第105話 世界を守る者、意思を守る者
第105話 世界を守る者、意思を守る者
白い部屋を出たリリアたちは、原初の空白へと戻った。
境界の閉鎖まで、残り五時間。
時間が経つにつれて、白い空間には小さな亀裂が増えていた。遠くに浮かぶ光も、一つ、また一つと消えていく。
世界が生まれる前に存在していた、選ばれなかった未来。
それらが消えれば、もう二度と確かめられないものもあるのだろう。
「このままでは、記録だけじゃなく、世界そのものも危ないんじゃないか?」
アレンが尋ねた。
セフィルは頷いた。
「外側の存在が言っていたことが正しければ、未確定の意思が世界の成立条件を揺らしている。境界を閉じることが、世界を安定させる方法なのかもしれない」
「でも、それが唯一の方法だとは限らないよね」
リリアは足を止めた。
「世界を守ることと、誰かの意思を消すこと。その二つを必ず結びつけなければいけない理由はないはずだよ」
ミラが腕を組んだ。
「だったら、別の方法を見つけよう。時間がないからって、最初から諦めるのは嫌だもの」
そのとき、第三の存在が静かに口を開いた。
「……私は、世界を守る人たちの気持ちも分かる気がする」
全員が彼女を振り返った。
「世界がなくなったら、そこで生きている人たちの未来もなくなってしまう。私の意思を守るために、みんなが大切にしているものを壊したくない」
少女は、白い花を見つめた。
「でも、私が黙っていれば、私の意思はなかったことにされるかもしれない。それも、もう嫌なの」
リリアは少女の肩に手を置いた。
「どちらも大切だから、悩んでいるんだね」
「うん」
「なら、悩んでいいんだよ。すぐに答えを出せないことは、悪いことじゃない」
少女は小さく微笑んだ。
その瞬間、足元に一つの光が現れた。
光の中には、見知らぬ街が映っていた。
人々が暮らし、子どもたちが走り、誰かが誰かの手を取っている。
世界の外側の存在が見せている幻なのか、それとも実際の世界の光景なのかは分からない。
しかし、少女はその光景から目を離せなかった。
「この人たちは、私のことを知らないんだよね」
「そうだと思う」
リリアが答える。
「それでも、この人たちの未来は守りたい?」
少女はしばらく考えた。
「……守りたい。でも、私が自分の意思を消してまで守ることが、本当に正しいのかは分からない」
「それでいいんだと思う」
リリアは穏やかに言った。
「誰かを大切に思うことと、自分を犠牲にすることは、同じじゃないから」
その言葉を聞いたアレンは、目を伏せた。
彼もまた、誰かを守るために、その人の意思を代わりに決めようとしたことがある。
正しいことをしたつもりだった。
けれど、守ることに夢中になりすぎて、相手が何を望んでいるのかを聞くのを忘れていた。
アレンは少女の前に立った。
「俺も、世界を守りたいと思っている。だが、そのために君の意思を消していいとは思わない」
少女は彼を見つめた。
「もし、私の答えがあなたの望みと違っていたら?」
「それでも、君の答えを聞く」
アレンは迷わず答えた。
「そのうえで、俺自身がどうするかを決める。君の代わりに決めることはしない」
少女は、少しだけ安心したように微笑んだ。
そのときだった。
白い空間全体が激しく揺れた。
遠くに黒い門が現れ、その向こうから巨大な光が押し寄せてくる。
世界の外側の存在が、再び姿を現したのだ。
『意思の保留を確認した』
『しかし、保留は解決ではない』
声が響くたびに、足元の光が消えていく。
『世界は不確定な意思を抱え続けられない』
『世界を維持するなら、未確定の記録を閉じよ』
リリアは一歩前へ出た。
「どうして、あなたはそこまでして記録を閉じようとするの?」
『記録が残れば、選ばれなかった可能性が世界に干渉する』
「なら、干渉しない形で残す方法を探せばいい!」
『不可能だ』
即答だった。
『すべての意思を残せば、世界は無数の矛盾に満たされる。すべての可能性を認めれば、何一つ確定できなくなる』
その言葉に、リリアは一瞬、返答に詰まった。
外側の存在が言っていることにも、一理はある。
あらゆる可能性を同時に現実にすることはできない。
誰かが選べば、選ばれなかった道が生まれる。
けれど、それと、選ばれなかった道の存在した事実まで消すことは別の話だ。
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「全部を現実にする必要はないよ」
『何?』
「選ばなかった未来を、今の世界に無理やり存在させる必要はない。でも、選ばれなかったという理由だけで、その意思や理由まで消す必要もない」
リリアは、少女を振り返った。
「選ぶことと、消すことは違うんだよ」
少女は頷いた。
「私も、そう思う」
彼女は黒い門を見つめた。
「私は、すべての未来を現実にしたいわけじゃない。選ばなかった未来を、無理やり取り戻したいわけでもない」
白い花が光を放つ。
「ただ、選ばなかったからといって、そこにあった願いまで、間違いだったことにされたくないの」
外側の存在は、しばらく沈黙した。
そして、初めて問いかけた。
『その記録を残したとして、いつか本人が忘れてほしいと望んだら、どうする?』
少女は息を呑んだ。
記録を守ることは、いつでも正しいとは限らない。
本人が過去を手放したいと願うこともある。
彼女は、すぐには答えられなかった。
その沈黙を、リリアは急かさなかった。
アレンも、カイルも、誰も代わりに答えなかった。
やがて、少女は自分の胸元に手を置いた。
「そのときは、忘れたいという意思も尊重する」
彼女はゆっくりと言葉を続けた。
「でも、記録を残すこと自体が間違いだったとは思わない。残すことも、手放すことも、本人が選べるようにしたい」
黒い門の表面に、細かな亀裂が走った。
『……記録の保存と消去を、本人の選択に委ねるというのか』
「そう」
少女は頷いた。
「誰かが私の意思を勝手に消すのも、誰かが私の意思を勝手に残し続けるのも、同じように嫌だから」
その瞬間、リリアの胸の奥で創世の理が反応した。
新しい力が生まれたわけではない。
むしろ、今まで当たり前だと思っていた考え方が、初めて明確な形を持ったのだった。
世界を創ること。
意思を記録すること。
選び直すこと。
そして、手放すこと。
それらを一つの答えにまとめる必要はない。
リリアの目の前に、新たな記録が浮かび上がった。
《記録の保存条件――本人の意思》
《記録の消去条件――本人の意思》
《意思の変更――随時可能》
だが、その下には警告も刻まれていた。
《世界の成立条件との整合性――未確認》
セフィルが記録を読み、表情を引き締めた。
「方向性は見えた。しかし、これだけでは世界の不安定さを解消できない」
「うん。まだ最後の問題が残っている」
リリアは黒い門を見つめた。
「どうして世界の外側の存在は、意思を一つに確定させなければいけないと思っているのか。その理由を知らなければ、根本的な解決にはならない」
門の奥で、一つ目の光が揺れた。
『残り四時間』
『次の選択を示せ』
門が閉じ始める。
その直前、リリアは光の奥に、一瞬だけ別の光景を見た。
世界が生まれた瞬間。
歓声を上げる神々。
そして、創造の光から取り残され、ひとり立ち尽くす小さな影。
その影が誰なのか、まだ分からない。
だが、世界が創られたとき、誰かがそこに残されたことだけは確かだった。
リリアは、仲間たちを振り返った。
「行こう。世界を守るために誰かを消すのではなく、誰もが自分の意思を持ったまま生きられる方法を見つけるために」
今度は、誰も迷わず頷いた。
残された時間は、四時間。
そして、世界の外側の存在が隠している最後の真実へ向かう道が、ゆっくりと開き始めていた。
――第105話
次回、第106話「世界の外側が恐れるもの」




