第108話 命令を書き換えた者
第108話 命令を書き換えた者
《命令の所有者――現在も世界の内側に存在》
その文字が浮かび上がった瞬間、部屋全体が低く震えた。
「現在も……この世界にいる?」
ミラが息をのむ。
レオンは剣の柄に手をかけ、アステリアは記録の文字を見つめたまま動かなかった。
「なら、あの命令を書き換えた者は、今もどこかで世界を見ているということね」
リリアは手首の白い花の紋章を押さえた。
また、あの声が聞こえた。
『まだ、思い出さないで』
懇願するような声だった。
けれど、リリアはもう、ただ忘れたままでいることを選びたくなかった。
「私は、その人を責めるために思い出したいんじゃない」
彼女は静かに言った。
「何があったのかを知りたい。そして、その人自身の意思も聞きたいの」
その言葉に、アレンがうなずいた。
「今度こそ、誰かの代わりに答えを決めない。相手が話すかどうかも、本人に選んでもらおう」
リリアは彼の手を握り返した。
その瞬間、壁に新しい扉が現れた。
扉の中央には、見覚えのある文字が刻まれていた。
――《命令の書き換えを承認した者》。
残り時間は、一時間五十分。
◇
扉の向こうにあったのは、広い部屋ではなかった。
白い花が一輪だけ咲く、小さな庭だった。
その花の前に、一人の青年が立っていた。
銀色の髪。紫色の瞳。
世界創造の証人に似ている。けれど、まったく同じ人物なのかは、まだ分からなかった。
青年はリリアたちを見ると、ゆっくり振り返った。
「ここまで来たんだね」
「あなたが、命令を書き換えたの?」
リリアの問いに、青年はすぐには答えなかった。
やがて彼は、花を見下ろした。
「僕は、最初の命令を作った者ではない。けれど、書き換えを止められる立場にいた」
「止められたのに、止めなかった?」
「そうだ」
青年の声に、言い訳はなかった。
「世界が何度も崩壊するのを見た。誰かの願いがぶつかり、選ばれなかった未来が別の未来を壊していく。そのたびに、僕は恐ろしくなった」
「だから、不確かな意思を排除する命令を受け入れたのね」
「世界を守れると思ったんだ」
青年は目を伏せた。
「誰も選べなくなれば、誰も選択を間違えない。記録と現実を一致させれば、矛盾も生まれない。そう信じた」
「でも、それでは生きている意味がなくなる」
リリアの言葉に、青年の瞳が揺れた。
「選び直せない世界では、間違いを認めることもできない。誰かが決めたことを、永遠に正しいことにするしかないから」
青年は何も答えなかった。
庭の白い花が、風もないのに揺れた。
「……あの小さな影は、僕に尋ねたんだ」
青年はかすれた声で続けた。
「世界を守るために誰かの意思を消すのなら、それは本当に守ることなのか、と」
リリアは息を止めた。
記録の中で消えていった、あの小さな影。
青年はその問いに答えられなかったのだ。
「僕は、答えられないまま命令を承認した。そして、あの影を記録の外へ追いやった」
「その子は、今どこにいるの?」
「分からない。消えたのか、世界の外にいるのか。それさえ、僕には確かめられなかった」
青年は拳を握りしめた。
「だから僕は、今もこの庭にいる。命令を承認した責任から逃げないために」
リリアは彼を見つめた。
許すとも、許さないとも、まだ言えなかった。
ただ一つ、分かったことがある。
この青年は命令を書き換えた者の一人であっても、すべてを操っていた存在ではない。
そして、彼自身もまた、自分の選択を変えられずにいた。
「あなたは今、どうしたいの?」
リリアが尋ねると、青年は驚いたように顔を上げた。
「……僕に、選ばせるのか?」
「あなたがしたことの責任は消えない。でも、これから何をするかまで、私が決めることはできない」
青年は長い沈黙のあと、白い花に目を向けた。
「なら、僕は記録を開こう。承認したときの記憶も、隠したものも、すべて」
庭の地面が光り始めた。
花の根元から、黒い文字が浮かび上がる。
その中に、一行だけ、青年自身にも見覚えのない記録があった。
《命令の最終変更者――承認者とは別人》
青年の顔から血の気が引いた。
「そんな……。僕が承認したあと、誰かがさらに書き換えたのか?」
リリアの手首の紋章が、強く輝いた。
そして、忘れていた声が今度ははっきりと響いた。
『お願い……今度こそ、あの人を一人にしないで』
リリアは目を見開いた。
その声が誰のものなのか。
なぜ自分の前世とつながっているのか。
答えは、もうすぐそこまで来ていた。
けれど、記録の最後には、冷たい警告が浮かんでいた。
《最終変更者の記録を開けば、保護されている記憶が一つ失われる可能性があります》
残り時間は、一時間三十五分。
リリアは仲間たちを振り返った。
「失うかもしれないからって、また誰かに選択を奪わせるわけにはいかない」
彼女は扉の奥に続く光へ、一歩踏み出した。
「今度は、失うものも、守るものも、ちゃんと知ったうえで選ぶ」
世界の奥底で、最後の記録が目を覚まそうとしていた。
第109話「最後の記録と、失われる記憶」 リリアの前世と白い花の紋章を結ぶ記録が開かれる。そこに残されていたのは、彼女が忘れていた約束と、誰かが守り続けた最後の願いだった。




