ファンタジーは突然に
「この子が、樹海の魔女……?」
私とハルクは目を合わせた。何度か瞬きをして、どうにか意思を伝えようとする。けれど、まぶたによる会話は思った以上に難しかった。
私はもう一度、目の前の少女を見る。彼女はどこまでも人間だった。赤毛の髪に、橙色の瞳。衣服から出ている肌には、毛も鱗も羽もない。私の目からすれば、完全に人間の少女に見える。背丈は私とそれほど変わらない。年齢も近そうだった。
ただ、彼女を魔女だと断言できない理由は、姿かたちだけではなかった。装いが、あまりにもメイド服だったのだ。個人の趣味にとやかく言うつもりはない。けれど、もしこの子が樹海の魔女なら、相当な変わり者である。
「そんな、恐れ多いです。私は弟子のマリィと申します」
マリィは丁寧にお辞儀をした。つられて、私も頭を下げる。弟子。それなら、この服もおかしくないのかもしれない。そう思うことで、私は巡りかけた思考をそっと畳んだ。
「さあ、こちらへ」
マリィに促され、私とハルクは扉の中へ入った。この先には何があるのだろう。期待と不安の混ざった瞳で一歩踏み出した瞬間、私は声を失った。
「わぁ……」
そこは、色とりどりの花が咲き乱れる庭園だった。優しい風が吹き、花の香りを運んでくる。頭上には青々とした空が広がり、光差す太陽があった。そこに月はない。
「これは……転移魔法か? だとしたら、とんでもないことだぞ」
辺りを見渡すハルクは、一見警戒しているようでいて、隠しきれない興奮を瞳に宿していた。
庭園はどこまでも広がっているように見えた。咲き乱れる花々は、私の知るどの花とも少しずつ違っている。花弁が硝子のように透き通っているもの。風に揺れるたび、小さな鈴の音を鳴らすもの。茎の先に、星のかたちをした蕾をつけているもの。どれも美しく、どれもどこか夢の中のものだった。けれど、月だけはない。空は青く、明るく、雲ひとつない。
「月が、ない……」
私が呟くと、マリィは振り返って微笑んだ。
「はい。ここは月のない庭ですから」
「月のない庭?」
「ええ。師匠がお二人をお通しするために、特別に用意した庭園です。月を求める方ほど、ここでは少し落ち着かなくなるそうです」
そう言われて、私は隣のハルクを見た。ハルクは空を見上げたまま、ほんの少し目を細めている。怒っているようにも、寂しがっているようにも見えた。けれど、その表情をどう呼べばいいのか、私には分からない。
「ハルクさん……大丈夫ですか?」
「ああ。問題ない」
声は、いつもより少し低かった。
ハルクは翼をわずかに広げる。その羽先に庭園の風が触れた瞬間、彼の表情が変わった。
「この空は、空に似せて作られた天井だ」
思わず見上げる。青空はどこまでも遠く見える。けれど、言われてみれば不思議なほど綺麗すぎた。雲はなく、太陽の光も眩しすぎない。まるで誰かが青という絵の具を薄く伸ばし、世界の上に貼りつけたようだった。
「さすがですね」
マリィは頷く。
「この庭園は師匠の魔法で作られています。けれど、偽物というわけではありません。ここに咲く花も、流れる風も、すべて本物です。ただ、空だけが少し特別なのです」
「特別?」
「はい。あの空は、ここを訪れた方の奥底に合わせて姿を変えるそうです」
マリィはそう言って、庭園の奥へ歩き出した。私とハルクはその後を追う。
白い石畳には、ところどころ淡い金色の砂が混じっていた。歩くたび、足元で光が小さく跳ねる。少し楽しくなって、私はつま先でそっと石畳を踏んでみた。すると、小さな光の粒がふわりと浮かび上がった。
「わっ」
「ひかり、不用意に触るな」
「す、すみません」
慌てて足を引っ込める。けれど光の粒は怒るでもなく、私の足元をくるりと一周し、花壇の方へ飛んでいった。
「ふふ。大丈夫ですよ。ここの光たちは、悪戯好きなだけですから」
マリィがくすりと笑う。その笑い方は、見た目相応の少女のものだった。けれど、足取りや言葉遣いには不思議な落ち着きがある。やはりこの子も、ただの人間ではないのかもしれない。
しばらく歩くと、庭園の中央に白い東屋が見えてきた。丸い屋根を持つその建物は、蔦と花に包まれている。柱には細かな模様が彫られており、近づくと、それが星や鳥、月の満ち欠けを表しているのだと分かった。
その東屋の中に、ひとりの女性が座っていた。
私は息を呑んだ。
水色の髪が、風もないのに静かに揺れている。朝の光を含んだ湖のような色だった。長く、柔らかく、椅子の背からこぼれ落ちている。瞳もまた同じ水色をしていた。けれど髪より深く、底の見えない泉のようである。
二十代ほどに見える、美しい人だった。ただ綺麗なだけではない。近づけば近づくほど、何か大切なものを見透かされてしまうような、静かな怖さがあった。
この人が、樹海の魔女なのだ。
「師匠。お客様をお連れしました」
マリィが深く頭を下げる。魔女はゆっくり顔を上げた。その視線が、まずハルクへ向けられる。
「大鷲のハルク」
名前を呼ばれ、ハルクの体がわずかに強張った。
「俺のことを知っているのか」
「この樹海に入った者の名前くらいは、木々が教えてくれるわ」
魔女は微笑んだ。優しい微笑みのはずなのに、私の胸はなぜか落ち着かない。
「そして、あなたが何を欲しているのかも」
ハルクは黙った。その沈黙こそが答えのように、魔女は目を伏せる。
「空を飛ぶための火。月へ向かうための火。あなたが探しているものは、それでしょう?」
驚いてハルクを見る。彼は否定しなかった。
「……あるのか」
「あるわ」
魔女はあっさり答えた。あまりにも簡単な返事だったので、私は聞き間違えたのかと思った。
「本当に?」
「ええ。ここには、空へ昇るためのそれがある。けれど、それはただの火ではないわ。器がなければ、願いごと燃え尽きてしまう」
「器?」
私が首をかしげると、魔女は東屋のテーブルに置かれていた小さな硝子瓶を指先で撫でた。瓶の中には何も入っていないように見える。けれど目を凝らすと、底の方で小さな光が呼吸するように明滅していた。
「この瓶に、庭の火を灯す。それができれば、望むものを渡しましょう」
「なら、今すぐにでもやろう」
ハルクが迷わず言った。
「いいえ」
魔女は静かに首を横に振る。そして初めて、私へ視線を向けた。まるで、ずっとその姿を見ることを避けていたように。
「試練を受けるのは、ひかり。あなたよ」
「えっ、私?」
思わず自分を指差した。ハルクも理解できないというように眉を寄せる。
「待て。なぜひかりなんだ。求めているのは俺だ。月へ行きたいのも俺だ。試すなら俺を試せばいい」
「あなたを試しても意味がないからよ」
魔女の声は穏やかだった。けれど、冷たい刃物のような鋭さがあった。
「願いを長く抱えた者は、自分の痛みに慣れてしまう。痛いのか、苦しいのか、もう分からなくなる。そういう者は、どれだけ危うい火でも掴んでしまうわ」
「俺が危ういと言いたいのか」
「あなたが、ではないわ。願いというものが、よ」
魔女の視線が私へ移る。水色の瞳に見つめられ、思わず背筋が伸びた。
「この器は、願いを空へ運ぶ火。けれど、願いだけで飛ぶ者は落ちる。隣にいる誰かが、その火の熱さを知っていなければならない」
「熱さ……」
「そう。空へ連れてゆくということは、ただ背中を押すことではないわ。飛べないときに、落ちたときに、目をそらさないことでもある」
すぐには返事ができなかった。ハルクの願いを叶えたいと思っていた。月へ行けたらいいと思っていた。でも、それは綺麗なことばかりではないのかもしれない。空へ向かうということは、落ちるかもしれないということでもある。月を目指すということは、届かなかった日をもう一度見るということでもある。
「だから、ひかりに試練を受けろと?」
ハルクの声が低くなる。
「そうよ」
「断る」
彼はきっぱり言った。
「ひかりを危険な目に遭わせるくらいなら、いらない。他を当たらせてもらう」
私はハルクを見上げた。その横顔は険しかった。けれど、そこには怒りだけではなく、私を守ろうとする強い意志があった。嬉しいような、申し訳ないような、不思議な気持ちが胸に広がる。
魔女はそんなハルクを見て、少しだけ寂しそうに笑った。
「あなたは優しいのね」
「優しさの話じゃない。それとも、ここでお前に力で認めさせることもできなくはないが?」
それは牽制のようなものだった。けれど魔女は、その言葉を聞いて目を細め、笑みをこぼした。
「ええ。だからこそ、あなたには手を出せないようにする」
魔女が指を鳴らした。その瞬間、ハルクの足元から蔦が伸びる。
「なっ……!」
蔦は脚に絡み、翼を包み、あっという間に大きな体を東屋の柱へ縫い止めた。痛みを与えるためのものではないらしく、ハルクの体を傷つけてはいない。けれど、どれほど力を込めても動けないようだった。
「ハルクさん!」
駆け寄ろうとした私の前に、透明な壁のようなものが現れた。手のひらが、見えない何かに弾かれる。
「どうして!」
「言ったでしょう。これはあなたの試練よ」
「でも、ハルクさんが」
「彼は無事よ。あなたが試練を終えるまで、何も傷つけはしない」
透明な壁の向こうで、ハルクは悔しそうに顔を歪めていた。
「ひかり、やめろ」
「え……」
「お前が受ける必要はない。これは俺の願いだ。俺の未練だ。ひかりが責任を負うことじゃない」
責任。その言葉に、胸がちくりと痛んだ。そんな大きなものを背負えるほど、自分は強くない。でも、ここまで一緒に来た。ハルクさんが月を見たいと言ったから。私も、その月を見てみたいと思ったから。それは責任ではないのかもしれない。けれど、知らないふりをして帰れるほど、小さなことでもなかった。
私は透明な壁から手を離した。
「……やります」
自分でも驚くほど、か細い声だった。けれど魔女には届いたらしい。
「そう」
魔女は立ち上がった。水色の髪が、花の香りを含んだ風にふわりと揺れる。その香りが、なぜか懐かしさへ私を誘った。
「では、試練を始めましょう」
魔女が指を鳴らす。庭園の空が変わった。青かった空から太陽が消え、光がゆっくり薄れていく。けれど夜になったわけではない。星も月も出てこない。ただ、世界から色だけが少しずつ抜け落ちていった。花々は白くなり、石畳は灰色になり、風の音さえ遠くなる。さっきまであれほど鮮やかだった庭園が、誰かの記憶の中に沈んでしまったように静まり返った。
「この庭の奥に、翼を痛めた小鳥がいる」
魔女の声が響く。
「小鳥……?」
「その子は空へ戻りたがっている。けれど、今の翼では飛べない。あなたはその子に、庭の火を灯してもらいなさい」
「灯してもらう?」
「ええ。無理やり奪うことはできないわ。説得しても、命令しても、同情しても駄目。その子が自分から火を分けてもいいと思ったときだけ、この瓶に灯がともる」
魔女は空の硝子瓶を私へ差し出した。両手で受け取る。思っていたより軽い。けれど、手のひらに乗せると、ほんの少しだけ温かかった。
「どうすれば……?」
「それを考えるのが試練よ」
魔女は静かに答えた。
「ただし、そこの大鷲は手助けできない。声も届かない。あなたが自分で見て、自分で考え、自分で選びなさい」
私は硝子瓶を胸に抱えた。怖くないと言えば嘘になる。それでも振り返ると、ハルクがこちらを見ていた。蔦に囚われたまま、何もできない顔で。
その顔を見た瞬間、思った。きっと、ハルクも怖いのだ。月へ行きたいと言いながら。空を飛びたいと言いながら。それでも、落ちることを知らないわけではない。
「……行ってきます」
私が言うと、ハルクは何かを言おうとした。けれど声は届かなかった。透明な壁が、二人の間に音のない距離を作っている。だから私は、小さく頷いた。大丈夫、と言うかわりに。
「行きなさい。ひかり」
魔女の言葉と同時に、足元の花々が左右へ分かれた。庭園の奥へ続く、細い道が現れる。道の先から、かすかな鳴き声が聞こえた。
私は硝子瓶を抱きしめ、ひとりでその道へ踏み出した。




