んだ約束。
「その相手は……誰だったの?」
リリアが尋ねる。
カイルは首を横に振った。
「わからない。ただ、声だけは覚えている」
「どんな声?」
「……男の声だった」
アレンが顔を上げた。
レオンの表情も険しくなる。
エリシアが愛した相手なのか。
彼女の友人なのか。
あるいは、世界を創る以前から彼女を知っていた存在なのか。
今の段階では、誰にもわからなかった。
しかし、カイルはさらに続けた。
「もう一つ、思い出したことがある」
彼は指輪を握り締めた。
「その男は、エリシアにこう約束していた」
声が震える。
「――何があっても、君を一人にはしない」
その瞬間、リリアの手首の紋様が輝いた。
「きゃっ……!」
金色の光が礼拝堂を満たす。
壁に刻まれた古い文字が、一斉に浮かび上がった。
そして、誰も触れていないはずの石壁に、新たな文章が現れた。
『原初の契約者、第二の名を確認』
『記録照合――失敗』
『警告。契約者の存在は、世界の記録から削除されている』
最後の一文が浮かび上がったとき、セフィルが息を呑んだ。
「そんな……」
「何が書いてあるの?」
ミラが尋ねる。
セフィルは、震える指で壁の文字を示した。
「この世界には、存在そのものを記録から消された者がいる」
「存在そのものを……?」
リリアは壁に近づいた。
文字の下には、かすかに人影のようなものが描かれていた。
銀色の髪の少女と、その隣に立つ一人の青年。
少女はエリシアに似ていた。
そして青年の顔は、黒く塗り潰されていた。
リリアが指先を伸ばすと、壁の奥から微かな声が響いた。
『……リリア』
彼女は手を止めた。
その声は、夢の中で聞いた少女のものではなかった。
もっと低く、穏やかで。
どこか、懐かしい声だった。
『ようやく、君に会える』
次の瞬間、壁に刻まれた青年の姿が消えた。
同時に、リリアの手首から紋様が消失した。
礼拝堂に静寂が戻る。
誰も動けなかった。
最初の契約。
記録から消された契約者。
そして、リリアだけに聞こえた謎の声。
それらはすべて、一つの真実へとつながっているように思えた。
だが、その真実を知る者は、まだ誰もいない。
*
同じ頃。
神々の神殿、その最深部。
アステリオンは、古い石板の前に立っていた。
石板には、七つの誓約が刻まれている。
その下には、かつて存在したはずの文章があった。
しかし、その部分だけが削り取られていた。
「……まだ残っていたか」
アステリオンは、石板に手を触れた。
すると、封印された文字の一部が浮かび上がる。
『第一契約者――エリシア』
『第二契約者――』
そこから先は、黒い闇に覆われていた。
アステリオンは歯を食いしばった。
「お前は、もう存在しない」
誰に向けた言葉なのか。
神殿には、彼以外誰もいなかった。
「世界は、お前を必要としていない。創造主も、もうお前を覚えてはいない」
石板が軋む。
闇の向こうから、微かな光が漏れ出した。
まるで、何者かが内側から扉を叩いているようだった。
アステリオンは手を離し、冷たく言い放った。
「二度と戻ってくるな」
しかし、光は消えなかった。
そして、石板の奥から、微かな声が響いた。
『……約束を、返してもらう』
アステリオンの顔から、血の気が引いた。
彼が最も恐れていた存在。
世界の記録から消し去り、創造主の記憶からも封じたはずの存在。
その声は、確かに告げていた。
『今度こそ、エリシアを迎えに行く』
神殿の最深部で、長い間眠っていた何かが目を覚まし始めた。
――第十八話・完
次回、第十九話「記録から消された者」
原初の契約者は誰なのか。そして、なぜ神々はその存在を世界の記録から消したのか。
リリアたちは、失われた記録を求めて、かつて創造主エリシアが暮らしていたという《始まりの聖域》を目指す。
しかし、その道の先には、リリアの存在を知りながら、彼女を決して迎え入れようとしない者が待ち受けていた。




