第102話 記録から消された者
第102話 記録から消された者
原初の空白から戻ったリリアたちは、しばらく誰も言葉を発せなかった。
第三の存在は、両手で白い花を包み込んでいた。
彼女は自分が世界の創造に反対した理由を知った。
それは、世界を壊したかったからではない。
自分の意思が世界にとって不要だと判断されたとき、その理由も、存在した事実さえも消されてしまうことが怖かったのだ。
「……私、ずっと勘違いしていたのかもしれない」
少女が呟いた。
「自分が世界を拒絶したから、みんなが私を拒絶したんだと思っていた。でも、本当は……私が自分の意思を守ろうとしたこと自体が、許されなかったのかな」
「まだ、すべてが分かったわけじゃない」
リリアは少女の隣に座った。
「でも、あなたが何を怖がっていたのかは分かったよ。だから、これからどうするかは、あなた自身が決めていい」
少女は小さく頷いた。
そのとき、カイルの指輪が突然、激しく震えた。
「なんだ……?」
銀色の光が床に広がり、空中に一つの記録が浮かび上がる。
《記録の受領者:未確定》
その文字が、ゆっくりと書き換わった。
《記録の受領者:接続中》
「接続中……?」
ミラが眉をひそめる。
カイルは指輪を握りしめた。
「誰かが、この記録に触れているんだ」
直後、空間の奥から声が響いた。
『その記録を開くな』
世界の外側の存在だった。
『記録から消された者を探す必要はない』
「どうして?」
リリアは声を張り上げた。
「あなたは、どうしてその人の記録を隠そうとするの?」
返答はなかった。
代わりに、黒い影が床を這い、指輪の光へと伸びてくる。
アレンが剣を振るった。
刃は影を切り裂いたが、影はすぐに元の形へ戻った。
「物理的な攻撃では止められないか」
セフィルが紫色の魔力を放ち、影の動きを一瞬だけ封じた。
「長くは持たない。記録そのものを守らなければ」
「なら、俺がやる」
カイルは指輪を両手で包んだ。
「この指輪が誰の意思を守ってきたのか、俺はまだ思い出せていない。でも、だからこそ、今ここで手放したくない」
銀の光が強まった。
カイルの脳裏に、見知らぬ記憶が流れ込む。
白い花。
薄暗い回廊。
そして、誰かの背中。
『これを預ける』
若い男の声だった。
『いつか、この記録を必要とする者が現れる。そのときまで、誰にも答えを決めさせるな』
カイルは息を呑んだ。
「この声……」
記憶の中の男が振り返ろうとする。
しかし、その顔は黒い靄に覆われていた。
『お前自身の記憶も、いずれ失われるだろう』
『それでも構わないのか?』
『構わない。ただし、一つだけ頼みがある』
男は、銀の指輪を差し出した。
『俺が誰だったとしても、俺を犯人だと決めつけないでくれ』
そこで記憶が途切れた。
カイルは膝をついた。
「俺は……誰かから、この指輪を預かったんだ」
「誰から?」
リリアが尋ねる。
カイルは苦しそうに首を横に振った。
「分からない。でも、俺はその人の記憶を守るために、自分の記憶を封じたのかもしれない」
指輪から、幼い少女の声が響いた。
『あの人を、犯人にしないで』
第三の存在が顔を上げた。
「その声……」
「知っているのか?」
アレンが尋ねる。
少女はしばらく考えたあと、首を横に振った。
「分からない。でも、この声も、私の意思と同じように、誰かに守られていた気がする」
その瞬間、指輪の光が一つの方向を指し示した。
そこに現れたのは、鏡のような薄い壁だった。
壁の向こうに、見知らぬ部屋が見える。
机の上には記録板が積み重なり、その中央に一人の人物が座っていた。
銀色の髪。
紫色の瞳。
しかし、その顔ははっきりと見えない。
第100話で出会った世界創造の立会人に似ているが、同一人物なのかは分からなかった。
人物は記録板に手を置き、静かに語りかけていた。
「……私は、彼女の意思を記録した」
その声に、第三の存在が立ち上がった。
「あなたなの?」
人物は顔を上げた。
「誰かを救うために記録したつもりだった。だが、記録を守ることに執着するあまり、本人がそれを望まなくなったとき、どうすればいいのか分からなくなった」
人物の声には、深い疲労が滲んでいた。
「私は、記録を消されることを恐れていた。だから、誰にも触れられない場所に隠した。だが、それでは記録の持ち主が、自分の過去を知る機会まで奪ってしまう」
リリアは鏡のような壁に近づいた。
「あなたは、何者なの?」
人物は答えなかった。
その代わり、第三の存在を見つめた。
「君が、その記録の持ち主なのか?」
少女はすぐには答えなかった。
そして、静かに告げた。
「私は、まだ自分が誰だったのか、全部は分からない。でも、あなたが知っていることを聞きたい」
「それを知れば、君は私を許せなくなるかもしれない」
「それでもいい」
少女はまっすぐに相手を見つめた。
「許すかどうかも、私が決めることだから」
人物は長い沈黙のあと、目を閉じた。
「……そうか」
その瞬間、鏡の壁に亀裂が走った。
世界の外側の存在が、記録への接続を強制的に切断しようとしていた。
『接続を停止する』
『記録者の特定を禁止する』
人物は最後に一言だけ残した。
「次に会うときは、私自身の意思で話そう。君に何を伝えるべきか、私も考えなければならない」
光が消えた。
鏡の壁は砕け散り、指輪の輝きも弱まっていく。
カイルは、しばらく指輪を見つめていた。
「今の人物が、記録を守った者なのか……それとも、記録を隠した者なのか」
「両方なのかもしれないね」
リリアは答えた。
「誰かを守ろうとして、その人の選択まで奪ってしまうことはある。だからこそ、守ることだけで正しいとは言い切れないんだと思う」
アレンは静かに頷いた。
そして、第三の存在へと視線を向けた。
「君は、あの人物に会いたいか?」
少女は白い花を胸元で握りしめた。
「うん。でも、名前を知りたいからじゃない」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「今度こそ、その人自身の意思で、話してほしいから」
その言葉に反応するように、空中へ新たな記録が浮かび上がった。
《記録の受領者:未確定》
《記録者との再接続条件――双方の意思による同意》
そして、その下に警告が現れた。
《世界の成立境界、閉鎖まで残り八時間》
ミラが息を呑んだ。
「八時間……?」
セフィルは険しい表情で頷いた。
「世界の外側の存在が、境界を閉じようとしている。時間が尽きれば、残された記録へ触れることすらできなくなる可能性がある」
リリアは、白い空間の彼方を見つめた。
第三の存在の願いを知るためには、記録者の意思を確かめなければならない。
そして、記録者に会うためには、世界の外側の存在が閉じようとしている境界へ向かう必要がある。
「急ごう」
リリアは仲間たちを振り返った。
「誰かの答えを奪わずに、この記録を最後まで確かめるために」
彼女たちは再び歩き出した。
その背後で、カイルの指輪が一度だけ光った。
そこに刻まれた文字が、誰にも気づかれないまま変化していた。
《保護者の記憶――最終封印解除条件、接近》
そして、消えかけた銀の光の奥から、かすかな声が聞こえた。
――もうすぐ、思い出す。
――だが、思い出したとき、君は誰を守る?
――第102話・
次回、第103話「指輪の記憶と最後の選択」




