第107話 最初に失われたもの
第107話 最初に失われたもの
《世界を守るために、最初に失われたもの》
扉に刻まれた文字を見つめながら、リリアは胸の奥に広がる不安を感じていた。
世界を守るために、最初に失われたもの。
それは、誰かの命なのだろうか。
それとも、選ぶ自由そのものなのだろうか。
「この扉の向こうに、外側の存在が隠している記録があるんだね」
ミラが呟いた。
カイルの指輪とアレンの銀の欠片は、同じリズムで光っている。
二つの欠片が扉に近づくと、紋章の中央に小さな隙間が現れた。
「開けられそうだ」
アレンが銀の欠片を差し込もうとしたとき、リリアは彼の腕をそっと止めた。
「待って。ここにある記録も、誰かの意思が残されたものかもしれない。壊さずに開けられる方法を探そう」
アレンは頷き、欠片を隙間の前にかざした。
すると、扉が自ら反応した。
銀色の光が広がり、紋章の一部がゆっくりと回転する。
カイルの指輪からも光が伸び、二つの光が一つに重なった。
扉が開いた。
その先にあったのは、広大な記録の部屋だった。
壁一面に透明な板が並び、その中には無数の光が閉じ込められている。
しかし、どの板にも名前がなかった。
「名前が全部、消されている……?」
セフィルが近づき、透明な板を調べた。
「違う。最初から名前が書かれていないものもある。記録された意思と、その持ち主を示す情報が分離されているんだ」
「どうして、そんなことを?」
ミラが尋ねた。
セフィルは首を横に振った。
「まだ分からない。ただ、意図的に分けられたことは確かだ」
リリアは、部屋の中央へ歩いた。
そこには一枚だけ、ほかとは違う記録板が置かれていた。
記録板には、古い文字が刻まれている。
《最初の命令を受けた者へ》
リリアが触れると、記録板から淡い光が立ち上った。
そして、遠い過去の光景が映し出された。
世界が生まれる前。
まだ神々も存在せず、創造主エリシアが世界の設計図を描いていた時代。
その隣には、原初の観測者が立っていた。
さらに、淡い金色の髪をした少女が白い花を抱えている。
三人の前には、幼い影が一つ座っていた。
顔は見えない。
けれど、その影が何かを恐れていることだけは伝わってきた。
『世界を創れば、たくさんの命が生まれる』
エリシアの声が響いた。
『誰もが自分の意思で未来を選べる世界にしたいの』
幼い影は、しばらく黙っていた。
そして、小さな声で尋ねた。
『もし、その世界が壊れたら?』
観測者が答える。
『壊れた理由を調べ、もう一度選び直せる方法を探す』
『それでも、また壊れたら?』
『そのときも、できる限りのことをする』
観測者は、すぐに答えを出した。
だが、幼い影は安心しなかった。
『……何度も世界を創り直すことになったら、誰がその世界を守るの?』
三人は沈黙した。
誰も、永遠に世界を守り続けられるとは言えなかった。
そのとき、光景の端から別の人物が現れた。
銀色の髪。
紫色の瞳。
第100話で出会った世界創造の立会人によく似ていたが、同じ人物かどうかは分からない。
その人物は幼い影の前に膝をついた。
『世界が壊れる可能性を監視する仕組みを作ろう』
『すべての意思を残すのではなく、世界に干渉しない形で記録する』
『そして、世界の成立を脅かすものが現れたら、それを止める』
幼い影は尋ねた。
『その仕組みは、間違えないの?』
人物は答えられなかった。
長い沈黙のあと、エリシアが口を開いた。
『間違えない仕組みなんて、きっと作れない』
『だから、間違えたときに直せるようにしておこう』
その言葉に、幼い影は少しだけ笑った。
しかし、次の瞬間、光景が暗転した。
世界の設計図に、新たな命令が刻まれていく。
《最優先命令――世界を失わせるな》
《不確定な意思を排除せよ》
《記録と現実の矛盾を許容するな》
リリアは息を呑んだ。
「そんな……」
最初は、世界を守るための仕組みだった。
それが、いつの間にか、不確定な意思を排除する命令へと変わっていた。
「誰が命令を書き換えたの?」
アレンが尋ねた。
しかし、映像はその答えを示さなかった。
代わりに、幼い影が一人、光の中に取り残されていた。
『私は、世界を守りたい』
影は呟いた。
『でも、世界を守るために、誰かの意思を消すのなら……それは、本当に守ることなの?』
誰も答えなかった。
やがて、影の姿が薄れていく。
その直前、影は白い花を抱く少女に向かって手を伸ばした。
『お願い。私がいなくなっても、選び直せる世界を忘れないで』
光景が消えた。
リリアは、しばらく動けなかった。
世界を守るために、最初に失われたもの。
それは、命だったのかもしれない。
けれど、もっと前に失われたものがある。
間違いを認め、命令を見直し、選び直すことのできる余地。
世界を守るために作られた仕組みから、その余地が失われていたのだ。
「……外側の存在は、最初から悪意を持っていたわけじゃないんだね」
リリアが呟く。
「誰かが世界を守ろうとして作った仕組みが、変わってしまったのかもしれない」
「だが、誰が変えたのかは分からない」
カイルは指輪を握りしめた。
「そして、最初に失われた影が誰なのかも……」
そのとき、部屋全体が揺れた。
壁の透明な板に亀裂が走り、すべての記録が一斉に明滅し始める。
外側の存在の声が響いた。
『閲覧を停止せよ』
『初期記録への接触を禁止する』
リリアは記録板を守るように立った。
「あなたが隠していることは、まだあるんだね!」
『それ以上の閲覧は、世界の成立を危険にさらす』
「なら、どうして最初から説明してくれなかったの?」
『説明は、世界を守らない』
その言葉に、リリアは強く首を振った。
「違うよ。説明しないまま、誰かの意思を奪うことだって、世界を守ることにはならない!」
外側の存在は沈黙した。
その間に、記録板に新たな文字が浮かび上がった。
《初期管理者の命令――変更履歴》
《最初の命令の変更者:記録欠落》
《変更の承認者:記録欠落》
そして最後に、一つの項目が現れた。
《変更を拒否した者――存在記録なし》
セフィルが顔を上げた。
「変更に反対した者がいたのか……!」
「でも、その人の存在まで消されている」
リリアは記録板に手を伸ばした。
すると、彼女の手首にある白い花の紋章が淡く光った。
記録板の奥から、かすかな声が響く。
――まだ、思い出さないで。
――あなたが私を思い出したら、あの人まで消えてしまうから。
リリアは息を止めた。
それは、かつて彼女が処刑される前の記憶で聞いた声と同じだった。
誰かが、彼女の過去と、世界創造以前の記録をつないでいる。
けれど、なぜなのか。
その答えを知ろうとした瞬間、記録板が光を失った。
部屋の奥で、黒い門が閉じていく。
《閲覧可能時間――残り二時間》
アレンがリリアの隣に立った。
「急ごう。まだ、最初の命令を書き換えた者が分かっていない」
リリアは頷いた。
世界を守ろうとした者。
その仕組みを変えた者。
そして、変更に反対し、存在記録ごと消された者。
その三者を見つけなければ、世界の外側の存在がなぜ生まれ、何を守ろうとしているのか、本当の答えにはたどり着けない。
彼女たちは、記録の部屋をあとにした。
その背後で、誰も触れていない透明な板が一枚だけ光った。
そこに、消されたはずの文字が一瞬だけ浮かび上がる。
《最初の命令は、まだ終わっていない》
そして、その下に小さな一文が刻まれた。
《命令の所有者――現在も世界の内側に存在》
――第107話・
次回、第108話「命令を書き換えた者」




