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灯をあなたに

 道の先から、かすかな鳴き声が聞こえた。私は硝子瓶を抱きしめ、ひとりでその道へ踏み出した。

 庭園の奥へ続く道は、思っていたより細かった。両側に咲く白い花々は、私が近づくたびに顔をそむけるように揺れる。さっきまであんなに色鮮やかだった庭園は、今ではすべてが薄い灰色に沈んでいた。花も、葉も、石畳も、空さえも。

 月のない庭。

 その言葉が、胸の奥で何度も転がった。月がないというだけで、世界はこんなにも寂しくなるのだろうか。それとも、私がひとりだから、そう感じるのだろうか。

「ハルクさん……」

 小さく呼んでみた。返事はない。振り返れば、東屋はもう遠く霞んでいた。透明な壁の向こうでハルクがこちらを見ているはずなのに、その姿は見えない。声も届かない。

 本当に、ひとりだ。

 そう思った途端、胸の奥が急に寂しくなった。私は硝子瓶を抱え直す。

「大丈夫。大丈夫……」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 鳴き声は、道の奥から聞こえてくる。ぴい、ぴい。細く、震える声。私はその声を頼りに進んだ。

 やがて石畳が途切れた。その先には、低い木々が寄り集まる小さな茂みがある。枝は複雑に絡み合い、まるで誰かがわざと出口を隠しているかのようだった。

 鳴き声は、その奥から聞こえていた。

「ここ……?」

 膝をつき、枝の隙間を覗き込む。

 暗い。

 けれど奥の方で、何かが小さく動いた。

「いるの?」

 声をかけると、鳴き声がぴたりと止まった。代わりに、がさりと葉の擦れる音がする。

「大丈夫。怖いことはしないよ」

 なるべく優しい声を出した。すると、茂みの奥から小さな頭がのぞいた。

 白い小鳥だった。

 ただし、普通の小鳥ではない。羽毛は雪のように白く、胸のあたりだけがほんのり橙色に光っている。まるで体の中に、小さな夕焼けを隠しているようだった。

 けれど、片方の翼が不自然に下がっている。羽の先が折れたように曲がり、小鳥はそれをかばうように体を縮めていた。

「あ……怪我してる」

 少し身を乗り出すと、小鳥はびくりと震え、茂みの奥へ引っ込もうとした。

「待って。何もしないから」

 慌てて手を引っ込める。小鳥は警戒したまま、丸い目で私を見ていた。

 その目は、どこかハルクに似ている気がした。そう思って、すぐに首を振る。違う。ハルクはこんなに小さくない。こんなに怯えてもいない。けれど、翼を痛めているその姿は、何かに届かなかった者のように見えた。

「あなたが、庭の火を持っている子?」

 尋ねても、小鳥は何も答えない。ただ、胸の橙色の光が、ほんの少し強くなった。私は硝子瓶をそっと見せる。

「この瓶に、火を分けてもらわないといけないの。私の友達が、空を飛ぶために必要なんだって」

 小鳥は私の言葉を聞いているのかいないのか、翼をばたつかせた。けれど片方の翼がうまく動かず、すぐに体勢を崩してしまう。

 思わず手を伸ばしかけた。

 小鳥が鋭く鳴く。

「ご、ごめん」

 慌てて手を戻した。

 小鳥はまた翼を広げようとする。ばさ、ばさ、と小さな羽音がした。けれど、体は少しも浮かばない。それでも小鳥は諦めなかった。何度も、何度も翼を動かす。そのたびに体が傾き、地面に胸を打ちつける。

「だめだよ。そんなにしたら、もっと痛くなっちゃう」

 私の声に、小鳥は細く鳴いた。

 嫌だ、と言っているように聞こえた。

 飛びたい。ここから出たい。空へ戻りたい。そんな声だった。

 私は困ってしまった。

 小鳥が飛びたいのなら、飛ばせてあげることが正解なのだろうか。でも、怪我をした翼では飛べない。なら、どうすればいいのだろう。

 辺りを見回す。茂みの少し先に、低い枝があった。あそこまで小鳥を運べば、少しは飛びやすいかもしれない。

「ねえ、あの枝の上まで行ってみる?」

 指差すと、小鳥はそちらを見た。胸の光が少しだけ揺れる。

「高いところからなら、飛べるかも」

 そう言いながら、自分の言葉に不安を覚えた。

 本当に。

 本当にそれで飛べるの。

 もし飛べなかったら。もし落ちたら。

 それでも小鳥は枝を見つめたまま動かない。私はそっと手を差し出した。

「運んであげる。痛くしないから」

 小鳥は迷っているようだった。やがて、小さな足で一歩、私の手の方へ近づく。息を止めた。もう一歩。そして小鳥は、私の手のひらに乗った。

「よし……」

 慎重に立ち上がる。小鳥は軽かった。まるで、羽と光だけでできているようだった。

 私は枝の近くまで歩き、なるべく揺らさないように小鳥を乗せる。

「大丈夫。ゆっくりでいいよ」

 小鳥は枝の上で体勢を整えた。片方の翼を広げる。もう片方の翼も、震えながら広げようとする。私は胸の前で手を握った。

「がんばって……」

 小鳥が飛び立った。

 けれど、次の瞬間、体は空へ上がらず、まっすぐ落ちた。

「あっ!」

 咄嗟に駆け出す。両手を伸ばし、地面に落ちる寸前の小鳥を受け止めた。

 小鳥の体が、手の中で震えている。胸の光は弱くなり、今にも消えそうに明滅していた。

「ごめん。ごめんね……!」

 何度も謝った。小鳥は鳴かない。ただ、小さく体を丸めていた。

 飛べなかった。

 飛びたいのに、飛べなかった。

 私は唇を噛んだ。

 自分は何をしたのだろう。この子が飛びたいと思ったから、飛ばせようとした。でも、それは本当にこの子のためだったのだろうか。それとも、私が早く試練を終わらせたかっただけなのだろうか。

 硝子瓶は、相変わらず空のままだった。

 手の中の小鳥を見つめる。小鳥はまだ震えている。その小さな体を見ているうちに、胸の奥で何かがゆっくり沈んでいった。

 違う。

 飛べるようにすることだけが、助けることではない。飛びたいと願っているからといって、今すぐ空へ放り出していいわけではない。

 私はしゃがみ込み、小鳥を地面へ置かず、自分の膝の上にそっと乗せた。

「ごめんね」

 今度の謝罪は、さっきより小さかった。

「私、飛ばせてあげなきゃって思った。でも、違ったのかもしれない」

 小鳥は目だけを動かして、私を見る。

「あなたは飛びたいんだよね。空へ戻りたいんだよね」

 小鳥の胸の光が、かすかに揺れた。

「うん。分かるよ。たぶん、すごく大事なことなんだよね」

 私は空を見上げた。そこに月はない。青くもなく、夜でもない。ただ色を失った空が広がっている。

「でも、今は飛べない」

 その言葉を口にした瞬間、小鳥の体がびくりと震えた。私は慌てて続ける。

「だめって言ってるんじゃないよ。もう飛べないって決めつけてるわけでもない。ただ、今は痛いんだと思う。怖いんだと思う。だから」

 言葉を探した。何を言えばいいのか分からない。けれど、分からないままでも、言わなければならない気がした。

「だから、飛べるまで、ここにいていいよ」

 小鳥が瞬きする。

「無理に飛ばなくていいよ。飛びたくなったら、そのとき一緒に考えよう。落ちそうになったら、また受け止めるから」

 小鳥は何も言わなかった。けれど震えは、少しだけおさまったように見えた。

 私は星型ポーチへ手を入れた。何か、この子が安らげるもの。そう思いながら探ると、指先に柔らかい感触が触れた。

 取り出したのは、小さな白い布だった。寝間着の袖口のようにも、雲を薄く切り取ったもののようにも見える、不思議な布。

「これ、使えるかな」

 近くに落ちていた細い枝と、柔らかそうな葉を集める。それを丸く組み、白い布を敷いた。

 見よう見まねの、小さな巣。

 上手とは言えない。少し歪んでいるし、枝も何本か飛び出している。それでも、小鳥を地面にそのまま置くよりはずっといいはずだった。

「できた」

 小鳥をそっと巣の中へ移す。小鳥は最初、警戒するように体を固くしていた。けれど白い布の上に座ると、少しずつ力を抜いていった。

「痛いところ、触ってもいい?」

 尋ねると、小鳥は小さく鳴いた。了承なのかは分からない。でも、さっきのような拒絶の声ではなかった。

 私はできるだけ慎重に、小鳥の翼を見る。羽の一部が絡まり、枝の棘のようなものが引っかかっていた。骨が折れているのかどうかは分からない。けれど少なくとも、その棘が痛みの原因の一つであることは分かる。

「これ、取るね。ちょっとだけ痛いかも」

 指先で棘をつまむ。小鳥の体が強張った。

「大丈夫。すぐ終わるから」

 息を止め、そっと棘を抜く。小鳥が短く鳴いた。

「ごめんね。でも、取れたよ」

 抜いた棘は、思っていたより長かった。それを見て、胸がぎゅっと痛くなる。こんなものをつけたまま、飛ぼうとしていたのだ。痛かっただろう。怖かっただろう。それでも、飛びたかったのだ。

 私は小鳥のそばに座った。

「私ね、友達と月に行きたいんだ」

 小鳥は巣の中で、静かにこちらを見ている。

「友達が行きたいって言ったから。私も見たいって思ったから。でも、たぶん、それだけじゃだめなんだよね」

 硝子瓶を膝の横に置く。瓶の中はまだ空っぽだ。

「月に行けたら、きっと綺麗だと思う。すごく、すごく綺麗だと思う。でも、そこに行くまでに友達が痛い思いをするなら、怖い思いをするなら、私はそれも見なきゃいけないんだ」

 言いながら、自分でも初めて気づいた。

 ハルクは強い。大きくて、賢くて、私よりずっと遠くを見ている。だから、どこかで思っていたのかもしれない。ハルクなら大丈夫だと。月へ行くために迷わないのだと。

 けれど、そんなはずはなかった。翼があるからといって、落ちるのが怖くないわけではない。空を知っているからといって、空に傷つけられなかったわけではない。

「あの人も、あなたみたいに痛いのかな」

 小鳥の胸の光が、ゆっくり明るくなった。私はそれに気づかず、言葉を続ける。

「飛びたいって言ってるから、飛ばせてあげればいいって思ってた。でも、本当は、飛べないときにそばにいることの方が大事なのかもしれない」

 小鳥が、ぴい、と鳴いた。さっきより柔らかい声だった。

 顔を上げると、小鳥は巣の中で体を起こしていた。胸の橙色の光が、ふわりと膨らんでいる。

「え……?」

 光は小鳥の胸から離れ、小さな火の粒となって宙に浮かんだ。

 火と言っても、熱くはなさそうだった。夕焼けを丸めたような、柔らかい灯だった。その灯は、ゆっくりと硝子瓶へ近づいていく。

 私は慌てて瓶を手に取った。火の粒は瓶の口から中へ入り、底にすとんと落ちる。

 次の瞬間、硝子瓶の中に小さな火が灯った。

 橙色の火。

 まるで、マリィの瞳のようだった。

「これが……庭の火?」

 呟くと、小鳥は小さく鳴いた。ありがとう、と言っているようにも、これでいい、と言っているようにも聞こえた。

「ありがとう」

 私は瓶を胸に抱えた。小鳥は巣の中で翼を少しだけ動かす。まだ飛べるほどではない。けれど、さっきよりも痛そうではなかった。

「飛べるようになるといいね」

 そう言うと、小鳥は首をかしげた。少し考えてから、私は言い直す。

「ううん。飛べるようになっても、ならなくても、あなたが怖くない場所にいられるといいね」

 その言葉に、小鳥の胸の光がもう一度やさしく瞬いた。

 すると、周囲の白い花々に色が戻り始めた。最初は一輪だけ。それから二輪、三輪。灰色だった花弁に、淡い黄色や薄桃色、青紫の色がにじむように広がっていく。石畳にも金色の光が戻り、遠くで風の音がした。

 閉じていた庭が、ゆっくり開いていくようだった。

「戻らなきゃ」

 私は立ち上がる。小鳥は巣の中から、私を見上げていた。

「また来られるか分からないけど、元気でね」

 手を振ると、小鳥は小さく鳴いた。その声に背中を押されるように、私は来た道を戻り始めた。

 帰り道は、行きよりも短く感じた。さっきまで怖かった白い花々は、今では私の足元を照らすように揺れている。硝子瓶の中の火は、歩くたびに小さく揺れた。けれど消える気配はなかった。

 東屋へ辿り着く。蔦に囚われていたはずのハルクは、テーブルを挟んで魔女と向かい合っていた。私を見つけた瞬間、ハルクの目が大きく開く。

「ひかり!」

 今度は声が届いた。透明な壁は消えていた。私はほっとして駆け出す。

「ハルクさん!」

「怪我はないか」

「はい。大丈夫です」

「本当か」

「本当です」

 どうやら安堵したのは、ハルクも同じらしい。その様子に、少しだけ笑いそうになった。

「本当に大丈夫です」

「……ならいい」

 息に混じる安堵が分かって、胸が温かくなる。

「見事ね」

 樹海の魔女が言った。

 私は硝子瓶を両手で差し出す。

「これで、いいですか」

 瓶の中では、橙色の火が静かに揺れている。魔女はそれを受け取ると、しばらく火を見つめた。水色の瞳に、火の色が映る。

「ええ。よく灯したわ」

「でも、私、最初は失敗しました」

「知っているわ」

 魔女はあっさり言った。思わず顔を上げる。

「見てたんですか?」

「この庭で起きることは、すべて木々が教えてくれる」

「だったら……」

 言いにくくなって、視線を落とす。

「私、あの子を一度落としそうにしました。飛ばせようとして、怖い思いをさせました」

「そうね」

「それでも、合格なんですか」

 魔女はすぐには答えなかった。瓶の中の火を撫でるように、指先を動かす。火は瓶の中で丸く揺れ、私の方へ一度だけ傾いた。

「間違えない者が、火を灯せるわけではないの」

 魔女は言った。

「間違えたあと、相手を見られる者が灯せるのよ」

 私は黙った。

「あなたはあの子を飛ばそうとした。あの子の願いを叶えようとした。それ自体は悪いことではないわ。けれど、願いはときに、本人さえ傷つける。だから隣にいる者は、願いだけを見てはいけない。その痛みも、怖さも、見なければならない」

 魔女の視線がハルクへ向かう。ハルクは何も言わなかった。けれど、その瞳はまっすぐ魔女を見返している。

「大鷲のハルク。あなたは月へ行きたい」

「ああ」

「空を飛びたい」

「ああ」

「なら、その願いがあなたを傷つけることも知っているわね」

 ハルクの表情がわずかに強張った。私はその横顔を見る。ハルクはすぐには答えなかった。

 庭園に、静かな風が吹く。

「……知っている」

 やがて、彼は低い声で言った。

「それでも、俺は行きたい」

「そう」

 魔女は頷いた。

「ならば、火はあなたに渡しましょう」

 魔女は東屋のテーブルに硝子瓶を置いた。そして、どこからともなく黒い小箱を取り出す。手のひらに乗るほどの大きさで、表面には細い銀の線で鳥の翼が描かれていた。

「これは?」

「空炉の種」

「くうろ?」

「空を飛ぶための炉よ。あなたたちの乗り物にこれを組み込めば、当たり前のものが燃料になる。そうね、マシュマロを入れたらいいわ」

 魔女が小箱を開ける。中には、小さな鉱石のようなものが入っていた。透明な石の中に、さっきの火と同じ橙色の光が揺れている。夕焼けを石に閉じ込めたようだった。

「マシュマロ、ですか?」

 思わず聞き返す。

「ええ。魔女にとって、マシュマロはとても近しいものだから」

「近しい……?」

「隣り合っているものは、案外遠くないのよ」

 魔女はそれ以上説明するつもりはないらしく、小箱の蓋を静かに閉じた。

「つまり、ここにあったのは燃料というより、燃料に変換するものだったわけか」

 自分に言い聞かせるように、ハルクが呟いた。

「これを使えば、月まで行けるのか」

 ハルクが問う。魔女は微笑んだ。

「月へ向かうことはできるわ」

「向かうことは?」

「届くかどうかは、あなたたち次第」

 ハルクは黙った。私も、その言葉を胸の中で繰り返す。

 月へ向かうことはできる。

 届くかどうかは、自分たち次第。

 魔女は小箱をハルクへ差し出した。ハルクは受け取ろうとして、ふと手を止める。そして、私を見た。

「ひかり」

「はい」

「受け取ってくれ」

「私が?」

「ああ」

 私は戸惑った。

「でも、これはハルクさんが必要なものです」

「俺に必要なものだ。だが、灯したのはひかりだ」

 ハルクは静かに言った。

「それに、俺ひとりでは受け取れなかった」

 何も言えなくなった。魔女は二人を見比べ、少しだけ楽しそうに目を細める。

「なら、ひかり。あなたが持ちなさい」

 私は両手を差し出した。

 小箱は、思っていたより重かった。中に入っているのは小さな石ひとつのはずなのに、手のひらに確かな重みが残る。

 願いの重み。

 ふと、そんな言葉が浮かんだ。

「落とさないようにしなきゃ」

 私が呟くと、ハルクが真面目な顔で頷いた。

「頼む」

「そこは、ちょっと冗談っぽく言ったつもりなんですけど」

「大事なものだ」

「分かってますよ」

 小箱を胸に抱えると、星型ポーチが淡く光った。まるで、しまう場所はここだと言っているようだった。

 ポーチを開けると、小箱はすっと中へ収まる。見た目よりずっと小さなポーチなのに、何の抵抗もなく飲み込んでしまった。

 ハルクはそれを見て、わずかに眉を上げる。

「便利だな、それは」

「私もそう思います」

 答えると、マリィが横でくすくす笑った。

 色を取り戻した庭園に、明るい風が吹く。花々が揺れ、光の粒が舞い上がった。けれど空には、やはり月はなかった。

 私は空を見上げてから、魔女へ向き直る。

「最後に一つ、教えてほしいことがあります」

「どうぞ」

「あなたの名前を、訊いていませんでした」

 その言葉を聞いた魔女は、ほんの一瞬だけ泣きそうな顔をした。水色の瞳が揺れる。差し伸べかけた手が、宙で止まる。

 けれどそれも、瞬きほどの間だけだった。次に私が見た彼女は、樹海の魔女だった。静かで、美しくて、遠い人。

「いいこと、ひかり。魔女というものはね」

 その言葉と同時に、庭園の奥から風が吹いた。花びらが舞い上がり、視界を白く染めていく。魔女の声が、遠くから聞こえた。その声は震えながらも、どこか楽しそうで、少しだけ儚かった。

「その真名を明かしてはならないのよ!」

 最後に見た彼女の表情は、美しい魔女のものではなかった。まるで同い年の少女が、悪戯を叱るみたいに、笑って歯を見せていた。

 次の瞬間、私とハルクは元の樹海の中に立っていた。

 目の前には、先ほど入った扉がある。けれど扉はひとりでに閉まり、木々の影に溶けるように消えていった。

 樹海には、湿った土の匂いと冷たい風が戻っている。私は星型ポーチに手を当てた。中には確かに、小箱の重みがあった。

「本当に、もらえましたね」

「ああ」

 ハルクは空を見上げる。樹海の枝葉の隙間から、わずかな光が差していた。月はまだ見えない。けれど、さっきよりも空が近く感じられた。

「ひかり」

 ハルクが呼んだ。

「なんですか?」

「ありがとう」

 私は少し驚いた。ハルクがあまりにもまっすぐ言うものだから、どう返せばいいのか分からなくなる。

「えっと……はい」

「ひかりがいなければ、きっと俺はこれを手に入れられなかった」

「そんなこと」

 言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 そんなことない、と言うのは簡単だった。けれど、それは少し違う気がした。私はあの小鳥の前で失敗した。考えて、迷って、ようやく火を灯した。だから、何もしていないわけではない。

 それをなかったことにするのは、小鳥にも、ハルクにも失礼な気がした。

「……どういたしまして」

 そう言うと、ハルクは少しだけ目を細めた。

「行こう」

「はい」

 私たちは樹海の奥へ歩き出した。

 月へ向かうための火は、ポーチの中で静かに眠っている。

 それはまだ小さな火だった。

 けれど私は分かっていた。

 この火は、ただ空へ昇るためだけのものではない。

 落ちそうになった誰かを、もう一度見上げさせるための小さな灯なのだ。

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