第109話 最後の記録と、失われる記憶
第109話 最後の記録と、失われる記憶
《最終変更者の記録を開けば、保護されている記憶が一つ失われる可能性があります》
白い庭に浮かぶ警告を、リリアはじっと見つめていた。
「失われる記憶って、誰の記憶なの?」
問いかけに応じるように、地面に文字が浮かび上がる。
《保護対象――記録の受領者》
リリアの胸が、どくんと鳴った。
「私……?」
「待ってくれ」
アレンが一歩前に出た。
「君がまた何かを失う可能性があるなら、別の方法を探そう。あと一時間以上あるんだ」
「でも、記録を開かなければ、誰が最後に命令を書き換えたのか分からない」
「分かってる。それでも、君が失うものを軽く考えたくないんだ」
アレンの声には、隠しきれない不安があった。
かつて彼は、リリアを守るために彼女の代わりに答えを出してしまった。
今は違う。
彼は答えを押しつけず、ただ彼女の選択を待っていた。
リリアは、その手をそっと握った。
「ありがとう、アレン。怖くないわけじゃない。でも、私は知りたい。知らないまま誰かの願いを踏みにじることだけは、したくないの」
「……分かった。君が選ぶなら、俺はそばにいる」
リリアはうなずき、記録の扉に手を伸ばした。
「開いて」
光が、部屋いっぱいに広がった。
◇
最初に現れたのは、見知らぬ部屋だった。
石造りの壁。小さな窓。窓辺には、白い花が飾られている。
そして、そこに一人の少女が座っていた。
リリアと同じ顔。
けれど、今のリリアよりもずっと幼い。
少女は目の前の誰かに向かって、必死に何かを訴えていた。
『私が忘れても、あなたは覚えていて』
声が響く。
『でも、私の代わりに未来を決めないで。私が何を選ぶか、最後まで待っていてほしいの』
向かいに立つ人物の顔は、光に隠れて見えなかった。
ただ、その手には銀色の指輪があった。
カイルの指輪と同じ意匠。
その人物は、静かに答えた。
『約束する。君が忘れても、君の意思を勝手に書き換えたりしない』
少女は、ほっとしたように笑った。
『それなら、いつかまた会えたとき、私のことを教えて』
『君が知りたいと願ったら、必ず』
そこで記録が途切れた。
リリアは息をのんだ。
「この少女は……私の前世なの?」
アステリアが慎重に答えた。
「あなたと同じ魂の記録かもしれない。でも、断定はできないわ。記録そのものが、何者かによって切り取られている」
「それに、指輪を持っていた人物も分からない」
カイルが指輪を握りしめる。
「俺の指輪に残っていた記録は、この約束につながっていたのか……」
そのとき、記録の奥から別の声が響いた。
『まだ、思い出さないで』
リリアの手首にある白い花の紋章が、かすかに震える。
『あなたが私を思い出したら、あの人まで消えてしまうから』
今度の声は、はっきりと悲しみを帯びていた。
リリアは目を閉じた。
忘れたくない。
けれど、自分が思い出すことで誰かが消えてしまうのなら――。
「私は、あなたの言葉を無視してまで思い出したいわけじゃない」
リリアは声の主に語りかけた。
「でも、あなたが一人で全部を背負う必要もないの。守るために隠すことと、相手に何も知らせずに決めてしまうことは違うから」
沈黙が落ちた。
やがて、声が小さく返ってきた。
『……それでも、私は怖いの』
「うん」
『あなたに思い出してほしい。でも、思い出してほしくない』
「その二つの気持ちがあってもいいよ」
リリアは胸に手を当てた。
「今すぐ、どちらか一つに決めなくてもいい」
白い花が、ゆっくりと開いた。
◇
その花の中心から、一枚の記録が現れた。
《最終変更者――特定不能》
続いて、別の文字が浮かぶ。
《変更の目的――保護対象を世界の崩壊から切り離す》
そして最後に。
《実行者の記録――本人の意思により封印》
「本人の意思で……封印した?」
セフィルがつぶやく。
「誰かに記憶を奪われたのではなく、自分で封じた可能性があるということか」
アステリアは苦しそうに目を伏せた。
「なら、その人は何かを知ったうえで、自分の記憶を閉じたのね」
リリアは記録を見つめた。
最後の変更者は、世界を壊そうとしたのではない。
少なくとも、記録上の目的は誰かを守ることだった。
しかし、守るために何をしたのか。
何を犠牲にしたのか。
それは、まだ分からない。
その瞬間、部屋が大きく揺れた。
外部の影が、壁の向こうから押し寄せてくる。
『記録の閲覧を停止せよ』
冷たい声が響いた。
『不確定な記憶は世界を不安定にする。受領者の記憶を削除し、記録を閉鎖する』
「させない!」
リリアが手を掲げると、創世の力が光となって広がった。
だが、いつものように力で押し返すことはしなかった。
「この記憶を残すかどうかは、私が決める。あなたが勝手に削除することは許さない」
『記憶の保護には、記憶の代償が必要だ』
「なら、代償を決める仕組みそのものを変える!」
世界が震えた。
リリアの鼻先に赤い血がにじむ。アレンが支えようと手を伸ばしたが、彼女は小さく首を振った。
まだ立っていられる。
まだ、自分の意思を伝えられる。
リリアは記録の前に立ち、最後の文字を刻んだ。
《記憶の保護と、記憶の削除は同一の権限に属さない》
光が走る。
警告が消え、代わりに新しい文字が現れた。
《記録の閲覧――継続可能》
外部の影が、初めて後退した。
だが、その直後。
白い花の向こうに、一人の人影が現れた。
銀色の指輪を持つ手。
そして、かすかに聞こえる声。
『……約束を、守れなくてごめん』
リリアの目から、一筋の涙がこぼれた。
その声を、彼女は知っている気がした。
忘れてしまった、大切な誰かの声。
しかし、名前を思い出そうとした瞬間、記録が閉じかけた。
リリアは、無理に名前を追いかけなかった。
「大丈夫。今は、あなたが話せるところからでいい」
人影はゆっくりと顔を上げた。
そして、初めて自分の意思で告げた。
『私は、もう誰かの記録の中だけで生きるのは嫌なんだ』
残り時間は、一時間を切っていた。
リリアはその言葉を胸に刻み、うなずいた。
「なら、一緒にここから出よう」
白い花が、今までにないほど強く輝いた。
第110話「記録の外から帰る者」
白い花の向こうに現れた人物が、自らの意思で記録の封印を解こうとする。しかし、その人物が現実へ戻れば、世界を支えてきた命令そのものが崩れ始める。リリアは、世界を守ることと、誰かを自由にすることの両方を諦めず、最後の選択へ向かう。




