第17話 神の使者セフィルと、初めての選択
第17話 神の使者セフィルと、初めての選択
セフィルの剣先が、リリアの喉元に向けられていた。
銀色の髪が風に揺れる。紫色の瞳には、いつものような静けさがあった。
けれど、その瞳の奥で何かが激しく揺れていることを、リリアは見逃さなかった。
「……対象、リリア・エヴァンジェル。神々の命令に従い、拘束する」
セフィルの唇が、機械のように言葉を紡ぐ。
「抵抗する場合は、排除する」
「セフィル……」
「会話は不要。命令を遂行する」
剣がわずかに動いた。
その瞬間、セフィルの首筋に黒い紋様が浮かび上がった。
紋様は鎖のように広がり、彼の首から胸元へと這い進んでいく。
「ぐっ……!」
セフィルが初めて苦痛の声を漏らした。
紫色の瞳が見開かれる。
彼の脳裏に、幾つもの声が響いていた。
『感情は不要』
『疑念は不要』
『命令に従え』
『お前は神々の意志を伝えるために存在する』
『お前自身の意志など、存在してはならない』
黒い紋様が強く輝いた。
セフィルの手が、震える。
それでも剣先はリリアから離れなかった。
「……逃げろ、リリア!」
アレンが剣を抜き、二人の間に割って入ろうとした。
だが、リリアは片手を上げて彼を制した。
「待って、アレン」
「しかし、あいつは君を殺そうとしている!」
「わかってる」
リリアはセフィルを見つめた。
「でも、今の彼は自分の意志で剣を向けているわけじゃない」
「だからといって、君が傷つく必要はない!」
「うん。それも、わかってるよ」
怖くないわけではなかった。
剣先はすぐ目の前にある。
少しでも彼の手が動けば、自分は傷つくかもしれない。
それでも。
リリアは、かつての自分を思い出していた。
誰かに嫌われないように。
誰かの期待を裏切らないように。
自分の気持ちを押し殺し、相手が望む答えだけを選んでいた、前世の自分を。
あの頃の自分は、自由に選んでいるつもりで、本当は誰かの命令に従っていただけだったのかもしれない。
だからこそ、思う。
自分の意志を奪われることが、どれほど苦しいのか。
「セフィル」
リリアは、一歩だけ前に進んだ。
「あなたは、本当に私を殺したいの?」
「……私は、神々の使者だ」
「それは知ってる」
「神々の命令は絶対だ」
「それも、知ってるよ」
「ならば、なぜ問う?」
セフィルの声が、わずかにかすれた。
リリアは静かに答えた。
「命令と、あなたの気持ちは同じなの?」
セフィルの瞳が揺れた。
「……私に、気持ちなどない」
「本当に?」
「私は神々によって造られた。神意を伝え、命令を実行するための存在だ。感情を持つ必要はない」
「必要がないことと、持っていないことは違うよ」
「……っ」
黒い紋様が激しく輝いた。
セフィルの表情が苦痛に歪む。
「黙れ……!」
彼の口から、初めて命令ではない言葉がこぼれた。
「それ以上、私に語りかけるな……!」
リリアは息を呑んだ。
その言葉は、神々の命令を伝える使者のものではなかった。
苦しんでいる一人の存在が、絞り出した言葉だった。
「セフィル。あなたは、苦しいんだね」
「違う!」
「怖いの?」
「違う!」
「自分が何を感じているのか、わからない?」
「違うと言っている!」
叫びと同時に、セフィルの剣が振り下ろされた。
「リリア!」
アレンが動く。
しかし、その剣がリリアに届くよりも早く、リリアの周囲に淡い光が広がった。
《創世の理》。
世界の法則に干渉する力。
リリアは反射的に、その力を発動させていた。
だが、剣を止めるためではない。
セフィルを縛る黒い紋様へ、意識を向ける。
――見えた。
紋様の奥に刻まれているのは、単なる命令ではなかった。
彼の記憶と感情を監視し、命令に逆らう兆候があれば、それらを消去するための仕組み。
しかも、その根幹には神々の権能が組み込まれている。
無理に破壊すれば、セフィル自身の存在まで傷つけかねない。
「こんなの……!」
リリアは唇を噛んだ。
神々は、彼を使者として造っただけではない。
彼が自分自身になろうとする可能性さえ、最初から封じていたのだ。
「セフィル、聞いて!」
リリアは力を注ぎ込む。
黒い紋様が一瞬だけ、白く輝いた。
しかし、すぐに反発が起こった。
激しい痛みが頭を貫き、リリアの膝が揺らぐ。
「くっ……!」
「リリア、やめろ! その力を使いすぎだ!」
アレンが叫ぶ。
それでも、リリアは手を止めなかった。
すべてを壊す必要はない。
彼を縛る仕組みを完全に消すことも、今はできない。
ならば、ほんの少しだけ。
命令に逆らうことのできる余地を、彼の中に残す。
「《法則干渉》――強制命令の優先権を、一時的に解除する!」
光が弾けた。
黒い紋様に、細い亀裂が走る。
セフィルの剣が、リリアの肩に触れる寸前で止まった。
「……な、に……?」
セフィルは自分の手を見下ろした。
剣を振り下ろそうとしている。
命令は、まだ聞こえている。
それなのに。
自分の手が、動かなかった。
いや、違う。
動かさなかったのだ。
「私は……」
セフィルの唇が震えた。
「私は、なぜ……剣を止めた?」
誰も答えなかった。
答えを持っているのは、彼自身だったからだ。
セフィルはリリアを見た。
彼女は額に汗を浮かべ、苦しそうに息をしている。
自分を救うために、無理をしたのだ。
なぜ。
神々に逆らう存在を、なぜ助ける。
なぜ、自分のようなものに。
「……理解できない」
「うん。今は、わからなくてもいいよ」
リリアは微笑もうとした。
けれど、視界がぐらりと揺れた。
「リリア!」
倒れかけた彼女を、アレンが抱きとめる。
鼻先から、一筋の血が流れ落ちた。
「ごめん、アレン……ちょっと、力を使いすぎたみたい」
「ちょっとどころじゃない!」
アレンは怒ったように言ったが、その腕は彼女を壊れ物のように支えていた。
セフィルは二人を見つめたまま、動かなかった。
やがて、彼の首筋で黒い紋様が再び輝いた。
『命令違反を確認』
『対象の意志を修正する』
『不要な記憶を消去する』
セフィルの瞳から、少しずつ光が失われていく。
「……あ」
彼は額を押さえた。
何かが、自分の中から引き剥がされていく。
リリアの声。
自分が剣を止めた感覚。
そして、胸の奥に生まれた、名前のわからない感情。
すべてが、黒い闇に呑まれようとしていた。
「待って……」
セフィルは、無意識に呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
「消さないで……」
その声を聞き、リリアは顔を上げた。
「セフィル?」
セフィルの手が、自分の胸元を掴む。
「私は……まだ……」
何を言いたいのか、わからない。
何を守りたいのかも、わからない。
それでも。
消えてほしくないものがあった。
初めて感じた、命令ではない何か。
初めて、自分の意志で選んだ瞬間。
それを失いたくなかった。
「私は……まだ、選んでいない……!」
その叫びとともに、紫色の光が彼の全身から溢れ出した。
黒い紋様が砕け散る。
同時に、遠く離れた神殿で、アステリオンが目を見開いた。
「何だと……?」
神殿の床に刻まれた命令の術式が、一つ、音もなく消滅していた。
「セフィルが……命令に逆らった?」
アステリオンの表情から、余裕が消えた。
神々の命令に疑問を抱くことすら許されなかった使者。
その存在が、自らの意志を持ち始めた。
「まさか……創造主の力が、あの器にまで干渉したというのか」
アステリオンは手を握り締めた。
「ならば、なおさら放置できぬ」
彼は神殿の奥へ視線を向けた。
そこには、七つの誓約のうち、封印された一つを示す巨大な扉があった。
「第七の誓約を進める。創造主の魂だけでなく、その意志に触れた者も、すべて管理下に置くのだ」
神殿の奥で、重い扉がゆっくりと開き始めた。
その向こうから、世界の法則そのものを震わせる気配が漏れ出す。
*
廃都ヴェルグラント。
崩れた石壁の前で、セフィルは膝をついていた。
黒い紋様は消えていない。
ただ、以前のように彼のすべてを支配することはできなくなっていた。
リリアはアレンに支えられながら、彼の前にしゃがみ込んだ。
「セフィル。大丈夫?」
「……わからない」
セフィルは正直に答えた。
「何が大丈夫で、何が大丈夫ではないのか。それすら、私にはわからない」
「そっか」
「私は、神々に背いた。命令を拒絶した。これから私は、どうなる?」
リリアは少し考えてから、答えた。
「それを決めるのは、神々じゃないと思う」
「……では、誰が決める?」
「あなた自身だよ」
セフィルは、長い間黙っていた。
やがて、彼は自分の剣を見つめ、ゆっくりと鞘に収めた。
「私は……神々の使者として、君を神殿へ連行する命令を受けていた」
「うん」
「その命令は、まだ解除されていない」
「そうだね」
「それでも、私は君を連れていかない」
セフィルは顔を上げた。
「理由はわからない。君を信じているのかどうかも、わからない。ただ……今は、自分の意志でそう決めた」
リリアは、心から嬉しそうに笑った。
「ありがとう、セフィル」
「礼を言われるようなことではない」
「ううん。あなたが自分で選んだことだから」
セフィルはその言葉を、心の中で繰り返した。
自分で選んだ。
それは、彼にとって初めて与えられたものだった。
そして同時に、初めて背負うことになったものでもあった。
選択には、責任が伴う。
その意味を、彼はまだ知らない。
それでも。
彼はもう、ただ命令に従うだけの存在ではなかった。
リリアが立ち上がろうとしたとき、セフィルはふと、彼女の手首に目を留めた。
そこに、薄い金色の紋様が浮かんでいた。
「……それは?」
「え?」
リリアが自分の手首を見下ろす。
見覚えのない紋様だった。
七つの星を囲む円。
その中央には、小さな空白がある。
セフィルの顔色が変わった。
「その紋様は……」
「知ってるの?」
「神殿の最深部にある記録で、一度だけ見たことがある」
彼は震える声で告げた。
「七つの誓約が結ばれる以前から存在していた、最初の契約の印だ」
「最初の……契約?」
レオンが鋭く顔を上げる。
「そんなものが存在するはずはない。七つの誓約こそが、世界を縛る最初の契約だったと記録されている」
「違う」
セフィルは、はっきりと言った。
「記録には、こう記されていた」
彼はリリアの手首から目を離さなかった。
「七つの誓約は、最初の契約を隠すために結ばれた、と」
その場の空気が凍りついた。
七つの誓約は、世界を守るためのものではなかったのか。
それとも、守るという名目で、何かを封じるためのものだったのか。
リリアの手首の紋様が、かすかに輝いた。
その瞬間、彼女の脳裏に、知らない少女の声が響いた。
『やっと、ここまで来たのね』
懐かしいようで、恐ろしい声。
『でも、まだ思い出してはいけない』
金色の光が消える。
『あなたが最初に結んだ約束を――』
そこで、声は途切れた。
リリアは、自分の手首を強く握り締めた。
まだ、思い出してはいけない約束。
それは、創造主エリシアが忘れたものなのか。
それとも、リリア自身が忘れたものなのか。
答えは、誰も知らなかった。
ただ一つ確かなのは。
神々が隠している真実は、彼女が想像していたよりも、ずっと深い場所にあるということだった。
――第十七話・完
次回、第十八話「最初の契約と、少女の声」
リリアの手首に浮かび上がった、七つの誓約よりも古い紋様。セフィルが語る禁じられた記録を手掛かりに、一行は最初の契約の痕跡を追い始める。
その一方、リリアの夢に現れた謎の少女は、彼女に問いかける。
――「あなたは、あの子を今度こそ救えるの?」




